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その名はカフカ Disonance 13

その名はカフカ Disonance 12


2014年9月ワルシャワ

 既に午後六時を過ぎ、辺りは薄暗かった。ただでさえ初めて来た街で不案内なのに、目的が果たせるのか疑問だな、と思いながら、ハンスは隣を歩くフリッツのほうを見た。フリッツも少し心もとなげな顔をしている。街はずれの小径を歩く二人の周囲に人はいない。それでもハンスは辺りを警戒しながらフリッツに話しかけた。
「なあ、ポーランドなんかで女一人脅したところで、大佐の居場所なんて分かるのかな」
「どう転ぶかな。アントンも、とにかく当たってみてくれって言い方だったしなあ」
 ハンスがフリッツと共にイギリスに駐在しているティモフェイェフ大佐の警護を任命されたのは三年ほど前のことだった。大佐の警護は数年ごとに入れ替わるようで、二人よりも長く警護に当たっていた一人がいたが、二年前にアントン・ボグダノフ中尉と交代した。
 大佐についてはあまり説明がされないまま警護に就くことになったが、大佐自身はGRUのやり手のスパイだという話で、スパイ活動をする時には護衛の三人は付いて行ってはいけないことになっていた。GRUのために活動している時は、GRUから補佐が付いているらしい。しかし大佐はいつも任務が終わればハンスたち三人を傍に置いていた。本国の軍の上層部からは「とにかく大佐を逃すな。逃亡を謀った場合は武力行使も視野に入れておけ」と言われていたが、大佐が逃げ出す可能性がある立場である、というのもその背景がよく分からなかったし、それでは自分たちの任務は警護ではなく見張りではないか、と思った。
 ハンスは、大佐が逃げ出す理由のある存在なのだとしたら、大佐はハンスたち三人に警護に当たらせている、というよりも、大佐を逃せば罰せられるであろう三人に同情して護衛という名の監視をさせているだけなのではないか、と思うこともあった。大佐が逃げ出さないのは、大佐が二重に監視されているからかもしれない、という気もしていた。
 不明瞭な点が多い仕事だったが、大佐は陽気な人柄で、ハンスはこの仕事が嫌いではなかった。ハンスとフリッツ、というのも、もちろん二人の本名ではない。初めて顔を合わせた時、大佐は「君たちはゲルマン系の顔立ちをしている」と言って笑い、二人を典型的なドイツ人名として発想しがちな「Hans」と「Fritz」で呼ぶようになった。冗談もいいところだ、と最初は思ったが、その後すぐに二人もお互いのことをそのあだ名で呼び合うようになった。しかし、どうも大佐は話す相手によって冗談の質を変えている節がある。アントンはハンスとフリッツよりも若いが階級は二人よりも上で、頭のいい男だ。大佐はアントンと話す時は、よくハンスでは理解できないようなことを言う。
 そんな信頼を置いているように見えたアントンにさえ何も告げず、大佐は姿を消した。三人を派遣した軍の上層部からは三人に「それなりの処分を覚悟しておけ」と告げられたが、「自力で大佐を見つけられたら、処分の軽減も考えてやっても良い」とも言い添えられた。
 きっとGRUのほうは、自分たちのやり方で大佐を探しているのだろう。もしくは、GRUは大佐を失ったふりをして、実は彼ら自身が大佐を隠した、ということはないだろうか。
「アントンが狙えって言った女は、大佐の昔の同僚だって話じゃないか。なんで大佐にポーランド人の同僚なんかがいるんだろうな」
 そう言いながら、ハンスは「しまった」と思った。次の瞬間、ジャケットの内側に装着したピストルを掴もうとした右手は背後から蹴り上げられ、フリッツのほうへ首を回すとそこには既にフリッツはおらず、ハンスは頭から地面に叩きつけたられた。顔が地面に到達して初めてフリッツが視界に入った。ハンスと同じように地面に押さえつけられているが、既に気を失っているらしい。
「あなたたち、二人だけ?」
と、女の声がした。頭に当てられている硬いものは銃口だろうか、と思いながら、ハンスは頷いた。
「さっきから、脅すとか狙うとか、馬鹿にされたものよねえ。二人っきりで、この程度の武装で。あなたたち、この街に入ってからずっと監視されてたって言うのに、気配のかけらも感じてなかったんでしょ。だいたいね、人に頼みごとがあって来たんだったら、それなりの礼儀ってもんがあるでしょうが」
「おい、それくらいにしとけよ」
 ハンスに向かって毒突く女に、フリッツを押さえているらしい男が呆れたように言った。ハンスが頭の隅で「こいつらが仲間に対する小言さえロシア語で会話を続けている理由は何だろう」とぼんやり考え始めたのとほぼ同時に、後頭部に鈍い痛みが走り、意識が遠のいていくのを感じた。

