見出し画像

アフリカは冒険じゃなくて生活だよ

7月半ばまでウガンダです🇺🇬

今週もこんにちは。思うことあり、長め&気合の入った記事です💪アフリカと日本を行き来する暮らしについて。よければお付き合いください。

冒険と探検のあいだ

先日面白い記事を読みました。あるカメラマンの方が洞窟探検と向き合った半生を書いた記事です。特に印象的だったのが、冒険と探検は違う。冒険は「危険を冒すこと」で探検は「未知の領域を踏査すること」。洞窟探検は探検であって冒険ではない、という書き出しでした。

これ、本当にそうだと思うのです。アフリカで働くのも同じ。「危なくない? 怖くない?」と呆れられることもありますが、危険な思いがしたいわけではない。

僕は30歳で、本が好きで、ただ面白いから、アフリカと日本をひと月単位で行き来する今の仕事をしています。どう説明したもんかと前から悩んでいました。

ウガンダ北部はアチョリ地域
東部に行くと山があります⛰

あるネットニュースを読んで

そんな折、また別の記事を読みました。ある芸能人(以下Aさんとします)がアフリカのある国についてネット番組で発言・炎上したという記事です。個人名は伏せますが、Aさんの発言は次のようなものでした。

・その国では、内戦の影響で半分の人に腕がない。
・その国では、子どもたちの目が完全に死んでいる。子供たちのお父さんお母さんは子どもの時に人殺ししか学んでいない。

この発言に対し、その国で活動するNGOの方が「内戦で腕を切られた人は国民の1%以下であり、子供たちみんなが絶望している訳ではない」と訂正を求めたとのこと。

Aさんの発言は配慮を欠いたものでしたが、ここでは踏み込みません。ただAさんは今までいろんなアフリカの国にロケで訪れてきたそうです。ウガンダも来たことがあるらしい。別のインタビューではこう話していました。

僕、人間みんな同じやと思うてるんです。だから同じ目線で話しかけると、言葉がわからなくても、難しい話じゃなければ、だいたいのことは通じます。

素敵な考え方です。同時に思いました。なぜこの考え方ができる人があんなことを言ってしまうのか、と。

サツマイモ、葉物野菜の卵とじ、落花生と胡麻のペースト
アチョリ飯の定番です!


色々考えて、僕はAさんが「面白いこと」を言おうとしたのだと思いました。「半分の人が腕を切られた状態にあること」「子供たちの目が死んでいること」が番組にとって彼は「面白い」と判断したのだ、と。

そう発言すれば、「アフリカはヤバい場所」というイメージが作られます。ヤバい場所に行くことは冒険になり、冒険することはショーになる。ショーは話題性(撮れ高)になります。Aさんは番組の趣旨を理解し、タレントとしての使命を忠実に果たそうとしたのかもしれません。「面白い番組」を作るために。

でも、こうも思いました。それって本当に「面白い」だろうかと。

過激であればあるほど面白い、のか

この面白さは「日本とアフリカは違う」というところから来る面白さです。違えば違うほどヤバい、ヤバければヤバいほどおもろい。極端な話、魔界や地獄に行けばもっと面白い。そういうタイプの面白さです。

それを否定するわけではない。でも、ただ違うこと=断裂を面白がるのは、面白さとしては貧しいと思います。なぜ貧しいかというと、それは、刺激が強ければ強くなるほど面白くなる種類の面白さだからです。

この面白さを突き詰めると、刺激を競い合うゲームになる。刺激にはすぐに飽きが来ます。ブレヒトの戯曲「三文オペラ」では、乞食がいかに通行人の同情を引くかという手練手管を話すシーンで、こんなセリフが出てきます。

何か新しいことをやらかさなきゃいけません。私のビジネスはひどく難しい。なぜって、人間の情に訴えるのが私の商売ですからね。(…)だから例えば、ある人が片方の腕がとれて先がすりこぎみたいになっている男を見て、最初はびっくりして十ペンスやる気になったとしましょう。ところが二度目はもうせいぜい五ペンスになる。三度目にそいつを見たときにゃ、冷酷無情にも、その男を警察に引き渡しちまうでしょう。

ブレヒト. 三文オペラ. 岩波文庫, 2006, p.14-15.

