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その名はカフカ Disonance 12

その名はカフカ Disonance 11


2014年9月プラハ

 射撃場の駐車場は数本のオレンジ色の街灯に照らされて、夜でもうっすらと明るい。エミルは駐車場の片隅に止めてあるアガータのバイクのできる限り近くに車を止めた。車を降りると、事務所を出た時よりも更に空気が冷たくなっているのが感じられた。
 エミルは以前からもっと遅い深夜か、夜明け前に練習に来ることが多かった。だから今年の一月くらいにこの射撃場に通い始めたアガータと顔を合わせる機会は、三月にたまたまエミルが予約の時間をずらして練習に来るまで全くなかった。アギに初めて会ったあの日は確か、レニがいつまで経ってもウクライナの実業家と連絡が取れないことに苛ついていて、レニに追い出されるような感じで事務所から解放されたんだったな、人生って何が幸いするのか分からない、そんなことを考えながらエミルは射撃場の出入口のほうへ向かった。
 射撃場を出る時はそれぞれ自分の乗り物に乗るのだが、エミルは直接アガータの家に向かうよりも、わざわざ迎えに行く、というところに意義があるような気がしていた。エミルが出入口から数メートル離れたところで立ち止まると、すぐにアガータが出てきて嬉しそうな顔をして小走りにエミルに近づいてきた。
「エミルに二日連続で会えるって、初めてかも。嬉しい」
と笑顔で言うアガータにエミルも微笑みかけ、彼女の肩にかけられた大きなスポーツバッグに手を伸ばした。
「持つよ」
「大丈夫よ。私、力あるから」
「アギが力持ちなのは分かってるんだけど、僕が持ちたいだけなの」
 そう言いながらアガータのバッグを受け取ったエミルは眉を上げた。
「今日はまた、すごい重いね。何挺入ってるの?」
「ふふ、秘密。家に着いたら見せてあげる」
「車に積んでってあげるよ。これと一緒にバイクに乗っていくって、かなり大変そう」
 エミルの言葉にアガータは更に嬉しそうな顔をして
「けっこう積めるんだよ、バイクも。でも、ありがとう」
と言うと、左手でエミルの右手を取って、駐車場のほうへ歩き出した。

