見出し画像

その名はカフカ Modulace 16

その名はカフカ Modulace 15


2014年11月エゲル

 一つの生命体が自分の傍に座っている、とは先ほどから感じていたが、テンゲルは目を開けることもその生命体に声をかけることもできなかった。いや、そうしようと思えばできたのかもしれないが、まだ暫くこうして横になっていたかった。危険はない。自分の傍に自分の許可なくやって来られる人間は、この世で一人しかいないのだから。そして、もし人間ではない生命体だったとしたら、やはりテンゲルにとって危険なことなどあり得ない。
 今回の滞在先のホテルも他の温泉地で用意される部屋と同じように内装は白でまとめられ、大きな窓から真っ白なカーテンを通して差し込む日の光は、まぶたを閉じていても眩しいくらいだった。今日はよく晴れている。テンゲルがうっすらと目を開くと、そこにはこちらが心配になるほど深刻な顔をしたラーヂャが座っていた。
 テンゲルは軽く微笑むと
「どうしましたか?ラーヂャはこちらに来る予定はなかったはずですが?」
と囁くように言った。
「電話には出ねえし、見回りに行かせた奴は『客は来てないみたいだ』って言うしで、心配にならねえわけがねえだろ。それで来てみたらやっぱり寝てるじゃねえか。どっか、悪いのか」
「その程度のことで、仕事を放り出してここまで来てしまったのですか?」
「質問に答えろ。調子が悪いのか?」
 ラーヂャを不安にさせるような受け答えしかできないだろうと思って電話に出ないでいたら、それが裏目に出てしまいましたね、と思いながらテンゲルは仰向けの状態からゆっくり体を転がすようにラーヂャのほうを向いた。そして笑顔のまま
「エゲルには、お得意様がいるのです。でも、一人だけです。ですからその方が来るとき以外は休んでいただけですよ」
と答えた。
 ラーヂャはテンゲルの答えに満足しなかったのを隠そうともせず、眉間に皺を寄せたまま膝の上に両肘をつき、前かがみになってテンゲルに顔を近づけた。
「この土地が良くないんじゃねえのか。ハンガリーの東っていうのが、お前にとって良くないってことはないのか」
「ラーヂャが私を拾い上げたのは、もっと南でしょう?それに、あの地が私に悪い影響を及ぼす場所、という印象もありません。ラーヂャは時々とても心配症だから、困ってしまいますね。私だって疲れたり、普段よりも睡眠が必要になる時もあるのですよ」
 ラーヂャは暫く黙ってテンゲルの顔を観察した後、
「お前、自分でも気が付いてるんだろ。この数ヶ月、目の色がどんどん薄くなってる。目だけじゃない、光の具合もあるかもしれないが、皮膚の色も漆喰の壁か雪みたいな白になってきてるように見える」
とつぶやくように言った。
「私は他の人たちとは同じような老化はしないようですから、これが私にとっての老化現象なのかもしれません。外見の変化が何もなかった時のほうが、おかしかったのではないですか?」
「お前、本当に眠くなって寝てたのか?……俺は、お前は睡眠の必要もない体の構造をしているんだと思っていた。俺がお前を拾ってから数年は、全然寝てなかっただろ」
「ふふ、あれは目を開けて眠っていたのです」
 ラーヂャはテンゲルが冗談を言っているのかどうかを見定めるようにテンゲルの瞳を覗き込んだ。テンゲルもラーヂャの目を見つめながら笑顔のまま言葉を続けた。
「私は、ラーヂャが思っている以上に”人間”なのです。先ほどラーヂャがそこに腰を下ろす直前まで、夢を見ていたのですよ。起きている時に思い描く夢ではなく、眠っている最中に見る、夢です」
「お前はどんな夢を見るんだろうな。想像もつかんな」
「他の人たちと、きっとそんなに変わりません。さっきは鳥になった夢を見ていました」
「俺は見たことないぞ、鳥になる夢なんてのは」
「そうですか。ラーヂャの見る夢、というのも私には想像がつきませんけれど。……夢とはやはりおかしなもので、現実世界ではこんなに白に近づいているというのに、さっき見たのは鴉になった夢だったのです」
 そこでテンゲルは一度言葉を切り、さらに大きな笑みを浮かべると
「それでも私は真っ黒にはなりきれないようで、夢の中で私はカフカになっていました」
と言った。
 テンゲルがそう言うと、ラーヂャは動きを止めた。
「何だ、それは」
「鴉です。鳥ですよ、あの顔から胴体にかけて灰色の。翼を見ても、真っ黒とは言い難い鴉ですね」
 ラーヂャはテンゲルの説明を聞きながら小さくため息をついたが、何の言葉も返さなかった。テンゲルはラーヂャの表情を観察しながら
「お疲れのようですね。私なんかの心配より、ラーヂャは自分の体をもっと気遣うべきです」
と優しく言った。テンゲルの言葉にラーヂャはやっと深刻な表情を手放し
「お前が言うように本当に俺が疲れてんなら、きっと俺はお前を口実にエゲルに休養しに来たんだろうよ」
とニヤリと笑った。テンゲルはラーヂャの笑顔を見つめながらゆっくりと上体を起こし
「では、しっかり休んでいってくださいね」
と嬉しそうに言った。

