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その名はカフカ Disonance 21

その名はカフカ Disonance 20


2014年9月ビュク

 ホテルに戻ったレンカは、エミルが泊まっている部屋の中央に立ったまま、エミルの帰りを待っていた。エミルに部屋の中で待っていると伝えようかと思ったが、きっとエミルもそんなことは分かっているだろう、と思い、ただ、待つことにした。
「エミルには言わなくても分かっている」、また自分はそんなことを考えている、と半分自分に呆れながら、レンカはホテルにレンカを送り届けた時のヴァレンティンの様子を思い出していた。
 レンカが車に乗り込むと、ヴァレンティンはホテルに着くまで、何も言わずに走り続けた。十三年前も、この六月からも、レンカはヴァレンティンの様々な表情を見てきた。笑った顔、心配そうな顔、苛ついた顔、馬鹿にしたような顔。しかし、どんな表情にも、常に余裕があった。その表情の裏にある確固とした自信に基づく余裕、そんなものをレンカは感じていた。この帰り道のヴァレンティンの顔には、それが欠けているような気がした。
 ホテルの駐車場に車を止めると、ヴァレンティンはレンカに
「怖い思いをさせたね」
と言った。
 レンカは
「怖くは、なかったわ。本当よ」
と返した。
 ヴァレンティンは
「アダムが戻ってくるにはまだ時間がかかる。休んでいるといい」
と言って優しく微笑み、レンカが車を降りると、静かに走り去った。
 部屋のドアの開く音がして、レンカは床に落としていた視線をドアのほうへ向けた。エミルはレンカを見ても、やはり驚いたような顔はしなかった。
 ドアを閉め、荷物を床に置いて
「ただいま帰りました」
と言ったエミルの顔は、笑っていなかった。レンカはエミルの笑顔を期待していたわけではなかったが、やはり笑えない状況に陥っているエミルを見るのは辛かった。
 レンカの傍まで来たエミルにペットボトルの水を手渡し、レンカは近くにあった化粧台の椅子に腰を下ろした。エミルもレンカと少し距離を置いて向かい合うように部屋の隅の小さなテーブルの側の椅子に座ったが、レンカの顔のほうは見ておらず、視線をレンカの足元の辺りに落としていた。
 レンカは、何から話していいのか、分からなかった。しかし、黙っているわけにもいかない。
「あなた、知ってたの?」
というレンカの問いに、エミルはレンカのほうへ顔を上げ、
「あの人に、レニ殺害の注文が来ていたことですか?知ってたわけないじゃないですか。知ってたら、こんなことにはなってなかった」
と早口に答えた。
 レンカは、これ以上エミルに何も言わせたくないと思いながら
「そうじゃなくて、彼女がこういう仕事をしてる人だってことを、知ってたのかって、聞いてるの」
と言った。レンカは、自分の声が変な落ち着き方をしているという事実に、居心地の悪さを感じた。
 エミルは、レンカから目を逸らした。
「初めて会った時から、気が付いてました。あの撃ち方は、あの構え方は、素人の趣味や自衛手段じゃない、絶対プロだなって。それが、かっこよかったんです。いいなあって射撃する姿を眺めてて、その後声をかけてみたら、びっくりするくらい綺麗な子で、声もすごく魅力的で。なんて言うんだろう、一目惚れって、こういうことを言うのかなって……ごめんなさい、こんな話をレニに聞かせるつもりじゃなかったんですけど」
 レンカは、どんな言葉を返したらいいのか分からず、黙っていた。
「本人には、直接聞いたことはありませんでした。でも、プラハに来る前に働いた分で何もせず生活できちゃうとか、異常なくらい眠りが浅いとか、やっぱりおかしいなって思うところはたくさんあったんです。ただ、聞く勇気が、なかった」
 そこまで言うと、エミルは更に辛そうな顔をした。レンカは、注意深くエミルの表情を観察しながら口を開いた。
「注文が来たのは、六月なのよね?あなたたちが知り合ったのは、その前でしょう?もし、あなたが誰のために働いているか、先に話していたら、違った結果になっていたのではないかしら?」
 エミルはレンカのほうへ視線を戻した。
「あの人は、それでも仕事を受けたと思います。きっと、僕があなたより、彼女を優先すると信じて。そんな気がします。そういう、人です」
 エミルの表情が、痛々しかった。しかしレンカは、自分が先に目を逸らしてはいけないと思いながら、エミルの顔を見つめていた。
「あなたは、それでいいの?」
「どういう意味ですか?」