 エミルが「何挺入ってるの」と言い終わるか終わらないかのうちに、ジョフィエは盗聴器の受信を切った。これ以上聞いたら悪趣味だ、っていうか、繋いじゃったこと自体が悪趣味なんだけど、と自責の念に顔を歪めながら受信機として使っているスマートフォンの画面を消した。
 ジョフィエは物に埋もれてしまいそうな自室の真ん中で椅子の背に身を任せると、ため息をついて天を仰いだ。ジョフィエが「絶対に探知機に反応しない極小盗聴器」を完成させたのは、つい二週間ほど前だった。その完成にはジョフィエも興奮したが、別にエミルの仕事先から注文があったわけでもなく、使い道についてエミルに相談しようかと思ったが、その前に試験使用してみたくなってしまった。そして、ジョフィエが選んだその新しい盗聴器の設置場所は、エミルのベルトだった。
 エミルが使っているベルトは革製で端の部分にシルバーの飾りが付いており、ジョフィエはその内側に盗聴器を埋め込んだ。そのベルトは二年前のエミルの誕生日にジョフィエが奮発して買ってあげたもので、エミルはことのほか喜んで、それ以来そのベルトしか使っていない。よりにもよって、なぜ自分はそんなところに盗聴器を、とジョフィエはその後何度も頭を掻きむしったが、当初は一度繋いでみて、実験が成功したらすぐ取り外す予定だったのだ。しかし、最初の実験の際に、エミルは女と一緒だった。そうして、ジョフィエは盗聴器を除去する機会を逃した。
 子供の頃のジョフィエは、エミルのガールフレンドを自称するすべての少女たちに悪戯をした。エミルがこんな頭空っぽな女どもを相手にするのは許されない、そう思っていた。しかし、十二歳になるかならないかの頃だろうか、自分のこの感情は、「嫉妬」と呼ばれるもの以外の何者でもない、と気が付いた。以来、"エミルの女"というのは、ジョフィエにとってどうでもいい存在になり、悪戯もやめた。世界中の人間の中で、エミルの妹になれるのは自分以外にはいないのだ、そう思うと、自分のやってきたことが酷くくだらないものに見えてきた。エミルは自分がうまく隠しているからジョフィエが悪戯をしないのだと思っているのだろうが、ジョフィエにとって、恋をしているエミルを見破るのはあまりにも簡単だった。今回も、半年前には気が付いていた。ただ、エミルの女にちょっかいを出さなくても自分が一人で騒ぎを起こせばエミルは自分を心配してくれる、それが分かっているだけで、ジョフィエは安心していられた。
 盗聴器をベルトに設置して二週間弱、その間に繋いでみたのは三回、盗聴したのは毎回一分足らずだ。一回目はエミルが女といる時で、二回目は仕事中で、運よく翌日のエミルの上司の予定を聞き取ることができた。そして三回目が、今日だ。今日こそエミルは家に帰るだろう、エミルがお風呂に入ってる間に盗聴器を外してしまおう、そう思っていた。ところが、帰って来ない。気になって、また接続してしまった。帰って来ないエミルが悪い、という声も頭の中で聞こえてきたが、それはないだろう、自分のやっていることの低俗さを自覚しているのか?と、もう一人の自分が噛みついてきた。こんなことなら盗聴器に自己破壊機能でも設定しておけばよかった、とも思ったが、それで万が一エミルに怪我をさせたら、という心配が出てきて、また自分が嫌になった。
 ジョフィエは壁時計を見やった。もうすぐ十一時だ。ばあちゃんはそろそろ寝るだろうか。中央の作業台の上のスタンドを付けているだけの薄暗い部屋の中を、ジョフィエは改めて見回した。
 ジョフィエの部屋は何台もの作業台が用途別に置かれていて、その上には常に作業中の細々したものが散らかっていた。椅子は一脚、しかし車輪が付いていて、気分に合わせてすぐ別の作業台に移動してその作業台の上での仕事に取りかかれるようになっている。
 左手の作業台は手芸用で、今はクラスメイトに頼まれたドレスを作っている。彼女に作るのはこれが三着目だ。二年くらい前、いきなり外国の奇抜なアニメのキャラクターの画像を見せてきて「こういうの、作れる?」と聞いてきた。面白そうなので、絵とそっくりそのままのドレスを作ってやった。完成品を見たその子は飛び上がって喜び、その後すぐに別の子からも注文が来た。もちろん有料だ。それにヒントを得て、ジョフィエ自身は好みではないものの、そういった女の子たちが夢中になるような色やデザインを研究し、アクセサリーや小物入れなどを作ってネット販売を始めた。一年もしないうちにジョフィエの収入は膨れ上がり、十八歳になると同時に個人事業者登録をした。
 ジョフィエの収入源はこれだけではない。部屋の右手にある作業台では、主に絵を描いている。今、一番安定した収入を得ているのが、テレビCMなどの脚本をストーリーボードに起こす仕事だった。この仕事は、あまり考えずにできる。だからつまらないと言えばつまらないが、そこで"自分"を出すと、逆に良くない。物が出来上がっていくプロセスの途中に関わっているだけ、そう割り切らないといけない。
 思考がストーリーボードの仕事に移った瞬間、スマートフォンが振動した。ジョフィエが所有している電話はこの一台だけだが、電話番号は二つ入れていて、「エミル用」と「その他」に分けていた。かかってきたのは、「その他」の電話番号のほうだった。電話をかけてきた人物を確認して、ジョフィエは顔をしかめた。ストーリーボードの仕事を回してもらっているプロダクションのプロデューサーだった。
「はい?」
「あ、ごめんねえ、こんな時間に。ジョフィンカだったら、きっと起きてるとは思ったんだけどさ」
 家族でも親戚でもないこの男にこんなふざけた呼ばれ方をする筋合いはない、と思いながら、ジョフィエは相手の話を待った。
「昨日提出してくれたやつ、脚本になかったカット入れたでしょ。ああいうの、やめてくれる?」
「脚本のままだと死ぬほどつまんないですよ、あれ」
「こっちは君に質を上げてもらおうとして頼んでるわけじゃないから。撮影中でも編集時でも、改善の余地はあるわけだし、ジョフィンカは自分のやるべきことだけをやっててくれればいいのね。こういうのって、いつも時間押してんの。変なとこで止まってる暇ないのよ。君が余計なことしたところで全体の時間配分が狂ってくるから、明日までに直したやつ、この際電子媒体でいいから送ってくれる?」
 明日までにって、あと一時間もないよ、と思いながらジョフィエは
「分かりました」
と答えた。
「やっぱり君は素直でいいなあ。いやね、こういう仕事、もう一端の芸術家気取りの芸大生とかに頼むとほんと、大変なのね。今回君のやったようなことなんて日常茶飯事、それで直せって言うと、すごい議論吹っ掛けてくるわけ。あ、あとさ、スタジオに原稿持って来てくれる時は、もうちょっと愛想よくしてくれたらいいなと思うのよ。ジョフィンカ、けっこう可愛いんだし」
 時間がないって言いながら、よくもこうベラベラ余計なことを話すものだ、こいつはあたしと同じ顔をしているエミルを見ても「けっこう可愛い」って言うのか?こういう発言すると、速攻で何とかハラスメントって名称付けられる時代だって分かってないのか?、と苛ついたものの、ジョフィエは
「今すぐ直して送ります。おやすみなさい」
と言って、電話を終わらせた。
 こういう大人と接すると、大人になったからと言って賢くなれるわけではないらしい、と思う。大人になるって、馬鹿になるって言うことなんだろうか。そんなことを考えながら、ジョフィエは部屋の中央の、一番大きい作業台に目を落とした。
 その作業台には、改造に改造を重ねたデスクトップパソコンと、精密機械を作るための工具が所狭しと置かれている。ここでする仕事が一番楽しい、と思う。そしてこういう仕事に関しては、プロにならずに一生趣味で終わらせたい、とも思っていた。だからエミルの勤め先からも制作費は受け取りたくない。そう思った瞬間、エミルの雇い主のことが頭に浮かんだ。
 会いに行った日、「お姉さん」と呼びかけてみたが、失礼だったかなとは思う。しかし、他にどんな可能性があったというのだろう。社長さん?ハルトマノヴァー夫人?どちらもふざけている感じがする。彼女に雇ってもらいたい、というのはもちろん本気ではない。今の自分の働き方からしても、将来どこかで誰かに雇ってもらって稼いでいく、というのは想像に難く、いかに自分に向いていないのかが分かる。
 ジョフィエはもう一度、エミルの上司の顔を、ジョフィエに見せた彼女の表情を、思い出してみた。あの人はあたしが伝えたかったことを、理解しただろうか。あたしの警告を、受け取っただろうか。あの人は、馬鹿じゃない。あの人には、他の大人から感じられる厭らしさが、ない。
 ジョフィエは右手の作画専用の作業台のほうへ椅子を転がした。とりあえず他のことは一旦忘れて、今すぐやらなければならないことを済ませるか、と作画用の電気スタンドを付けた。


その名はカフカ Disonance 13へ続く


『Co blbnu? Ani se neptej』 DFD 21 x 29,7 cm、鉛筆、色鉛筆



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