 呼び集めておいた数名の協力者に意識を失ったロシア軍人を縛り上げさせると、ティーナは
「こういう場合、人間の処理はいつもサシャに頼んでたけど、今回はどうするの?今この瞬間には、サシャは何もできないわよ」
とアダムに聞いた。アダムはニヤリとして
「ここでも頼るべきは、サシャだ。一月にウクライナの一団を救い出してくれた連中と連絡が取れるようにしておいてもらった。この二人も、持って行ってもらおう。ワルシャワ郊外で引き渡せるようにしてある」
と答えた。
 協力者たちが縛り上げられた二人をバンに積み込むのを見つめながら、ティーナは
「カーロイのところには、一応お客さん面して現れたって言うじゃない。何なのよ、この違いは」
と憤った。アダムは答えようとして口を開き、また閉じた。ティーナも何も言わず、目だけアダムの視線の先へ動かした。それからティーナは小さく口笛を吹き、協力者の一人を呼び寄せ、アダムの見ていた方を顎で指し示した。その協力者は、何も言わずその方向へ音もなく走り出した。
「一人だけだな。何にしても、深追いはさせるな」
と囁くように言うアダムに、ティーナは
「私たちの話が聞こえるほど近くにいなかったみたいだけど。大丈夫、その辺のことは弁えてる子だから。何にしても、さっさと退散したほうがいいわね」
と答え、既にアダムから軍人の引き渡し場所を教えられている協力者たちが乗り込んだバンが走り去っていくのを見守った。
 バンが見えなくなると、ティーナはアダムに
「今追わせてる子は、後で電話をくれるわ。今日は家に来てもらうわけにはいかないけど、休める場所があるから」
と言って、先に立って歩き出した。
 ティーナは五分ほど歩いた先の路地に止めてあった車にアダムを乗せ、十分ほど何も言わずワルシャワの街を走り、中心街からは離れた住宅地の一角にあるマンションの駐車場で止まった。
「どういうところなんだ?」
とアダムが聞くと、ティーナは
「部屋を借りてるの。"外"で仕事すると、どうしても直接家に帰れない時あるでしょ。発砲した時とか、やっぱり臭うし」
と答えて車を降り、アダムが降りるのを待って、マンションのほうへ歩き出した。ティーナもカーロイも、よく家族に隠し通せるものだよな、と思いながら、アダムはティーナの後に続いた。
 エレベーターでティーナの部屋のある階まで上がり、ティーナは玄関を開けてアダムを中へ通すと
「適当に座って」
と言ってから、キッチンで湯を沸かし始めた。アダムがダイニングとリビングを見比べて少し迷ってからダイニングテーブルについたのとほぼ同時に、ティーナの電話が鳴った。ティーナはすぐさま電話に出て、暫く相手の話を聞いた後、
「大丈夫よ。今日はもう帰って。ありがとう」
と言って電話を切った。
 ティーナはティーポットに湯を注ぎながら話し始めた。
「さっき物陰に隠れてた奴を追わせてた子から電話だったんだけど、結局見失ったって。逃げた奴、なんか小柄なその辺にいるおじさんっていう感じの風貌だったらしいわ」
「そういうのが、一番怪しくないか。俺たちが気が付いたタイミングからして、見ていたのもほんの数秒、といったところだろうが」
「そうねえ。あの子の見立てでは、武装もしてなかったみたい。あ、あの子ね、何年か前から手伝ってもらってる子なの。今度紹介するわ。若いんだけど優秀なの。エミル君ほどじゃないけど」
「できることっていうのは、一人一人違うだろ」
 アダムはそう言いながら、先ほどティーナの指示に素早く反応し影のごとくしなやかに走り出した協力者の姿を思い出し、まるでゴム人形のような奴だな、と心の中で笑った。
 ティーナは二つのティーカップに紅茶を注ぐと、一つをアダムの前に、もう一つをアダムの向かいの席の前に置き、腰を下ろした。
「ここ、食べるもの置いてないから。ひと休みしたらどこかに食べに行こうね」
「家で晩飯作って待っててくれてるんじゃないのか」
「一時間以内に何も食べなかったら私、家に着く前に電源切れちゃうわ」
 そう言ってティーナは紅茶を一口啜り、また話を続けた。
「サシャの監視役、レベル低くない?あんなのが見張ってたくらいで、サシャが逃げ出せなかったなんて、ちょっと信じ難いんだけど?」
「サシャが逃げ出さなかった理由は、あの護衛どもじゃないだろう。他にも目はあっただろうし、ドイツに駐在してる上官に、いろいろ頭が上がらんらしい」
「……うまく、行くかしらね」
「行かせるしかないだろう。ここまで来ちまったんだ」
 そう言葉を交わすと、二人は暫く黙った。それから、アダムのほうが先に口を開いた。
