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その名はカフカ Disonance 10

その名はカフカ Disonance 9


2014年9月ブカレスト

 早朝にプラハを発ち、ブダペストに立ち寄ったレンカがルーマニアの首都ブカレストの郊外にある国際空港に降り立った時には、腕時計の針は午後二時数分前を指し示していた。しかし離陸したハンガリーとは一時間の時差があるのだから、現地時間は既に午後三時前、ということになる。出口へ向かいながら時計の時間調節をしようとしたレンカの視界の隅に、出口の近くに立っているヴァレンティンの姿が映り、レンカは今自分が何をしていようとしていたのかも忘れ、口を半開きにしたまま、その場に立ち止まった。レンカをブカレストに呼び出したのはヴァレンティンだったし、この後落ち合うことにはなっていたが、まさか本人が空港まで迎えに来るとは、レンカは全く予想していなかった。ヴァレンティンはレンカに「何をやっているんだ、僕はここだ」とでも言っているかのような顔で首をかしげて見せた。一瞬で我に返ったレンカは、足早にヴァレンティンのほうへ向かった。
 レンカが傍まで来ると、ヴァレンティンは少し呆れたような顔をして
「ようこそ、ブカレストへ。僕は君に変なところで立ち止まってほしくなかっただけで、走って来てほしかったわけではない」
と言った。
「別に走ってなんかないじゃない。あなたが来ると思ってなかったからびっくりしただけよ」
「君は空港に着いたら黒ずくめの僕の部下が君の肩を叩いて『Bine ai venit în București, doamna Hartmannová!』なんて話しかけてくるとでも思っていたのかい?」
「なんで黒ずくめなのよ。私の想像力って、あなたから見てそんなに陳腐なのかしら。会えて嬉しいわ」
 ヴァレンティンはレンカの最後の一言を聞いて楽しげに微笑むと
「不愛想の権化のようだった君からこのような台詞を聞ける日が来るとはね。しかも僕たちが最後に会ってからまだ一ヶ月と経っていないというのに。いや、嬉しいよ」
と言った。レンカが少し頬を赤らめて
「知らない街で一人にされずにすぐに会えて良かったっていう意味よ。何から何まで癪に障る言い方をする人ね、あなたって」
と返すと、ヴァレンティンは更に愉快そうに
「正直なのも、尚よろしい。では行こうか。近くに車を止めてあるんだ」
と言って、先に立って歩きだした。
 レンカは小走りに追いついてヴァレンティンの隣に並ぶと、努めて小声で話しかけた。
「あなたまさか、この街でも『裏社会の人間は僕しかいないから隠れる必要はない』なんて言うんじゃないでしょうね?」
「似たようなものだ。裏社会の人間は山のようにいるが、敵はいない、仲間ではない人間ともお互い見て見ぬふりをし合っている、と言ったところかな。自分の家の中で逃げ隠れしてどうする。君にとってのプラハのようなものだ。君もプラハ市内では逃げも隠れもせず百パーセントの安全が保障されているじゃないか」
「あなたがご両親と西ドイツに亡命したのは子供の頃だったって聞いてるけど?」
「僕が七つの時だった。確かにここに戻ってきたのは共産政権崩壊後だが、もともと自分の家だったところを再び自分のものにするのは大して難しくない。さあ、乗りたまえ」
 ヴァレンティンはそう言うと七十年代を彷彿とさせるようなモデルのBMWを指し示した。
「あなたも、こういう趣味の人だとは思わなかったわ」
「アダムの悪趣味に付き合わされている、と言ったら君は納得するだろうか。僕は車には頓着しないんでね、アダムが選んでくれているんだ」
「それは知らなかったわ。あなたも、見たことあるの?アダムのコレクション」
 そう聞きながら、レンカは助手席に乗り込んだ。ヴァレンティンも運転席に乗り込み、それから返事をした。
「もちろんだ。彼の自宅の地下のガレージの車の数々は、何て言うんだろう、個人が所有する台数としては、常軌を逸している気がする」
「私もちょっと理解に苦しむのよ。それだけ、好きなんだろうけど」
「そうだね。もし僕が彼の車を君が五月にしでかしたような手法で破壊してしまったら、きっと半年は電話に出てくれないだろう」
「あら、私は『お前が生きていさえすればいいんだ』って言って抱きしめてもらったわよ?」
