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その名はカフカ Modulace 17

その名はカフカ Modulace 16


2014年11月マリボル

「あ、また全然話聞いてないね、マーヤ」
 そう咎めるように言われて、マーヤは「聞いてはいたけどつまらないのよ、あなたたちの話は」と心の中でつぶやきながら、申し訳なさそうに微笑んだ。
 マーヤはマリボルに戻って以来、仕事が終わったら必要最小限の買い物を手早く済ませてまっすぐ家に帰ることを習慣にしていたが、この日は同年代の同僚の二人に誘われて、夕食は外で済ませることにした。スラーフコは新しい職場で夜のシフトも入ると聞かされていたが、今のところ日中勤務だけで、夜はこれまで通り家で食事をしている。ヴクは最近、夕食まで職場で出してもらうことが多くなった。マーヤはスラーフコに電話をかけたかったが、周りの人間に話を聞かれるのも憚られ、SMSを送るだけにした。そしてふと、「晩ご飯を外で済ませることを連絡するなんて、本当に家族みたいだ」と思い、自然と口元に笑みが浮かんだ。
 広くはないが地元の人間には人気のレストランの片隅の小さなテーブルにマーヤと向かい合うように座っている同僚のタマラとモホルは普段からマーヤにとってはさして面白くもない話で盛り上がっているが、今は酒も入ってますます饒舌になっている。誘いを断ってばかりだと余計なことをあることないこと言われそうだし、たまには付き合ってやろうと思ったことを、マーヤは席に着いてすぐに後悔し始めた。
 国内で二番目に大きい街、とは言えそもそも国自体が小さい。子供の頃からマーヤはマリボルを出てもっと大きい街で人生を謳歌することを夢見ていた。しかし国外へ向かう勇気のなかったマーヤはリュブリャーナの大学に進学し、在学中にイリヤ・ドリャンの元で働き始めた。犯罪組織とは言え大きな事件に巻き込まれることもなく、マーヤはイリヤの小馬鹿にしたような態度や言葉にただ笑って対応しながら、彼の気付かぬ間に組織の内部情報を吸収して遊んでいた。そう、自分は遊んでいたのだ。イリヤは側近やその他の組織の上層部に対する警戒心は強かったが、マーヤのことは本当にただの置物だと思っているかのようだった。そういう立場になるのではないか、というのは最初に面接に当たった側近の態度で予測は付いていた。その側近はマーヤの容姿を見定めた後、「明日はボスに会ってもらうから、もっと顔を作ってくるといい」とだけ言った。
 なかなか話に乗ってこないマーヤを上目遣いに見つめながらタマラが
「先週の土曜日だったかな、私、マーヤがすごいイケメンのおじさんとデートしてるの見たんだ」
と得意げに言った。マーヤは「これだから田舎は嫌なのよ、自分には関係ないんだから人が何してても放っとけばいいのに」と思いながら
「そうなんだ」
と他人事のような返事をした。モホルはマーヤの返事に吹き出して
「何が『そうなんだ』なわけ?俺もそのおじさん見たい。それ、マーヤの男なの?おじさんって言うからにはかなり年上なんだ?」
とまくしたてた。
 リュブリャーナの犯罪組織で働いていた頃の同僚で今は部屋を貸しているから一緒に住んでるの、と正直に話したらこの二人はどんな反応をするんだろう、とマーヤは笑い出したいのをこらえながら
「知り合いの知り合いよ。たまたま散歩中に会ったからそのまま少し一緒に歩いてただけ」
と答えて、まだ口を付けていなかったワイングラスに手を伸ばした。

