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その名はカフカ Modulace 15

その名はカフカ Modulace 14


2014年11月パッサウ

 オーストリアとの国境に接するように位置し、ドナウ川、イン川、そしてイルツ川の三川が合流する街として知られるドイツの小都市パッサウで、レンカはパッサウが観光名物として人々を最も惹き付けているバロック様式の街並みを一人で川辺に立って眺めていた。
 十一月の川辺は風も強く長居をするべきではないとは思ったが、レンカはなぜかその場から動く気になれず、面会が終わった後も、風景を楽しんでいるふりをしながら様々な思考が行き交う頭の中を整理しようとしていた。
 面会相手が「お互い付き添いは無しで」と望んだので、スルデャンには休憩を取ってもらった。スルデャンなら護衛し続けていても暴かれない自信はあったが、相手の条件を飲んだふりをしてそれに反する行動に出る気にはなれなかった。信用問題だ、と思う。誠実な交渉をしたい相手にはどこまでも誠実に対応する。その姿勢は貫いていたい。今までレンカは自分が「言われたことだけ言われたようにやっている」だけだと思い込んでいたが、それなりに自分の仕事における信念のようなものは育っていたのだ、と思うと少し嬉しくなった。しかしそんな考えが浮かんだ次の瞬間、ヴァレンティンの「嘘も方便という言葉を知らないのかい?せっかくサシャがこんな凄腕を貸し出してくれたのに、お馬鹿さんだね」という声が聞こえた気がした。最近、こんなことばかりだ。何か行動を起こすと、ヴァレンティンの小言が聞こえてくる。しかし本人に文句を言うわけにもいかない。すべて自分の頭が生み出した幻想なのだから。何かをする度にあなたが注意する声が聞こえてくるの、と伝えようものなら、皮肉っぽく笑って「君は僕のことばかり考えているんだね」と返すに違いない。
 レンカが立っている川辺の近くで地面をつついていた鳥が飛び立ち、レンカの頭上を通過して、すぐに見えなくなった。その鳥を直視していなかったレンカは、どんな鳥だったのかは分からないがきっと鳩だったのだろう、鳩はどこにでもいるしな、と思った。鳥の種類なんて、ほとんど知らない。レンカが自分の生活圏内で見かけて区別がつくのは鳩とカササギくらいだろうか。カーロイが「カフカ」の由来を教えてくれるまで、「kavka」が鳥の名前だということは把握していても、どんな鳥なのかなんて全然知らなかった。ただ、カフカの中心の文字だけは「ヴォランドと同じね」と思った瞬間、忘れられない存在になったことだけは覚えている。ちょうどその頃、サシャに勧められて『巨匠とマルガリータ』を読み始めたところだった。実のところヴォランドのラテン文字表記は「Woland」で、頭文字は「W」なのだが、チェコ語でもドイツ語でも「w」の発音は〔v〕だ。それでよく考えもせず「ヴォランドと同じ」という言葉が浮かんだのだろう。しかしそんな勘違いも、最初のヴァレンティンの「v」と「f」の間違いと何だか似ている。(注1)
 そう言えば、カーロイはどうしてバイトを頼んだだけの自分にカフカの話なんて聞かせたんだろう。幼少期から才能を認めていた息子にさえ最近まで何も教えていなかったカーロイにしては、いくら長年可愛がっていた義妹とは言え、随分と軽率ではないか。実際、レンカはあの頃外部組織の人間であるスラーフコにメッセージを残すという失態を犯している。相手がスラーフコでなかったなら笑い事では済まされなかったのではないか。
 ジャケットのポケットの中で、スマートフォンが振動した。レンカはコートの下のボタンだけ外して電話を取り出し、まるで私の思考に反応したみたいだ、と思いながら応えた。
「カーロイ?首尾よく運んだか、そんなに気にしてたの?」
「君に無理をさせたんじゃないかと、それだけを心配していたんだよ」
「アダムもまだ電話してきてないのに」