「当り前だ。君は自分を何だと思っているんだ」
 ヴァレンティンは少し白けた顔をしてそう言うと、車を発進させた。レンカはヴァレンティンの顔から窓の外へ視線を移し、外を眺めながら、再びヴァレンティンに話しかけた。
「今日の訪問先の話、結局全然聞かせてもらってないんだけど」
「今日は君はとりあえず顔を売ってくれればいいんだ。肝試しのようなつもりでついて来てくれればいい。君の対応のし方も、興味があるしね」
「つまり、私を試すの?試験みたいなもの?合格できなかったら、あなたは私をどうするのかしら」
 レンカがそう言うと、ヴァレンティンは
「そう怖がることはない。君は僕を失望させないと、信じているよ」
と言って微笑んだ。
 たわいない話をしながら二十分ほど走ってブカレスト市内に入ると、ヴァレンティンは
「これがブカレストだ。この街には、そう自慢するほどの見どころはないかな。ルーマニアで見ておくべきものは別の地方に山ほどあるんだが」
と言い、更に十分ほど車を走らせ、高層ビルと言ってしまうほど高くはないが最新鋭の建築家に設計させたと言わんばかりのモダンな造りのオフィスビルの前で止まった。
「これはルーマニア国内で一、二位を争う警備会社の本部なんだが、今からこの会社の創始者で現在会長を務めている人物に会う。化粧直しが必要なら、今ここで済ませてくれ」
 ヴァレンティンはそう言うと、建物の地下駐車場へ向かうべく、ハンドルを切った。レンカは
「直しが必要なほど大した化粧はしてないわ」
と冷めた口調で答えた。ヴァレンティンは前方を見たまま
「機嫌が悪そうだね」
と言った。
「だって、そのくらいのこと、先に言っておいてくれてもいいと思うし、それに、全然私が会う必要性が見えない相手じゃない。私が一体、何の役に立てるっていうのかしら」
「ほらね、会う相手を知ったところで君は自分が会う必要性が見えない、と言っている。先に教えるだけ無駄と言うものだ。……君にはなるべく先入観を持たずに彼に会って欲しかった、それだけのことなんだが」
 そう言いながら、ヴァレンティンは車を止めると、「さあ、行くよ」と言って、レンカに微笑みかけた。
 ヴァレンティンは車を降りると先に立って歩き出し、駐車場の隅にあるエレベーターに向かった。上階へ直通しているらしいエレベーターに乗り込みながらレンカは「駐車場の入口にもエレベーターにも入場者の認証のシステムなどはなさそうだったが、警備会社の本部がこんなに緩いセキュリティで大丈夫なのだろうか」と思った。
 ヴァレンティンはレンカの顔を横目で見て
「あの駐車場には、事前に許可が下りている車しか入れないようになっているんだ」
と言った。レンカは自分の思考を読まれたのが悔しかったので、もう何も考えないでいることに決めた。
 二人がエレベーターを降りたフロアには受付があり、受付嬢が一人座っていたが、ヴァレンティンを見ると嬉しそうな顔をして立ち上がり、ヴァレンティンに話しかけた。ヴァレンティンと受付嬢は二言三言、言葉を交わしたが、ルーマニア語だったので、当然レンカには理解できなかった。受付嬢はヴァレンティンと話した後、レンカににっこりと微笑みかけたので、レンカもつられて微笑み返した。
 それからヴァレンティンは更にフロアの奥へ進み、いくつかのガラス張りのドアの前を通り過ぎた後、大きな木製のどっしりとした扉の前で止まった。ヴァレンティンとレンカが扉の前に立つと当時に内側から扉が開き、扉の内側には六十代後半かと思われる、好々爺を絵に描いたような小太りの男性が立っていて、二人を迎え入れた。ヴァレンティンはレンカを先に部屋の中に通して扉を閉め、またルーマニア語で好々爺と話し始めた。レンカは二人を眺めながら、この人が会長なんだろうな、どうもヴァレンティンは相当この人に気に入られているらしい、と言葉が分からなくても読み取れることを拾い集めた。会長はヴァレンティンと少し話した後、レンカのほうを見てまた何か言った。ヴァレンティンはドイツ語に切り替えると
「ご紹介が遅れましたね。彼女はもう十年以上も僕の右腕として活躍してくれている優秀な部下でしてね」
と言ってレンカに微笑みかけた。レンカは
「レンカ・ハルトマノヴァーと申します」
と名乗って、既に会長が差し出していた右手を握って、先ほどの受付嬢に向けたものよりもさらに大きな笑みを浮かべた。