「私、あなたの人生を、壊してしまったのではないかって、不安なの。私があなたを選ばなければ、こんなに制限の多い生活を送らなくても良かったはずだって思って」
「レニ、あなたは全然分かってない」
 エミルはそう言うと、レンカの目を見つめた。エミルの目からは、いつもの、冷静に何かを観察しているような色は抜け落ちていた。
「僕は、あの時あなたに救われたんです。あなたに会うまで、僕はすごく焦っていました。祖母も退職間近だったし、小さな妹におかしなバイトはさせたくないし、学生であるうちに就職したいけれど、どこでどう自分に合ったものを見つけられるのか、全然見当もつかなかった。そんな時に、あなたは僕を拾ってくれたんです」
「あなたの才能なら、他にも可能性はたくさんあったはずよ。今だって、いろいろ外部の企業から応援に来てくれって、声がかかってるじゃない」
「それは全部、レニのところで働き始めてから身につけた技術があってこそです。僕にはあなたの要求に応える能力はあるかもしれないけど、そもそも習得する機会を与えられなければ、できないままだったんです。レニ、あなたは僕の恩人なんです。そんなことくらい、分かっていてください」
 エミルは、まるで息をするのを忘れていたかのように、一旦言葉を切って、何度か浅い呼吸をしてから、言葉を続けた。
「だから、僕にとって、どちらを優先するとか、そういう問題じゃないんです。あなたに危害を加えようとした人と、一緒にいることはできないんです。僕に、そんな選択肢はない」
 そこまで言うと、エミルは手の中にペットボトルがあることに初めて気が付いたかのように手元に目を落とし、ボトルを開けたが、口を付けようとはしなかった。そして、
「僕は、さっきからなんでこんな偉そうな口を利いているんだろう。本来なら、今すぐ解雇されてもおかしくないのに」
と怒ったような口調で言った。
 レンカはエミルの言葉に目を見張り
「何を言ってるのよ?どうしてそんな話になるの?」
と聞いた。
「だって、半年も僕の傍にいた人間が、あなたを殺そうとしたんですよ?解雇どころじゃない、サシャさんの部下に縛り上げられてシベリア送りになっても当然なくらいだ」
「……私、サシャが捕らえた敵をシベリアに送ってるなんて、言ったことあったかしら?」
「じゃ、どこなんです?」
「知らないわ」
 二人は暫く見つめ合って、それから吹き出した。
「これはどう考えてもロシア人に対する先入観よ。今度サシャに聞いてみましょう。これからは、彼が私たちに見せないところでどんな仕事をしているのか、もうちょっと詳しく教えてくれるかもしれない」
 そう言うと、レンカはエミルに微笑みかけ
「お願いだから、変なことは考えないで。私にはあなたが必要なの。あなたが私のために働きたいと思っている限り、私のところにいてちょうだい」
と言葉を続けた。
 エミルは申し訳なさそうな、そして悲しげな笑みを浮かべて
「ありがとうございます」
とだけ言った。
 レンカは立ち上がると
「今は、休みたいだけ休んで。急いで移動することはないわ」
と言って、エミルの部屋を出た。
 レンカはエミルの部屋のドアを閉めると、暫くその場から動けなかった。さっき、一瞬だけイヤホンを切ったでしょう?何をしていたの?、という、聞きたくて聞けなかった質問を頭の中で繰り返したが、やはり聞かなくて良かったのだ、と思い直した。そして、自分とアダムが泊まっている部屋の前まで行き、「アダムが帰ってるな」と思いながら、鍵を開けた。
 ドアを開けると、ドアのすぐ側にアダムが立っており、レンカに「お帰り」と言う間も与えず、アダムはレンカを部屋の中へ引っ張り込んで、呼吸ができなくなるくらい強く抱きしめた。
「……ねえ、そういうのは、せめて、ドアを閉めてからにしたら?」
とレンカが言うと、アダムは片足でドアを蹴るようにして閉め、
「殺し屋が出たっていうから、寿命が縮んだ」
と言った。
「見ての通り、かすり傷一つ負ってないわ」
「やっぱり俺が一緒に行っとけばよかった」
「だから、何ともないって、言ってるじゃない」
 アダムはやっと、これではレンカが苦しいか、と思い、腕の力を抜いたが、それと同時に、レンカの体が床のほうへ滑るようにずるりと少し下がったような気がして、慌ててもう一度腕に力を入れてレンカを支え、
「どうした?」
と聞いた。
「なんだか、あなたを見たら、安心しちゃったみたい。体に、力が入らない。腰を抜かすって、こういうことを言うのかしら」
 そう言いながら、レンカは、今この瞬間まで自分の気がどんなに張りつめていたのかを初めて自覚した。
 アダムは何も言わずレンカを抱え上げると、部屋の奥まで進み、レンカを椅子に座らせ、自身もレンカの隣の椅子に座った。