 起きられる時間に起きればいいやと思って眠りについたペーテルが目を覚ました時には、既に外は明るかった。残るほどの酒も飲まずに寝たから目覚めは爽やかだなと思いながらペーテルは起き上がり、座ったまま両腕を大きく広げて伸びをした。布団に入る前に、この建物の中には自分一人だけなのだから誰に気を使うこともないとは思ったが、さすがに慣れない場所で一糸纏わぬ姿で眠る気にはなれず、きちんとパジャマを着ている。
 エミルは既に昨日の夜のうちにアダムから電話がかかってきて、数分話し込んだ後、手早く荷物をまとめて出て行ってしまった。確かにこんな働き方では下手に飲めないな、人の下で働くって大変だな、とエミルを見送りながら心の中でつぶやき、一人で「宴会」と呼べるほど盛り上がらなかった宴の後片付けをした。別に自分だって人の下で働いていないわけじゃない。掛け持ちしているすべてのバイト先には何らかの形で上司がいる。ただ、その上司たちに対する自分の在り方と、エミルの仕事やその指示を出すレンカやアダムに対する姿勢とを比較すると、全然別の次元の代物に見える。
 ペーテルはパジャマを脱ぎ捨て荷物から適当に服を引っぱり出して着替えると、キッチンへ向かった。電気湯沸かし器の電源を入れ、昨日必要な物だけを取り出して床に置きっぱなしにしていた買い物袋の中からインスタントコーヒーを取り上げた。そして湯が沸くのを待ちながら、またエミルのことを考えた。
 どうしたらあんな風に働くことができるのだろうな、と思う。自分はできるだけ色どり豊かな経験を積むためにいろいろな仕事に手を出しているけど、エミルはお金のためでも経験を積むためでもなく、レンカのために働いているという事実が彼にとって一番大事なんだという印象を与える。エミルが叔母に何を見出したのかはペーテルには想像もつかないが、そんな誰かの手足になって働くというのは、自分には絶対無理だと思う。エミルのレンカに対する忠誠心と同じようなものを抱ける対象に出会える気もしないし、やっぱり自分は目立ちたがり屋だから他人の影になりきって自分の能力を使うというのは我慢できない気がする。
 そこまで考えたところで、湯沸かし器が「カチリ」と音を立てて稼働を停止した。湯が完全に湧ききる前に電源を切ろうと思っていたのに考え事をしていたらしっかり沸騰してしまったじゃないか、と顔をしかめ、ペーテルはポットを持ち上げマグカップに注いだ。それからまだカップの中にコーヒーを入れていなかったことに気が付き舌打ちをした。寝起きの僕って本当に使い物にならない、と思いながらカップの中の湯にスプーンを使わずに直接インスタントコーヒーの瓶を傾けてコーヒーを足し、冷蔵庫から牛乳を出して足し、ティースプーンを投げ入れてダイニングテーブルの椅子に音を立てて腰を下ろした。
 冷蔵庫で冷えていた牛乳を足してもまだ熱そうなコーヒーを見つめながら、ペーテルは「おばちゃんは、どうなんだろうな」と思った。叔母は昔から大人しい人で目立つのは嫌いなんだろうとは思っていたが、それと同時に自分と同じように「人の下で働く」というのも向いていない印象が強かった。だからレンカが自分の会社を持ったと聞いたときには、まだ子供だったペーテルにも納得できるものがあった。ところが九月に父に聞かされた話では、レンカの上にはまだ何人もいるという。確かに高校生の時にプラハの事務所に押しかけて行って初めて会ったアダムは、レンカに「雇われている」印象は全然与えなかった。
 父が昔警察官だった、という話は何となく知っていた。しかし九十年代に国連の軍の要員として旧ユーゴの内戦に参加しただとかその後ハーグの検察官だっただとかいう話は寝耳に水で、どうしたら僕の前でそんな隠し事ができるのか、それ以前に、どうして僕は自分で探り出すことができなかったのか、と憤慨した。しかしそれも心の中だけの動きで、ペーテルはカーロイの前で動揺したそぶりは一切見せなかった。見せはしなかったが、見透かされていた気はする。そう思いながら、ペーテルはマグカップを持ち上げ、コーヒーを啜った。
 せっかく大きな秘密を教えてくれたのだから、ペーテルもお返しに何か父が関心を示しそうな話をしたかったが、何も思いつかなかった。そこでペーテルは六月にリエカでエミルと一緒にした仕事の話をした。何が起きたのかは全部報告が入っていただろうから、何も面白いことはないだろうと思ったが、カーロイは楽し気にペーテルの話を聞いていた。そして、キツネが港で海を眺めながら「海」ってハンガリー語で言ったんだ、というくだりで、カーロイの目の色が少し変わった気がした。
 それから一ヶ月以上経った先週のことだ。カーロイはペーテルを呼び出すと「どうもハンガリーの海は私たちの近くに滞在中らしい。探しに行ってみるかい?」と言った。「ハンガリーの海ってバラトン湖のことじゃなくて?」と聞くと、この海は移動可能なんだ、と父は答えた。
 だから今、自分はここにいる。他には何のヒントもなしに「海」を探しに行けと言われて、普通なら混乱するのだろうけど、自分は逆にやる気が出てしまう性分だ。そんなことを考えながらペーテルはコーヒーの最後の一滴を啜り上げると立ち上がった。そして、これでシャワーを浴びて完全に覚醒したら僕って無敵なんだ、と心の中で独り言ちて、シャワー室へ向かった。


その名はカフカ Modulace 17へ続く


『Černý pták v bílém moři』 17 x 28,5 cm 水彩



【地図】


🦖🦕🦖🦕