 会長はレンカの名前を聞くと「おや」とでも言うような顔をして
「お名前は聞いたことがありますよ。君はこんな有名人を使っているんだねえ、さすがだ」
と言って笑った。レンカは「私の名前を聞いて有名人だという発言をしている時点で、どの世界に属する人間なのか分かるってもんだわ」と心の中で乾いた笑いを浮かべた。
 会長に勧められるままにヴァレンティンとレンカが来客用だと思われるソファに腰を下ろすと同時にコーヒーが運ばれてきて、運んできた人物は空の盆を手に瞬時に部屋から出ていった。
 会長は二人に向かい合うように座ると笑顔を絶やさず、レンカに
「私も今じゃ、こんな大きな会社の偉いさんになってますがね、共産政権時代は小学校で音楽を教えていたんですよ」
と話しかけた。レンカは「確かにそのほうがこの人物に似合っている」と思いながら
「そちらも、面白いお仕事だったでしょうね」
と笑顔で返した。
「ええ、楽しかったですよ。それでもね、私が当時やってたことっていうのはそれだけじゃなくて。お若い貴女はご存じかどうか分からないが、あの時代のルーマニアっていうのは、共産圏の中では特に派手にソ連批判をしてたんですね。国のトップがそういう人だったって言うことなんですが。国内では秘密警察が凄い幅を利かせてて、国外からのエージェントなんて入り込める隙はなかった。それも、まあ、表向きの話でね」
 そこまで言うと、会長は美味しそうにコーヒーを啜った。レンカは黙って、話の続きを待った。
「実際にはKGBも、GRUも、いたわけです、あれだけソ連を批判していてもね。そして彼らも、活動の拠点が必要だったわけですな。私は一介の音楽教師ではありましたが、この街では、いろいろ特殊な場所を知っていましてね、ま、何かと協力していたのですね」
 レンカは、やっと話が読めてきて、なぜ自分がこの人物に引き合わされたのかも理解し始めた。そしてレンカを観察しながら心の中でほくそ笑んでいるであろうヴァレンティンの顔が見えるような気がして、隣に座る彼の足を踏みつけてやりたいという衝動に駆られながらも、レンカは微笑んだまま、会長の話を聞き続けた。

 小一時間ほどの談話の後、会長に暇を告げ、ヴァレンティンは再びレンカを車に乗せて走り出し、暫く何も言わなかったが、
「なかなか、いい笑顔だった。君は大して美人ではないが、笑った顔は独特の魅力がある」
と話し出した。
「今、なんかすごく失礼なこと言わなかった?美人じゃないって、本当のことだとしても本人には直接言わないものだと思ってたわ」
「人がせっかく褒めているのに、どうして君はネガティブな部分にだけ注目するんだい?」
「人間っていうのは、否定的なほうにより目が行くものなのよ。それで、あれで良かったわけ?私のあの場での対応としては」
「もちろん合格だ。君のこの間までの、どこの人間に会ってもやたらめったら睨みを利かせている横柄な態度から卒業してもらいたいと思っていたんだ」
「今回は、相手があなたを大切にしている人みたいだったし、だいたいあんな笑顔で出迎えられたら、こっちが笑わないのがおかしいわ」
「いい勉強になっただろう。今までの君は、事前に得た情報に基づく相手に対する先入観と相手の出方に条件反射するかのように、ああいう態度を選択して来ていたわけだ。そして危険のない相手でも、外部の人間となれば型にはめたような仏頂面だ。今日だって、先にあの人がどういう背景を持つ人物なのか説明していたら、君の態度は違ったものになっていたと思う。これからは厳めしい顔で迫ってくる相手にも笑顔で対応するくらいの知恵を身につけてもらいたい」
 レンカは「それって知恵なのね」と言おうとして、ハルトマン病院長も同じようなことを言ったな、と思い出した。それからレンカはヴァレンティンを横目で見て
「よくもぬけぬけと"十年以上も右腕"なんて言えたものね。私のこと、十年以上もほっぽり出しといたくせに」
と言った。
「事実を言ったまでだ。君はこの十三年間、僕のために働いてきた。僕の存在を忘れていただけの話だ」
「あなたの腕は、あの四人でしょう。私は、彼らの指先のお飾りみたいなものよ」
「きっとそのお飾りは、唯一無二の宝石なんだろう」
 レンカは「この人は一体どこからこんな台詞をひねり出してくるのだろう」と思いながら、ヴァレンティンから目を逸らした。
 ヴァレンティンは暫く黙って運転していたが、再び静かに話し始めた。
