その名はカフカ Disonance 20
2014年9月オーストリア・ハンガリー国境
「この森を抜けると、車道に出る。そこで標的は何かの商談中だ。観客は少ないほうがいいから、取引相手が消えるのを待ったほうがいいかもしれんが、逃げ足に自身があるんなら、気にしなくてもいいかもな」
依頼主から遣わされた案内人はそう言うと、小馬鹿にしたような視線をアガータに向けた。どうしてここまでお膳立てしてやらなければならないのだ、お前は本当にプロか、と言っているかのような顔だ、とアガータは思った。
アガータは目の前の森を見据え、案内人に
「夜が完全に明ける前に、方を付けるから」
とだけ言うと、頭に被った黒のパーカーのフードの中に更に深く髪を押し込み、歩き始めた。案内人は、アガータが森のほうへ歩き始めると、来た道を戻っていった。
案内人の言い方だと、かなり近距離で撃てそうだな、と思いながら、アガータは右手に掴んだライフルを更に強く握りしめた。
依頼が来たのは六月の中旬で、既に三ヶ月も経っている。依頼主が苛つくのも当然だろう。同じ街に住んでいながら、なぜ片付けられないのか。時間が経てば経つほど、そう言われている気がした。しかし、無理だったのだ。どんなに探しても、標的は見つからなかった。標的は、プラハ内に住み、プラハ内で働いて、普通に生活しているらしいのに、捉えられなかった。標的は、捕まえようとしても、まるで影のようにアガータの指の間からすり抜けてしまうかのような印象だった。アガータは、何度となく標的に弄ばれているような気分になった。
今は休業中で仕事は受け付けていない。しかし、依頼は来てしまった。それだけ自分の評判も上がっているということだろう、プラハ内に標的がいるのなら、さっさと片付くだろう、そんな思いから、アガータはその依頼を引き受けた。しかも標的は、女一人だ。簡単な仕事のように思えた。
森の中を案内人が示した方向へ進んでいくと、車道が見えてきた。森の中には人っ子一人いない。車道よりも森のほうが幾分か土地が高くなっていて、アガータは少し見下ろすような角度で、十メートルにも満たない先に、標的を見つけた。商談は既に終わったらしく、女は一人で立っていた。女の傍らに車が一台止まっていたが、一人で運転してきたのか、車の中からは何の気配も感じなかった。
あんなに探しても見つからなかった標的が、プラハからこんなに離れた場所に「私を狙ってくれ」とでも言うかのように、一人で立っている。アガータは少し拍子抜けしたものの、この状況は自分にとっても都合がいいではないか、と心の中でつぶやいた。プラハの中で女を片付けてしまったら、その後プラハには留まっていられない可能性が大きい。今のアガータには、プラハを離れる、という選択肢は考えられなかった。
この距離ではライフルを使う意味もないなと思い、右手に持っていたライフルのショルダーベルトを左肩に掛け、ハンドガンをパーカーの内側から抜き取って、アガータはまず女のどこを撃つのか、見定めた。殺し屋の仕事は「殺害」であって、「いたぶり」ではない。一発で仕留めなくてはいけない。
アガータは右手に持ったハンドガンにサイレンサーを取り付け、セイフティを解除した。そして、一呼吸分の間を置いて、ハンドガンを構えようとした瞬間、
「アギ、君にあの人は、殺せない」
と、背後から、エミルの声が聞こえた。
アガータは、銃を体から三十センチメートルくらい離した中途半端な位置まで浮かせたところで、動きを止めた。幻聴だろうか?いや、こんな幻聴が聞こえてしまうほど、自分の心は弱くはないはずだ。
アガータは、どうして、あなたがここにいるの?と言いたかったが、声が出なかった。そして、エミルの声が聞こえたのとほぼ同時に、標的が、アガータのほうへ首を回した。
あの位置では、エミルの声が聞こえるわけもなく、夜が明けかけているとは言え、まだ薄暗い森の中に立つアガータが見えるわけもないのに、女の目は真っすぐ、アガータを捉えていた。燃えるような、恐ろしい目だった。このままあの目に焼き殺されそうだ、とアガータは思った。そして、つい先ほどまで何の気配も感じられなかった女の車の中から、今までの人生で遭遇したことがないほどの巨大な殺気が溢れ出しているのに気が付いた。アガータは、車の中から銃口がこちらを向いているのかもしれない、と思った。
エミルは
「アギ、銃を下ろして。地面に置いて」
と言い、更に
「もう一度言う。君にあの人は殺せない」
と続けた。
アガータは、からからに乾いた喉から声を絞り出すように
「どうして?」
と聞いた。
「僕が君の後ろにいるんだ。お互い正面を向いていたらいい勝負だろうけど」
アガータは、お互いに正面を向いていたとして、私があなたを攻撃するとでも思うの?と言いたかったが、言葉にならなかった。
「それでも、撃つって言ったら?」
「アギ、君は単に雇われただけなんだろう?依頼主に対する忠誠心もなければ、あの人に対する個人的な恨みもないはずだ。危険を冒してまで決行する理由がないじゃないか」
