自我と無我

先日、自我とは何かと話す機会がありました。




その時に私自体も感覚的な捉え方があったので、もう少し言葉として伝えるにはどうよいかと思い、今回よい機会なのでブログでお伝えさせていただきます。




まず自我の捉え方の視点があると思います。




「自我の我とは」

「私が、私は、私の、私に、」
という私に繋がる表現です、



つまり「私」を追求することになります。



その結果「今の私が思うままの選択」を続け、その経験が自信やプライドに繋がってきます。




ここで「自我を知る経験」はできます、自我を知るか、知らないかでは大きな差になるのも事実です。



なぜなら自我を知り、無我を知ることにも繋がるからです。





成長しつづけた自我の芽はいつしか大きく育ち執着となり、「私」の表現のみになっていき、





自分だけではなく他人に対しても出てきます。

「私がこんなに思ってるのに!」
「私がこうなったのもあなたの責任!」
「私はあなたを許さない!」
「私のことを知らなすぎる!」




などの、フォーカスするベクトルが「私」になり、それはスポットライト浴びてる感覚にも似てます、人の意見や考え方、繋がる想いを素直に受け取ることもできなくなってきます。




しかし、成長続けた自我は折れる瞬間が必ず訪れます、




ここからは私の経験を元にお伝えしますね。



「自我の経験」

私自身も「これが自分だ!」というのがあり、自分が思う好きなことをして、別に他人に迷惑かけてるわけじゃないし、いいだろと思ってました。




ある時に自分の自我と他の人の自我が激しくぶつかり合う瞬間がありました、





しかし相手の感情、思いが強く私の自我はポキッと根元から折れてしまいました、





あっけないものです。






そして折れてはじめて知ります。





あれほど「これこそが自分だ!」と信じてたのがあっというまに折れて、私が否定されてるように感じに陥り、まるで焼け続ける心はただれたような状態になり、





感情を引き剥がすこともできず三日三晩に渡り、苦しさ、悲しさ、寂しさ、怒りに似た嫉妬が渦となり涙が止まりませんでした。





楽しいことに集中したら忘れられると思い、自分にとっての楽しいことをやっても、なぜか虚しさになるだけでした。





「私は何なんだろう、一生理解されない」などと卑下にもなってました。





私のプライドや意地、やってきたことが裏付けとなり自信、信念と思ってたのが崩壊したのちに残ったのは…




深い苦しみでした、それとともに自分ってこんなにも弱かったんだなぁ〜という「自分の弱さ」に気づきでした。





「弱い私」に出会えたのです。




そして自分だというプライド、意地、自信、信念これらの思い込こみや、人からどう思われたい、もしくは思わせたい執着があることにも気づきました。





その時に自我とは、「自信と強さを打ち出した私」ではなく「そう見せたかった、またはそう思いたかった私の弱さと執着」であることを知り、





それは他人に迷惑かけなければとよしと思っていたことすら、実は自我の押し付けをしてたこともにも気づきました。





そして、この弱い私を認め、受け入れた時に新しい視点の扉がありました。




「強い自分」とは何か?

です。


今は情けないくらい弱い私ですが、弱い私を受け入れ、信じた先に強い私に出会えるのではと思ったのです。



ここまでで、自我が自分の作り出した執着であるならば、執着に囚われない心に辿り着かなくてはないないことを知りました。





さらに、味わった感情の経験を大切にしながら快楽や苦しさに縛られず、自他に対する比較となる相対感に引っ張られず、引っ張らない揺れない心が重要なことも知りました。




なぜ、快楽に縛りがあるのかというと、楽しいも必要以上に望む場合、それが無くなった瞬間楽しめない苦しみに変わるからです。



このことを知ってくると、強い自分とは何かが少しずつ見えてきました。



それは自分を取り巻く感情や思いを統率し、常に心穏やかであり、執着に囚われない、ここに辿り着きます。



すると、あれほど燃え続けていた感情と思いの火が心から消えていきます。




そしてポキッと根元から折れた自我の下から新しい芽が生えてきました。

それは、




「全ては現象である」

という芽です。

例えば「コップが割れた」という出来事があった場合、




現象としては「コップが割れた」だけなんですが、




その起きた現象に対して

「危ない!」
「怪我がなくて良かった」
「お気に入りのコップだったのに」
「片付けが大変」




などの様々な個々の感情や思いが起こります。




これは感情から起きる相対感(他人、出来事との比較)であって、それを個々がもつ感情の物差しで計りあってるという証でもあります。




その中で経験を元に、他と比較して気に入った部分や執着を自分という自我にしてるにすぎないという視点にもなります、つまりこの自我とは他との比較を見て作られた我であり、自分を見て作った我ではありません。

であるが故、常に他を意識し、他に流され、他に心の渇きを求めてしまいます。




その中で起きた現象に対して「私」だと当てはまる感情や思いを、選択した連鎖が「私という自我」を作り出してるというわけです。



しかしこのことは視点の認識を変えないかぎり気づくこともありません。



であるのならば、他との比較の中で自分を選択しなくてはならない世界が当たり前に思えてしまいます。



それは、私自身も現象が起きてるだけなのに、そこから繋がる相対感の中から、魂の方向性やカルマの影響を受けながら「自分っぽい」と思い込んだ感情や思いを選択してるのを「私」だと思っていたということです。

では「本当の我」とはどこにいるのでしょうか?
それは相対に揺れるのではなく、自分の弱さを認め相対が起こす比較に囚われない「絶対軸」となる我(無我)と出会うことです、


もう少しお伝えするならば、自分の弱い部分が気になるから他と比較するわけです。


弱い自分を認めることで、そこに対する背伸びや縮こまりが気にならなくなります、なぜなら分相応を知った等身大の自分だからです。


 

なので、本来感情や相対感によって臨場感ある大きな学びができますが、囚われるのではなく、そこを越えた奥には「心の静寂と平穏」という「無我」となる認識があり、「心の世界」をさらに広げて、「調和なる光」としていく学びがあるのではないでしょうか。




心の探究をするようになってから知りましたが、仏陀の説く「法」とは心を慈悲まで導く教えだけでなく、それを体験、体感しながら学べる哲学的な悟りでもあることに、少しずつですが感じてきました。



この「無我」もその一つであり、
後世で人間がこのことに気づいた時に、
個々の魂の輝き方によって捉え方の差はありますが、自我からエゴを抜いた我の領域とは何なのかを導いてくれる心の光道です。



「真我、偽我」

という言葉があります。



偽我とは偽物の我=自我であり。



真我とは本当の我=無我であり、魂の個性である。



魂の個性とは永遠の時間の中で学んできた魂の智慧と愛であり、魂として歩んできた方向性です。



我なる真の姿は無我の領域にあって、自分に向けた幸福の生き方ではなく、他の幸福を我の幸福とする生き方です、そして常に私たちがこの領域へ辿り着く心の道として試されてます。




最後に、感情に蓋や感情を薄くして自我にも辿り着きにくい方もいます。




しかし、それには必ず個々の理由が存在します。




急に蓋を開けると感情が溢れて出て制御できなかったり、




薄くしてる中に濃いのを入れると感情への対応ができなくなります。




なので、まずはそんな自分がいることを知り、そこから心とは何かを学んでいくことが大きな一歩になります。


このブログが、小さな一歩となるきっかけになったとしたら、それは私の幸せでもあります。

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