「ついさっきティーナから、サシャは無事ウィーンに入ったと連絡があった」
とアダムが言うと、レンカは
「良かった。きっと大丈夫だとは思ってたけど」
と言って、柔らかく微笑んだ。
「でもまだ暫くは会えないぞ。今日も俺たちはウィーンには寄らずにプラハに戻る」
「心配しないで。今すぐ会いたいなんて駄々を捏ねるようなことはしないから」
「エミルは、女の稼業を知ってて手を出したのか」
 レンカは急に話題を変えられて、表情を硬くした。
「お願いだから、エミルを叱ったり責めたりしないで」
「なんで俺がそんなことをしなきゃならん」
「だって、いつも私を攻撃する人間は容赦なく捻り潰すくらいの勢いじゃない、あなたって」
「お前を殺そうとしたのはエミルじゃない。女のほうだ」
 レンカは一瞬、躊躇うような表情をした後、
「私ね、ついこの間、ペーテルにお説教したの。人を殺したいなんて、そんなこと、絶対に思っちゃ駄目って」
と話し出した。アダムは不審そうな顔をしてレンカの目を見た。
「でも、私にはそんなこと言う権利ないの。今日、あの殺し屋に私、この世から消えてほしい、殺してやるって、本気で思ったの。エミルが彼女の名前を呼んだ瞬間に、そこにいるのが誰なのか分かって、この人が、エミルを悲しませることになるんだわって思ったら、許せなくなったの」
「つまりお前は、エミルは女のほうには流れないという確信があったんだな」
 そう言われて、レンカは初めて「そうか、あの時、エミルに裏切られるというシナリオだったら、自分は死んでいたのか」と思い至った。
「エミルが、つい数日前に言ったの、何があっても私を裏切らないって。もし、その言葉がなかったとしても、そんな可能性は、考えられなかった」
「それは、そうだろうな。エミルがお前を裏切るなんて、ありえない」
 そう言ってアダムはレンカから目を上げ、空を見つめて暫く何も言わなかったが、再びレンカに視線を戻して話し始めた。
「ヴァレンティンは、お前の居場所の情報が殺し屋の雇い主のほうに流れたのは、サシャの上官のところからだろうと言っている。お前の名前で少将を呼び出したから、少将のほうも事前にお前のことを調べたんだろう。だが奴はサシャは自分のために取っておきたいから、サシャとは関連付けられずにお前に関してだけ情報が漏れた、ということらしい」
「そう。それで、その殺しの依頼主は誰なのか、目星は付くのかしら」
「ヴァレンティンには、もう分かっているようだな」
 そう言うと、アダムは困ったような笑いを浮かべた。
「あいつは、一生を通して三回くらいしか本気で怒っちゃいけない呪いでもかけられて生まれてきたんじゃないかと思うくらい、怒りの感情を外に出さない。しかし、今日電話してきた時は、こいつ相当頭に来てるんだなと分かった。もちろん冷静を装ってはいたがな、今すぐその依頼主を潰してくるからサシャのことは頼むと言って電話を切った」
「それで、誰なの?」
「分かるだろ、女に注文が来たのは俺たちがスロヴェニアから帰って来たすぐ後だ」
 レンカは、六月のリュブリャーナで最後に見たイリヤ・ドリャンの放心した表情を思い出した。その場にいた仲間には裏切られ、証拠品は持ち去られた。レンカに対する恨みは計り知れない。しかし、何という単純思考だろう。レンカを始末する前に正体を暴かれれば何が待ち受けているのか、ということを考える想像力もないのか。
 そして、ふとレンカは、スラーフコ・マヴリッチのことが心配になった。あんな勘の鈍い人がイリヤ・ドリャンの復讐をかわせるとは思えない。
「その後、リュブリャーナで私たちに協力的だった人たちがどうしてるのかの情報は入ってないの?」
とレンカが聞くと、アダムは
「知ってもあまり意味がないからな、調べさせていない。なんだ、心配か?」
と返した。
 レンカは「アダムにも思考を読まれているみたい」と思いながら肩をすくめて、アダムから一瞬、目を逸らしたが、
「出発の時間まで、わがままを聞いてくれる?」
と言って、再びアダムのほうを見た。
 アダムが
「なんだ?」
と聞くと、レンカは笑って
「手を握っていてちょうだい」
と言いながら、左手を差し出した。
 アダムが差し出されたレンカの左手を両手で包み込むと同時に、レンカは笑顔のまま、椅子の上で眠りに落ちた。


その名はカフカ Disonance 22へ続く


『Neplač, lásko, život je dlouhej』 水彩紙 28,5 x 27 cm、水彩



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