「それでも撃つって言ったら、どうするのって聞いてるのよ」
半ば叫ぶように発せられたアガータの言葉に、エミルは一瞬黙って、それから
「それでも君があの人を傷つけると言うのなら、少なくとも君の腕の肘から下半分を吹き飛ばすくらいのことはする」
と答えた。そして、もう一度静かに
「銃を、離して」
と言った。
アガータは、呆然と前方を向いたまま、脱力したかのようにライフルとハンドガンをほぼ同時に地面に落とした。瞬時にエミルとは別の人物が二挺の銃を素早く持ち去る気配を感じ、アガータは愕然とした。森に入った時には、誰もいないように感じたのに、背後には、一体何人の人間が控えているのだろう。そう思った途端、アガータのその思いを汲み取ったかのように、ぽつりぽつりと、背後の森の中に気配が増えていくのを感じた。
エミルは
「両手を、頭の後ろで組んで」
と言いながら、アガータが被っているパーカーのフードを下ろした。フードの中から、アガータのウェーブのかかった真っ赤な髪が溢れ出した。アガータは「頭に手が届くくらい、エミルは今、近くにいるんだな」と思いながら、頭の後ろで手を組んだ。
「後は僕が片付けます。行ってください」
とエミルが言うと同時に、標的は素早く車に乗り込み、車は静かに走り去った。アガータは「なんだ、通信機器で繋がってたのか」と頭の隅でぼんやり考えた。
エミルは思わず「ごめんね」と言いそうになるのを抑えながら、アガータのパーカーの裾を上げ、ベルトに装着してあったナイフを外した。今まで見せてもらったことのなかったそのずっしりと重いナイフを手に取り、エミルは厚手の革の鞘から、少しだけ刃を出してみた。そこには、ナイフの作者のサインが彫り込まれていた。「これは国軍の空挺部隊専属の作家の手によるものではないか。こんなものを、どうやって手に入れるのか」と、エミルは顔をしかめた。
それからエミルはアガータのジーンズのポケットに入っているカードケースを取り出しながら
「依頼主は、誰?」
と聞いた。
「知るわけないじゃない。殺し屋に来る注文は、全部匿名なの。そのほうが、お互い安全だから」
「注文が来たのはいつなの?」
「六月の中旬だと思う」
エミルは、また顔をしかめた。六月上旬のバルカンの盗難騒ぎで、レニはどれだけ恨みを買ったのだろう。しかし、この「負かされたから殺してしまおう」という、あまりにも短絡的な報復計画からして、依頼主を暴くのは簡単なようにも思えた。
アガータのカードケースから身分証明書を抜き取って、エミルはその高度な偽造技術に目を見張った。チェコでは身分証明書がプラスチック製のカードに完全に移行したのは二年ほど前だ。EUに加盟している他諸国もそれぞれ時期は前後しただろうが、そのプラスチック製の機械による読み取り対応型のものが導入されてからは、EU圏内ではどこでも身分証明書として使えるようになった。各国デザインは異なっているが、エミルはEUに加盟しているほぼ全ての国の身分証明書のデザインを把握していた。
アガータの持っているスロヴァキアの身分証明書の偽造品は、公的機関やEU圏を出入りする際に国境や空港で使われる個人情報を自動認証する機械には通用しないのだろうが、外観はほとんど本物と変わりなかった。
「これは、どうしたの?」
とエミルがつぶやくように聞くと、アガータは
「どれのこと?前を向いてるんだから、これって言われても分かんないでしょ。振り返っても、いいの?」
と返した。
「身分証明書。こんな高度な偽物、初めて見た」
「今回の依頼主が、何か欲しいものないかって言うから、作ってもらった。それまで他で安く作ってもらったコピーの改造みたいなちゃっちいのしか、持ってなかったから」
エミルはその身分証明書の偽物だけをジャケットの内ポケットにしまい、カードケースをアガータのポケットに返した。他の所持品の分別は、一緒に来ているサシャとティーナから遣わされた武装部隊に任せることにした。
エミルは、アガータの頭のほうへ視線を戻した。頭の後ろで手を組んだまま、身じろぎもせず佇んでいるアガータを見て、エミルは「君は、どこまで強いんだろう」と言いそうになった。その代わりに、エミルは
「この仕事、もうどのくらいやってるの?」
と聞いた。
アガータは真っすぐ前を向いたまま
「五年くらい、かな」
と言った。
どのくらい頻繁に仕事が入るのだろう、今まで何人の人を手に掛けたのだろう、この空挺兵のナイフも犠牲者から盗ったのだろうか、そんな疑問が、エミルの頭の中を駆け巡ったが、口にできなかった。答えを、聞きたくなかった。
エミルは、ゆっくりと右手を上げて、アガータの髪に触れた。それまで微動だにしなかったアガータは、思わずエミルのほうを振り返った。
エミルは左手でイヤホンを外すと、電源を切って、
「ねえ、君の本当の名前を、教えてくれる?」
と聞いた。
【地図】
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