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その名はカフカ Disonance 11

その名はカフカ Disonance 10


2014年9月ブダペスト

「社長、ご来客です。お約束はしていないそうですが」
と言って守衛のゾルターンがカーロイの事務室に顔を出したのは、午後四時半を過ぎた頃だった。ちょうどカーロイはデザイナーの一人と彼の新しい企画の製図を前に討論をしていたところで、「今、面白いところなんだが」と思いながらゾルターンに
「お名前はいただいたのかい?」
と聞いた。ゾルターンは
「名乗っていただけませんでしたので。あ、外国の方です。身なりはちゃんとした、若い人ですよ。とりあえず玄関の来客用のベンチに座ってもらってます」
と言った。カーロイは「名乗らない突然の来客、か」と一瞬考え、デザイナーに
「残念だが、続きは明日にしよう。良かったら明日までにその斬新すぎる脚のデザインの別案を考えておいてくれるかな」
と告げ、デザイナーの後に続いてゾルターンと一緒に事務室から出た。
 カーロイの事務室のある階から玄関のある階下まで吹き抜けになっており、事務室から出ればすぐに玄関脇の守衛の詰所と来客用のベンチが見下ろせるようになっている。ゾルターンが描写したとおりの、スーツを着てネクタイを締めた、身なりだけはビジネスマン然とした三十前かと思われる若い男がベンチに座っていた。カーロイの目には、初めて見るその男が商売人ではないことは一目瞭然で、男が何を生業としているのかも見て取れた。
 ゾルターンは、デザイナーが廊下の端の階段のほうへ消えると、鼻をふんと鳴らして
「とうとうこっち側の領域にも、この類の人間が侵入してきてしまったな。どうする?」
と、先ほどまでとはがらりと口調を変えてカーロイに言った。カーロイは
「いずれはそうなるだろうとは覚悟していたさ。だからこそ、君を門番として置いているんだろう?」
と返して、暫く男を観察した後、
「下の応接室を使おう。お茶なんか出しても喜んでくれそうにないが、用意してもらえるかい?私もすぐ行くよ」
と指示を出し、事務室に戻った。