もっと過激なものを。もっと危険なものを。それを冒険と呼ぶのなら、冒険は僕の仕事じゃない。知らないよ! と思ってしまいます。そんなことのために僕はアフリカにいるわけではない。ふと思ったんだけど、僕は僕なりにAさんの発言に怒っているんですね。

冒険じゃない、それは

じゃあどうすりゃいいんだと言われるかもしれません。みんな同じ人間と言えばそれでいいのか。そういうお前もnoteでアフリカと日本の違いを書くじゃないか、綺麗事言うなとツッコまれそうです。冒険じゃないなら何なんだ?

だが、答えはある。それは生活です。


毎朝の通勤路。雨季なので地面が濡れています🌂

僕の原点は大学院の調査で住み込んだブラジルのスラム街ですが、そこで学んだのは、それまで自分を苦しめていた偏見や思い込みがいかに狭い環境・社会のものだったかということでした。

卑近な例ですけど、僕は前髪がS字型に曲がっているんです。櫛を入れてもなでつけてもクネっと歪む。それが好きじゃなかったのですが、ブラジルには太い毛髪の人が多く、「あなたの髪、細くていいね」と言われて驚きました。なんだ、僕の髪もいいんだ、と。違いに助けられることもあります。

大事なのは、「日本とアフリカとは違う」ではなく「日本とアフリカは『同じなのに』違う」ということなのです。このカッコがすごく大事。同じ人間であるという前提がないと相手は完全な他者になり、ボートが潮に流されるように分断は加速していきます。

でも「同じ人間なのに」と思えれば、違いは気づきになる。それは「自分もこうなれるかも」「こんなやり方もあるのかも」という気づき。僕の知らない、僕自身の豊饒な可能性に対する気づきです。

違う物の見方に出会った時、例えば「あなたの髪、まっすぐでいいね」と言われた時。世界はひとつの詩篇との出会いのように僕の背筋を伸ばして、少しだけ遠くの景色を見せてくれます。今までそのことにどれだけ救われてきたか。

もちろん違いは綺麗事ではない。ぶつかることもいっぱいあります。そこは時間をかけて肌に馴染ませていくしかない。時には摩擦を起こしながら他者をゆるやかに受け入れていくその過程こそが生活なのだから。

アフリカをヤバい場所とする冒険は相手を分断して遠ざける。でも、互いの同じと違うを洗い出し、押したり引いたり、話し合ったり話し合わなかったり、そんな生活はもっと微妙な距離で長期的に相手と向き合う作業です。

同時にそれは家族や友人や同僚とだれもがやっているありふれた挑戦でもある。だからこそ言いたいのです。アフリカも一緒だよ、何も変わらないよ、冒険じゃなく生活なんだよ、と。



生活。それは他者とのつながりの中で自分をしずかに満たしていく試み。消耗ではなく蓄積を指向する営みです。これほど争いが起きていてなお世界はその可能性にひらかれた場所だと信じています。

知らない国や人をヤバい場所と決めつけるよりも、相手の当たり前を知って自分の当たり前とぶつける方がずっと面白いのに。なぜなら、それは新しい自分に出会い直すことだから。そういうことを二つの記事を読んで考えました。

皆さんもアフリカに行きたくなったら教えてください。相談は乗れなくても面白がって話を聞くことはできるかも。少なくともウガンダは意外と涼しいし、ごはんも美味しいよ。あと空も広いです。そんなおさそいでした。


夜明けです。きれいですよね〜〜
それでは、また来週に!


(おわり)

▼▼前回の記事▼▼


この記事が参加している募集

#旅の準備

6,496件

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?