「しかし、お前もワルシャワ市内くらい、ああいうのを侵入させないくらいの安全性は確保できないのか」
「あのね、私はこの街でごく普通の一般市民として暮らしてるの。レンカとは違うの」
「仕事は、これからも続けるのか?」
「今のところ、そのつもりだけど。貴公子君は今のポジションが私にとって一番安全だって言うけど、私にはそうは思えないんだよね。今日のあいつらも、私が大学の教員として名前を出してるから嗅ぎつけて来たわけだし。何にしても、私は今の役職に就いている状態で、裏の私がばれるのが怖い」
「それは、最悪のシナリオだな」
「でしょう?それならさっさと辞めたほうがいい気はするんだけど」
 最終的には自分で決めなきゃいけないのよねえ、と言いながらティーナは再び紅茶を啜った。そして、カップの中を見つめながら
「ねえ、レンカと貴公子君が、2001年時点で会ったことがあるって話、本当なの?」
とつぶやくように聞いた。アダムは無表情のまま
「ああ、そうらしいな」
と返した。
「それを、どうして私は知らないのかしら」
「いろいろ、複雑なんだ」
「どう複雑なの?」
「最大の問題は、レンカがあいつに会ったっていう記憶をなくしてたことだろうな」
 ティーナはアダムのほうに目を上げた。
「それを好都合だって言って、ヴァレンティンはレンカから隠れ続けてたわけ?それで、なんで今になって、ヴァレンティンはレンカを使いたい放題なわけ?」
「レンカは、その時のことを思い出したらしい」
「何があったの?」
「知らん」
 ティーナは手の中にあったカップを脇へ押しやると、テーブルの上に身を乗り出した。
「あなた、頭大丈夫?なんで聞かないのよ?」
「なんで聞かなきゃならないんだ。あいつらの問題だろうが」
「だって、二十歳そこそこのレンカが三十前のヴァレンティンに会ったんだよ?そんな若い子があの男を前にして何とも思わない何も感じないなんてこと、あると思う?あの頃のヴァレンティンがどれだけ色香放出させてたか、あなた覚えてないの?」
「気色悪い表現はよせ。そういう騒ぎ方をするから、お前には言いたくなかったんだ」
 アダムは、話にならんとでも言うかのような顔をしてため息をついた。ティーナは上体を椅子の背に戻したが、まだ不審そうな顔をしてアダムを見つめている。
「あの時あいつらが一緒にいたのは、たったの二日間だ」
「ロマンスが芽生えるには二日で充分よ、十三年も気が付けないあなたが鈍感すぎるのよ……ていうか、まるまる二日間、ずっと一緒にいたの?」
「そうらしい」
「あなた、本当に、心配にならないの?今ヴァレンティンがレンカを呼び出しまくってるの、仕事以外に何かあるんじゃないかとか、疑ったりしないの?」
 アダムは何かを思い浮かべるかのように、宙を見て
「それは、ない」
と言った。ティーナは今度は呆れた顔をして
「その自信は、一体どこから出てくるのかしら」
と尋ねた。アダムは視線をティーナに戻し、
「それこそ、十三年の間に地道に積み上げてきた自信なんだろう」
と答えて、大きな笑みを浮かべた。
 ティーナは「変なこと聞いちゃったわ、ごちそうさまだわね」と思いながらティーカップを手繰り寄せ、両手で弄びながら
「この後、どうするの?他にICTYがらみでサシャと私を関連付けてやってくるお客さんがいるとは、あんまり思えないけど」
と話題を変えた。
「さっき逃げた奴が気になると言えば気になるが。いつまでもここでお前の手伝いをしているわけにもいかんだろうな」
「私は大丈夫よ。できれば私も、そっちの援護に行きたいけど」
「無理はするなよ」
「いざとなったら、仕事を辞めてやるわ。ああ、おなかすいた。もう頭も働かないわ」
 そう言うとティーナは立ち上がった。
「今度はあなたが運転して。道は教えてあげるから」
「おう、任せろ」
 アダムはティーナに続いて立ち上がり、二人のティーカップをキッチンへ運んで洗おうとした。ティーナは
「ああもう、あなたは一応お客さんなんだから、やらなくていいの。早く行こうよ」
とわざと怒ったような声で言うと、アダムの腕を引っ張り、車のキーを押し付けた。
 アダムは「お客さんに運転させるのか」と苦笑しながら、ティーナに続いて玄関へ向かった。


その名はカフカ Disonance 14へ続く


『Věř mi, to bude v pohodě』 Diskobolos 21,5 x 24 cm、水彩



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