 カーロイが応接室に入って行くと、来客は中央の丸テーブルの側に立ったまま待っていた。カーロイは「うちの製品が似合わない典型のような人だね。アダム以上に、似合わない」と思いながら、とりあえずハンガリー語で挨拶をした。男は敬礼でもしかねない雰囲気だったが、
「突然のご訪問、申し訳ございません」
とあまり上手とは言えないドイツ語で謝罪し、頭を下げた。カーロイは男を観察しながら「ロシア語に切り替えてあげても良いのだが、相手の意向を尊重するのも悪くはあるまい」とドイツ語で続けることにした。
 カーロイは、あえて握手は求めず
「お名前をまだ伺っていないのですが?」
と聞きながら椅子を勧め、自身も男の向かい側の席に着いた。
 男は硬い表情のまま
「ロシア連邦陸軍中尉アントン・ボグダノフと申します」
と名乗り、続けて
「この二年ほど、アレクサンドル・ニコライェヴィチ・ティモフェイェフ大佐の警護を務めております」
と言った。カーロイは表情を変えず、アントンを観察し続けた。アントンはサシャの名前を口にした途端、心なしか顔が青くなった気がする。このように外部の人間の前でもサシャをロシア軍においての階級を付けて呼び続けているのも興味深い、しかもサシャは2001年以降も昇級しているではないか、と思考を巡らせながら
「それで、ご用件は?」
とだけ聞いた。アントンはカーロイがまず「その、ティモフェイェフさんとは誰ですか」としらばっくれるとでも予想していたのだろうか、ますます青い顔になり、動揺を隠せないようだった。カーロイは「少なくともサシャの監視役に使われている人間は、スパイ教育を受けたGRUのメンバーではない、ということか?」と心の中で自問した。
 アントンは、カーロイの目から視線を逸らさないよう懸命な努力をしているとでも言うかのような表情をにじませながら、口を開いた。
「私は、大佐がハーグに派遣されていた頃、貴方が大佐のご同僚だったことを存じ上げております」
「彼がICTYで働いていたことは、秘密でも何でもないでしょう。ご存じでも不思議ではないと思うが」
「そんなことはありません。私たちは上官が過去にどのような任務を担っていたのかは知らされていません」
「私はあの頃、彼は既にロシアの軍事機関は退職している、と伺っていました。違うのですか?」
 カーロイの問いに、アントンの視線が一瞬泳いで、またカーロイの目に戻った。
「貴方は、ICTYを大佐とほぼ同時に辞職されている。とても親しくされていた、という理解で間違いないでしょうか」
「中尉殿、私の質問に答えるおつもりがないのなら、それも結構。しかし、上官の過去を探るためだけに、わざわざここまでお越しになったのではないのでしょう。ご用件を、お聞かせいただけますか?」
 いつまで経っても冷ややかなカーロイの態度に、アントンはますます落ち着かなくなってきたようだった。サシャの部下だと言えば歓迎されるとでも思って来たのだろうか、と半ば呆れながらカーロイは目の前の軍人を見つめた。カーロイはこのような態度を取っている時の自分が、いかに他者の不安を、時によっては恐怖心を掻き立てるのかを心得ていた。しかし、それがロシア陸軍の士官にこう易々と通用して良いものだろうか。サシャの話によれば、GRUに採用された軍人でも、ある一定のレベルに達しなければ国外には派遣されず、国内の仕事に従事することになるらしい。ではやはり、この中尉はGRUではなく単に軍隊からサシャの見張り番として一時的に国外派遣されたと考えるのが妥当なのか?
 終始表情を動かさないカーロイを見つめながら、アントンは暫く口を一文字に結んで黙っていたが、再び意を決したように口を開き
「大佐が、行方不明なのです」
と重々しく言った。カーロイは眉一つ動かさず、一呼吸分の間を置いた後、
「それで、中尉殿は今、私服に身を包んでヨーロッパ中の大佐の昔の知り合いをしらみつぶしに当たっているのですか?大変効率の悪い手段のように見えるが、上層部からの命令なのですか?」
と聞いた。
「現在、大佐の傍に置かれている人間の中では、貴方と大佐の繋がりを知る者は、私しかおりません」
「少し調べれば、彼と私が同じ期間ハーグで働いていたことは誰にでも簡単に分かるはずです。先ほどから、私たちの過去を知っていると繰り返されているが、それで貴方は何が言いたいのです?」
「私は、大佐を深くお慕い申し上げております。大佐は素晴らしい人格と実績の持ち主でいらっしゃいます。私は、思いつく限りのあらゆる手段を使って、大佐を安全に保護したいのです」
「今度も、質問には答えていただけないのですね。答えられないと言うのなら、それも良しとしましょう。貴方は大佐を安全に保護したい、とおっしゃる。つまり大佐は今、危険に晒られている、とお考えですか?その上で、このようなところまでお越しになったのですか?」
 カーロイは改めてアントンの顔を見据えると、うっすらと笑った。
「中尉殿は、何か勘違いをしておられるようだ。私のこの小さな会社は、世の中のあらゆる危険と言われる事柄とは無縁の存在でしてね。ましてや国際軍事などとは一切関係ない。非常に、非常に迷惑なのですよ、貴方のような立場の方に足を踏み入れられるのは」
 カーロイの言葉に、アントンは目に失望の色を浮かべた。カーロイは音もなく立ち上がると
「お引き取り願えますか、中尉殿?」
とアントンを見下ろしながら言った。アントンは、ぎこちなく腰を上げ、カーロイに向かって一礼してからドアのほうへ向かった。カーロイはアントンの背後から前に回って、アントンに完全に背を向けないようにしながらドアに近づき、アントンを先に通すべくドアを開けた。
 カーロイがアントンの後に続いて応接室を出ると、応接室のドアから十メートルほど先にある玄関に隣接する守衛の詰所の前で、ゾルターンとペーテルが談笑しているのが見えた。
 二人が応接室から出てきたのを見て近づいてきたゾルターンにカーロイは
「お客様を、お見送りしてもらえるかな?」
と指示を出し、アントンとゾルターンの遠ざかって行く背を見ながら、一人で詰所の側に立っているペーテルに手招きをした。ペーテルは玄関の外へ向かうアントンとゾルターンに道を譲ってから、嬉しそうな顔をしてカーロイの傍まで来た。
「ペーテル、よく来たね。ここに顔を出すのは久しぶりじゃないか」
「家にはみんないるから、父さんと話したいならこっちかな、と思ってさ」
「レンカがお前のことで電話をくれたんだよ。だからきっと来るだろうと思っていた」
 カーロイがそう言うと、ペーテルは少し照れくさそうな顔をした。カーロイは微笑みながら
「お前には話しておかなくてはいけない事がたくさんあるんだが、その前にまず、今出ていったお客さんの印象を教えてくれるかな?」
と聞いた。ペーテルは一瞬の間も置かず
「軍人さんだね。国はどこだろう?とにかくハンガリー人ではないし、西の人でもない。スーツも似合わないけど、軍服もあんまり似合わない気がする。頭は良さそうだ。そうとう切れるんじゃないかな。今、すっごく動揺しているような顔をして出て行ったけど」
と言うと一旦言葉を切り、それから
「あれは、演技だ」
と断言して、ニヤリと笑った。
 ペーテルの言葉を聞いて、カーロイは声を立てて笑い出したい衝動をかろうじて抑え、
「ペーテル、素晴らしいよ、上出来だ。おいで、とりあえず私の事務室で話そう。時間があるのなら、後で二人でどこかに食事に行ってもいいね」
と言うと、先に立って階段のほうへ足を向けた。
 ペーテルはますます嬉しそうな顔をしてカーロイの後を追いながら
「家で母さんがもう晩ご飯の準備に取り掛かってるかもしれないよ」
と注意した。カーロイは顔を少しペーテルのほうへ向けて
「それなら今のうちに電話をしておこう。ペーテルとご飯を食べに行くと言ったら、お母さんは焼きもちを焼くかもしれないが、きっと許してくれるだろう」
と言って、微笑んだ。


その名はカフカ Disonance 12へ続く


『Viditelnost hranice jedné duše』 Agave (Hahnemühle) 22 x 30 cm、水彩
最初の短編に描いた水彩画の構図の発展型、のつもり。



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