 マーヤから夕食は外で済ませると連絡があり、何となく一人では食事を始める気にもなれず、スラーフコは自室に籠って机の上に置いた「悩みの種」と対峙していた。
 その悩みの種は、二日前にグラーツでナスチャことレンカ・ハルトマノヴァーが「六月にスラーフコが彼女に渡した証拠品のコピー」だと言って差し出したものだった。もし本当にあの証拠品の中身が六月にナスチャがイリヤに宣告した通りのものだったとしたら、これはそのコピーではない。あの日ナスチャがイリヤの元を訪れたのは、スラーフコがマーヤに教えられた通り金庫を開錠してその証拠品を手に入れた直後で、スラーフコ自身は内容物を確かめてみる余裕さえなかった。もしその時間があったとしても、スラーフコには九十年代の電話の盗聴の録音テープなどといったものを再生する手段はなかった。
 しかしナスチャが嘘をついた、というわけでもない、と思いながらスラーフコは机の隅に押しやった封筒を横目で見た。六月、証拠品を金庫から取り出し慌てて何かに隠さなくてはと思ったスラーフコは金庫の側に置かれていた銀行からの通知が入っていたらしい空の封筒に証拠品を突っ込み、証拠品よりも幾分か大きいその封筒を証拠品の大きさに合わせて折りたたんだ。ナスチャが数日前に渡してくれた「お礼のお印」は、その封筒のコピーで包まれていた。昔からこういった冗談めかしたことはやらなさそうな印象を与える女性なのにな、とスラーフコは小さくため息をついた。何にしても問題は中身だ。ナスチャはどこまでスラーフコ・マヴリッチという人物を理解しているのだろう。こんなものを渡されて、すんなり「何であるのか」が分かるほどの頭脳の持ち主だと思っているのだろうか。そう思ったところで、ドアをノックする音が聞こえた。
 スラーフコは机の上のナスチャからの贈り物にくだんの封筒を被せ、
「どうぞ」
と答えた。ドアがゆっくり開いてマーヤが顔を出し
「ただいま」
と笑顔で言った。スラーフコもぎこちなく笑いながら
「友達との食事会は楽しかったかい?」
と聞き、何だか娘に外食を許した父親の台詞のようだな、と自身の言葉に呆れた。
 マーヤはドアの隙間から体を滑り込ませるように部屋の中に入り、スラーフコが座っている椅子以外に座れるものがないのを見て取ると、ベッドの端に腰を下ろした。
「全然。つまらないことしか話題にしない人たちなの。一回付き合ってあげれば暫くはうるさいこと言わないんじゃないかと思って今日は行ってみることにしたんだけど。スラさん、どうかした?」
「なぜそんなことを聞くんだい?仕事は順調だ」
「だって、ご飯も食べずに部屋に閉じこもってるんだもの、心配になるわ。それに昨日くらいからかな、仕事以外に何か気にかかってることがありそうな感じ。何を言ってもちょっと上の空っていうか」
 そう言いながら、マーヤはスラーフコの机の上に視線を動かした。そして瞬時に目を見開き
「ちょっと、スラさん、何それ」
とつぶやいた。スラーフコは慌てて
「何、とは何だ?」
と答えたが体は一瞬で凍りついたように動こうとしなかった。マーヤは不審そうな顔をして
「前の職場から持ってきちゃった物の身辺整理をしてたって納得しようとすればできないこともないけど、なんでスラさんがイリヤ・ドリャン宛ての、しかもその銀行の封筒を持っているのかって、やっぱり疑問だわ」
と言いながら何かを読み取ろうとするかのようにスラーフコの顔を覗き込んだ。
 スラーフコはますます動揺して
「いや、これは、ナスターシャ・フィリポヴナが」
と口走り、マーヤは目を丸くして
「何?ドリャンがロシア人の女とトラブル起こしてたとか、そういう話?」
と言いながらスラーフコの顔を穴が開くほど見つめた。
 マーヤは暫く黙ってスラーフコの返事を待っていたが、スラーフコが返事に窮しているのを見て取り、再び口を開いた。
「日曜日に、受け取ってきたのね?」
「あ、ああ」
「誰から?」
「それは、言えない。すまない」