「そうか、それはまた良い話を聞いた」
 今日の交渉の結果はカーロイにはあまり重要ではなかったはずだから、やっぱり私の心配をしてくれたんだと思っていいんだな、と心の中で独り言ちてから、レンカは
「朗報よ。アダムにとってだけかもしれないけど。先方は今回の運搬物は私が運んでいるってことで納得したから、バイエルン州のどこを通過しようと邪魔はされないわ」
と報告した。
「お疲れ様だね」
「これが私の仕事でしょ?それでも、カーロイはスロヴァキアとチェコのルートがいいのよね?」
「ハンガリーを横断するとなると、少々厄介なんだ。私は同伴できないし、エミル君も慣れない土地ではやりにくいだろう」
「何にしても、ドイツに入るまではエミルに任せたいのね?」
「君さえ許してくれれば、それが最良の選択だと思う。ハンガリーからオーストリアに入ればサシャが何とかする、と言いたいところだが、まだサシャはオーストリアという国をそこまで掌握しているわけじゃない。きっと我が物にしてしまうのは早いだろうけどね。ティーナは今のところ動けないと言っているし、アダムは知っての通り、購入側からの一団と一緒にケムニッツで待機だ」
 そう言われると、やはりスロヴァキアとチェコを通過したほうがいいような気がしてくる。しかしレンカはつい先ほど考えていた「誠実な交渉をしたい相手には誠実に対応する」という自分の言葉を思い出した。アダムもきっと同じように考えているのだろうな、と思った。
 何も返さないレンカに、カーロイは
「レンカ、君は今どこにいるんだい?さっきから少し声が震えている気がする」
と心配そうに尋ねた。
「面会場所を、外に指定されたの。川辺で風景を楽しみましょうなんて誘ってきたのよ。話はすぐ終わったんだけど、その場に残っていろいろ考えてたら時間が経っちゃって」
「そんなタイミングで電話をかけたりして悪いことをした。早く暖かいところへ行きなさい」
「ねえ、カーロイ」
 レンカは電話を終わらせようとしているカーロイに少し焦って話しかけた。
「どうした?」
「今聞かなくてもいいとは思うんだけど、どうして私をあなたたちの仕事の手伝いに採用したの?その、2001年の、最初の時の話をしているんだけど」
「確かに唐突な質問だ。何かあったのかい?この道に進んだことを後悔するようなことが?」
「別に具体的に何かあったわけじゃないけど、ただ、聞いてみたくなったの」
 顔は見えないが、電話の向こうのカーロイは笑っているのだろうなとレンカは思った。
「何度も言っている。君は頭のいい子だ」
「大したことはないと思うけど。あえて自慢できることがあるとしたら記憶力と勘がいいことくらいかしら。何にしても、最初のバイトは誰でも出来そうなものだったけど、危険が伴う可能性は常にあったんじゃないの?」
「この業界の仕事は、君に向いていると思った。私は最初から、君をこちらの世界に引き入れるつもりで君を採用した」
 悪漢に囲まれただけで失神してしまうような人間が、どうしたら組織犯罪に向いていると言ってもらえるのだろう。あの時ヴァレンティンが現れなかったら、自分は今ここにいなかった。あの後、アダムがいなかったらやっぱり自分は今ここに立っていなかったし、エミルがいなくても自分は今ここでこうして呼吸をしていなかった。
「どうして?カーロイ自身は、他の事業を始めようとしてたのに?」
「だからこそ、他に動いてくれる人を育てたかった。もちろん君があのように健康を害してしまい、それが私たちの元に残るきっかけとなってしまうとは想像もしていなかったが。……もう一度聞いてもいいかな?君は今、この道に進んだことを後悔しているのかい?」
 レンカはすぐには答えなかった。答えは分かりきっている。ただ、即座に声が出なかった。
「してるわけ、ないじゃない。カーロイが信じてくれるかどうか分からないけど、私、今すごく幸せなの」
「君からそんな言葉が聞けただけで、私も幸せだ。この話題についてもっと掘り下げたいのなら、また時間のある時にゆっくり話そう。さあ、そろそろ暖の取れる場所へ移動しなさい」
