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【おすすめ本】フェルナンド・デル・パソ/帝国の動向

長い小説は好きですか。僕は好きです。だらだら長いのはイヤだけど、長篇には、短編にはできない仕事ができる。僕は読書が登山に似ていると思っていて、よい長篇を読み終えた嬉しさや爽快感は、登山家が高い山の頂上にたどりついた気持ちに似ているんじゃないかと勝手に想像しています。

▼▼今回の本▼▼

何が言いたいって、この本が長かったのです。文字びっしりの単行本で850ページもある。1987年に刊行されたこの歴史小説は、2007年には作家投票の「直近三十年間で最高のメキシコ小説はどれか?」で第1位にも選ばれた名作であり、訳者の寺尾隆吉さんによれば「この小説ほど一国の、いや、スペイン語圏全体の歴史観を劇的に変えた作品は例を見ない」(p.856)。

ラテンアメリカ文学は、日本だとまだまだマイナーだけど、こんな本もあるんだと思ってもらえたらそれだけでとても嬉しいです。

作者のフェルナンド・デル・パソは1935年メキシコシティ生まれ。三十歳すぎにデビューしたが、長篇の刊行ペースは十年に一作という寡作ぶりで、長篇は生涯に四作しか発表していません。文学と歴史を愛したひとで、本作ははじめて歴史への情熱が文学への情熱を上回った作品だと話しています。

作品の舞台は1861-1927年。主人公はオーストリア大公マクシミリアン夫妻で、この二人が債務不履行におちいったメキシコに、フランスなどの後ろ盾もあってヨーロッパから「皇帝」として派遣されます。

ところが、メキシコにとって夫妻はヨーロッパからの侵略者。夫のマクシミリアンは暗殺され、それとは対照的に、妻のシャルロットは狂人となり、なんと半世紀以上も生き延びることになります

一章おきに挟まれるこのシャルロットのクレイジーな独白がすごくて、愛情と憎悪の間を1ページごとに行き来する。その中で一貫しているのは、夫のマクシミリアンへの異常な執着です。

私はあなたの骨も肝臓も腸も食べたい、この目の前で料理してほしい、まず猫に毒味させて安全かどうか確かめたい、あなたの舌も睾丸も食べたい、あなたの血管で口をいっぱいにしたい。

フェルナンド・デル・パソ. 帝国の動向.  水声社, 2021, p.313.

「嵐が丘」的でもあるし、「チェンソーマン」的でもあるこの異常な執着にはもうひとつ対称性があって、それは歴史が、マクシミリアンをつい最近まですっかり忘れ去っていたこと。

ああ、マクシミリアン、今あなたがケレタロに来てみればわかるわよ、(…)鐘の丘の斜面で流されたあなたの血は何も生み出すことなく、風と共に失われ、歴史に掃き捨てられ、メキシコから忘れ去られたのよ。

同上、p.702

彼は、率直に言って「ヨーロッパ列強のあやつり人形にされて政治の才覚があるとうぬぼれたお坊ちゃん」という色合いで書かれていて、その暗殺も悲劇というよりはどこか喜劇的。だからこそ、歴史に忘れられたマクシミリアンと、マクシミリアンを忘れないシャルロットの対比が小説として絶妙なバランスを保ちます。

寺尾さんが上で言っているこの作品の功績とは、まさにマクシミリアンを描くことでこの忘却から救い出したことであり、最近のメキシコでは、この小説のおかげでマクシミリアン夫妻を知っている人が増えたのだそうです。愛と幻想、現実と虚構のかかわりを考えるうえでも奥深い作品と言えます。

(終)

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