 スラーフコの返事にマーヤは大きくため息をつき、
「とにかくスラさんはその受け取った物のせいで今、悩んでるのね?見せてもらえる?」
と言った。スラーフコは、この瞬間に自分が何をすべきか分からなかった。せっかくナスチャが密かにスラーフコのために用意してくれたものを他人に見せて良いものだろうか?しかし、自分はそれをどう扱ったら良いのか分かっていない。もしかすると、ナスチャはスラーフコの傍に彼よりももっと賢い人間が存在することを見越して渡したのではないか?
 スラーフコはゆっくりと机の上の封筒を脇に寄せ、その下に隠してあった二本の鍵と、ICチップを内蔵しているのであろう、重みのある直径二センチメートル、厚みは一センチメートルくらいの円盤状の深い藍色のプラスチックの塊を持ち上げると、マーヤに手渡した。
 マーヤはそれを受け取ると口をポカンと開け、暫く見つめた後
「スラさんが、どうしてこんなものを」
とつぶやいた。
 スラーフコはマーヤが一瞬でそれが何であるのかが分かったことに、そしてこの二日間自分が一人で頭を悩ませて時間を無駄にしていたことに愕然とした。それから、これを聞くのはかなり勇気が要るな、と恥じ入りながら
「それは、何なんだ?」
と尋ねた。
 マーヤは顔をゆっくりと上げると、最初の衝撃は去ったのであろう、にたりと大きな笑みを浮かべ
「イリヤ・ドリャンの、まさにその封筒の銀行で借りている金庫の鍵よ」
と言った。
 スラーフコはまず「なぜナスチャがそんなものを持っていなきゃいけないんだ、どうしたら手に入れられるんだ」と混乱し、それから
「マーヤは、どうしてそんなに確信を持って言えるんだ。その鍵にもチップにも何も書いてないじゃないか、似ているだけで全然違うところの鍵、ということはないのか」
と動揺を隠せぬ表情で聞いた。マーヤは笑顔のまま
「私、五感が他の人よりすごく発達してるの。覚えてる?私がダイヤルを回す音だけで金庫の暗証番号を暗記してたこと。ドリャンはいつも銀行に行く時は私に鍵を持たせて受付で手渡させてたの。それでどう格好がついてたんだかは私には理解できないけど。だから触った感じと重みで分かるの、同じ鍵だってこと」
と答えた。
 マーヤは何度かイリヤにその銀行へ同伴させられていた。イリヤは「お前と行くと見栄えがいいからな」と言ってマーヤを連れ出したが、もちろんマーヤを同伴するのは受付までで、金庫のあるエリアには一人で入った。
 スラーフコが
「しかし、鍵だけあってもそういった金庫は本人でなくては近づけもしないんじゃないのか。さすがに銀行強盗をしてくれ、という意味で渡されたんじゃないと思うが」
と不審そうに言うと、マーヤは
「そんなことはないわ。そのチップ、すごい威力があるの。それを身に付けてる人だけが金庫のあるフロアに入れるんだけど、それを持ち主が託すっていうのはそれだけ持ち主に信用されてる人物ってことで、まず中に入れてもらえるわ」
と返し、更に意気込んで
「私、ドリャンに連れていかれたおかげであの銀行に顔は売れてるから、そのチップを持ってドリャンの代理だって言ったら、信じてもらえる自信はあるわ」
と続けた。そして暫く黙って考え込むような顔をした後、
「残る問題は暗証番号ね。あの物置の金庫と同じにしていたとも考えにくいし」
と言った。
 スラーフコは「結局自分は運び屋だっただけで、まるでマーヤに託されたプレゼントだったようだな」と思いながら視線を机の上に戻し、鍵の入っていた封筒を手に取った。そして何気なく封筒の中に目を落とし、そこに何かがボールペンで書き込まれているのに気が付いた。
 そこには四つの数字が、ナスチャの筆跡で書かれていた。


その名はカフカ Modulace 18へ続く


『Cíl je jen jeden』 21 x 29,7 cm 鉛筆、色鉛筆



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