「会長が言っていた通り、GRUというのは一枚板ではない。単純な例を挙げると、同じ街に放たれたある任務を任されたGRUの一団と別の任務を担ったGRUの一団がお互いの存在を知らない、もしくはどちらか片方しかもう一方の活動内容を知らない、ということも起こり得る。援護に当たれと言われた同胞のスパイがどんな任務を担っているのか知らずに仕事をしている場合も多い。サシャの場合は、イギリスに駐在しているGRUは未だにサシャのことを亡命した裏切者の元ロシア国民だと把握していて、大陸のほう、特にドイツに派遣されている一部の局員はサシャを使える駒に復帰させ、イギリスにおいてスパイ活動をさせている、という外部の人間から見るとほとんど滑稽な状況になっている。僕たちは今から、サシャをそのあらゆるGRUと繋がる人間と組織から解放するんだ」
「サシャ本人は?十三年もこの状況に甘んじていたのに、今更動くかしら?」
「GRUに復帰させられて今の境遇になったのは、まだ十年足らずだ。それに、十三年動かなかったのは君も同じだ。しかし、君は動き始めた。だからサシャも、動く」
「私のこととサシャの意思との間に、どんな論理的な関連性が見いだせるのかしら」
 レンカが最後の言葉を言い終わったのとほぼ同時に、ヴァレンティンは車を止めた。大きな、門から玄関までの距離が五十メートルはありそうな邸宅の前に来ていた。
 ヴァレンティンはレンカのほうへ顔を向けると
「サシャは既に、動き始めている」
と言った。レンカは何も言わず、ただヴァレンティンの目を見つめた。
「これから数日間、サシャに関するどんな知らせを聞かされても動揺せず、自分に課せられた任務を遂行してほしい。明日は予定通りウィーンへ飛んでくれ。その後は、君の右腕君を傍に置いて、一人で行動しないようにしてほしい」
「随分と、不安にさせるようなことを言うのね」
「あらゆる状況を想定しておかなくてはいけないのは、いつものことだろう?」
 そう言うと、ヴァレンティンは車の窓から外の邸宅を見やった。レンカもそれを追うように窓の外を見た。
「ここが、今日の君の宿泊先だ。この家の人間には君のことは頼んであるから、何も心配いらない。明日の朝、彼らが君を空港まで送ってくれることになっている」
「そんな、人のお宅にお世話にならなくても、普通にホテルとかで良かったのに」
「君のようによそ者然とした人間をその辺のホテルに置いておくには、この街は少々不安なんでね。それから、一つお願いがあるんだが、この家で見たもの、会った人間に関しては、一切口外しないでもらいたい」
 ヴァレンティンの最後の一言を聞いて、レンカはヴァレンティンの顔に視線を戻した。案の定、琥珀色の瞳からは何も読み取れない。口元は少し笑っている。やっぱり何を考えているのか見当もつかない、とレンカは思った。
「僕は未だに、あの四人の誰一人としてブカレストに招待したことはない。君が一番乗りだ。よって、この街で僕がどのような人間と関わり、どのような人間を使っているのかも、誰も知らないわけだ。秘密は、守れるかな?」
「電話は、かけてもいいのかしら、アダムに」
「もちろんだ。声を聞かせて、安心させてやってくれ」
「滞在している場所に関して聞かれたら?」
「エフに口止めされている、と言ってくれればいい。彼は納得する」
 そう言うと、ヴァレンティンは「さあ、行きな」とでも言うような顔をして、軽く顎をしゃくった。ヴァレンティン自身は車から降りるつもりもないらしい。玄関先まで連れて行くくらいのことはしてくれてもいいのに、と思いながらレンカは車を降りた。
 レンカが門扉の前に立つと、門扉は自動的に開いた。大きな庭を挟んだ先の玄関の前に、背が高く髪の長い女が一人、立っているのが見えた。ここからでは表情はよく見えない。レンカはもう一度、ヴァレンティンのほうを振り返った。ヴァレンティンはレンカに微笑みかけ、頷いて見せてから車を発進させ、走り去った。レンカは再び玄関のほうを見て、歩き始めた。レンカが近づいて来ると、女は深く頭を下げた。
 そして、女は顔を上げると
「ようこそおいでくださいました」
と言って、微笑んだ。


その名はカフカ Disonance 11へ続く


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