Notes of a Dirty Old Man

そう、精神の不安定の現われをしかと自分自身でも知りもせずに、
2008年の雄琴での無理な夜勤での結果で現れたろう抑うつ状態。
或るお医者に診断を得るまでは胸の内に巣くっていたものだろうと、
独り決めする。

その都度に踏ん切りを付けて書きものの仕事へ行けば良かったと、
思ってか思わずか、行きそびれ続けたこと。
小学校高学年でのある出来事がきっかけで。
その後ずっと持ち続けていた思い。
高校三年生の頃に思い決めて父に打ち明けたこと。
もちろん自分の能力が十分かは知りもしないでのこと。
うやむやに消え、想い望まぬ道へ父の思いのままに進んだんだけど。

私は四月まれで、学年が上がれば歳を重ねるんだけれど、
70年安保で荒れた2069年、上の学校の一年生19歳だった。
ロックアウトか、授業はほとんど無く、
有楽町駅近くの大きなビルの地下のラーメン屋でのアルバイトが、
記憶に鮮明だ。

落ち着いたは覚えがあるにしても二年生の記憶は定かならず。
20歳になっているだろうが、もう学校は退めていたのだろう、
縫製業での研修の為、青砥の或る工場にいたよう。

社長夫人が成人式に行けば良いと言ってくれたのを憶えているんだし、
当たり年の女の子たちには着物を用意してくれてたよう。
区民会館ででしたか、そんな気にもなれずに行かず仕舞いだった。
幾らか落ち着いたと思う学校に行ってた積もりがさにあらず。
もう敷かれたレールの上を歩きだしてた、のお話し。
自分が無い人間の見本だ。

学校の講師先生への相談も、文学は自分で勉強すれば良い、
がアドバイスだったんだから。埒も無い。
ポジティブシンキングなら、ダメな人生じゃ無く、
だから今の今に書き継いでいると思えば良いのだし、
2010年から12年へのブログサイトでの書き継ぎがあった。

先駆けての抑うつ状態との自覚があり、
通院服薬のお陰やら、
何者からの、何故かも知りませんが、
長く苦しい生活を送って来た私への慰めでしょう。

09年の年初の酒に手が行かなくなったことがあり、
夏頃には霊気との出逢いにつながった。
長い月日を手を当てることを続けていると分かるのだけれど、
身体だけじゃ無く心が癒され楽になる。

書きものに一区切りをつけて、12年の夏にはミャンマーへ出掛け、
二年程を過ごした。
帰って後にまた瞑想との想いを捨てられず、
15年年末に出掛け、体調不良で16年年初に帰国した。

ひとつの時代が終わった。
パソコンは持ち込めぬが決まりで、
手書きの書きものが、その時の記念で今もあるけれど、
陽の目を見らせることは出来ないでしょうね。
汚い字で判読に苦労するばかりでしょうから。

京都には帰れず仕舞いで、大阪の西成に足止めを喰らった。
17年年末に或るフィリピーナと出逢い、マクタンセブへの道筋を貰う。
お互いの言葉の理解不足でその時は知らずにいた、私が思いもしないこと。
翌18年の四月に出掛けたけれど、
彼女の妹を目掛けて出掛けたにしても結婚や同棲なんて思いの外のこと。
それなりの話しに成りにけり。

でも気候や人のホスピタリティーですか快く、
初めての経験で舞い上がったのも有るでしょうが、
数度の出入りがあったけれど、一度目の長期滞在が19年の二月まで続いた。
詰まらないトラブルでの手元不如意、仕方なく帰ったんだけれど。

フィリピンへの想い病み難く、
同年十月末にまた出掛け、コロナの加減で20年の七月に帰ったんだけれど、
いつもはマクタンに居るんだけれど、
大きな街だしコロナがどんなになるか分からないから、
と友達にはダメだって止められたけれど、先にはセブシティーにもおり、
地の利もあったので友達にも逢いたくて三月の中頃から六月の中頃までと、
期限を切って三ヶ月程いたんだけれど、自分では動きが取れなくなり、
マクタンのいつものホテルのパパにピックアップして貰い何とか帰った。

全てはコロナの加減で、
飛行機に乗るにも役所関係のペーパーが必要とのこと。
友達に助けて貰ってあっちに行ったりこっちに来たりで何とかゲットして、
七月の七日に何とか飛行機に乗った。
二度目の長期滞在が終わった。

そう、セブシティーにいた三ヶ月程の内のこと。
大きなサントニーニョ教会の近くの同名のレジデンスに住んでいて、
時々の金の音に癒されておりましたが、四月の頃でしょうか、
うつらうつらしていた時と思いますが、或ることを調べて書きなさいとの、
畏いなるものの呟きを聞いたと思ってるし、
それに続けて帰国した後の20年末より呟きには違えるのですが、
筋書きを考える所から始まる書きものへの取り組みが始まったし、
編集の日々も始まったのでした。
~~続く

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