「うん。ありがと」
 思わず子供の頃のような話し方で返事を返したレンカは照れ隠しをするように笑って、カーロイとの電話を終わらせた。それから、振り返りもせず
「いつからそこにいたの?」
と言った。
 ヴァレンティンは躊躇う様子もなく足音を立てながらレンカの表に回ると
「よく気が付いた。あえて”いつから”君の傍にいたのかは、言わないでおく」
と微笑みながら答えた。
 レンカはうつむき加減で目だけヴァレンティンのほうへ動かし
「この後の予定にあなたと合流する項目はなかった気がするんだけど」
とつぶやくように言った。
「さっきまでのお義兄さんに対する態度とは打って変わって冷たいね」
「まさか全部聞いてたの?」
「僕はそこまで品性の欠けた根性で生きているわけじゃない。電話を切る直前の君はとても可愛らしかった、とだけコメントしておこう」
 だからそれが一番恥ずかしいのよ、と思いながらレンカは電話をポケットにしまい、気を取り直したように顔を上げ、口を開いた。
「そのうちスルデャンが戻って来てくれるはずだけど」
「いや、彼は来ない」
「どういうこと?」
「彼はご主人様の元へ帰らせた。あっちはまた忙しくなっているからね。心配することはない。ここから暫くは、君の安全は僕が保障する」
「あなたが、私を護衛するの?」
 レンカがそう言うと、ヴァレンティンは楽しそうな笑みを浮かべた。
「君は一羽の鴉の、しかもその五分の一でしかない僕にそんな芸当を期待しているのかい?君と同じで、僕も当然一人のようで一人じゃない。いろいろ引き連れている」
「鴉の如く、群れてるのね」
「そういうことだ。しかし君が目に見えない護衛では心細いと言うのなら、手を繋いであげてもいいよ」
 そうヴァレンティンが言うと、レンカは反射的に両手をコートのポケットに突っ込み、それから
「無駄口を叩いでないで、さっさと私を寒さのしのげるところへ連れて行ってちょうだい。不用意に私に触れると、アダムに叱られるわよ」
と言った。レンカの言葉にヴァレンティンは少し右の眉を上げて
「君は『アダムに叱られる』というのが脅し文句になるとでも思っているのかい」
と答え、歩き出した。
 レンカも急いでヴァレンティンを追うように歩き出し、ヴァレンティンの隣に並ぶと
「私、なると思うの。ちょっと気が付いちゃったんだけど、あなた、アダムに怒られるのとかがっかりされるのとか、怖れてない?」
と返した。
 ヴァレンティンは速度を緩めず歩き続けながら横目でレンカを見て
「素晴らしい観察力だ。カーロイだったらご褒美に花束を買いに走りだすところだ」
と言ってから視線を前方へ戻し、
「アダムはあの見た目では想像もつかないくらい寛大で優しい男だ。だからこそ、あの厳つい顔に失望の色だとか怒りの感情だとかが浮かんだ時には、とんでもない失態をやらかした気分になる。僕は極力それを避けようと努めている」
と続けた。
 ヴァレンティンが自分の言葉をあまりにも素直に認めたことに驚きながら、レンカは思わず
「アダムのことが、すごく好きなのね」
と返した。
 ヴァレンティンはレンカの言葉にニヤリと笑うと
「安心したまえ。僕は君の恋敵ではないし、これから先そうなる予定もない」
と言って、少し歩調を速めた。


その名はカフカ Modulace 16へ続く


『Lenka』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆


注1
チェコ語における「w」「v」「f」の発音を整理しておくと、「w」は〔v〕、「v」は〔v〕もしくは〔f〕(後に続く子音に依存)、「f」は〔f〕。ちなみに「w」は外来語の単語でしか使われない(現代チェコ語において。19世紀の文献で面白い現象を見たことがあるのだが、ここでは割愛。)



【蛇足】
レンカは私と同じくらいこの本を愛してるんじゃないかと思うのです↓


【地図】


🦖🦕🦖🦕