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その名はカフカ Disonance 19

その名はカフカ Disonance 18


2014年9月オーストリア・ハンガリー国境

 チェコがスロヴァキアやハンガリーなどを含む九つの国々と共にEUに加盟したのは2004年五月のことで、2007年一月に新たにブルガリアとルーマニアが加わって以来、EUは現在レンカが仕事で行き来している国はほぼ全て網羅している。それからというもの、国境というのはあってないようなものだった。車で国境を越えれば、いつの間にか道路標識が変わっている、特急の国際列車に乗れば、気付かぬうちに停車駅の名前が違う言語になっている。それまで煩わしくてしょうがなかった国境でのパスポート審査の不在には、すぐに慣れた。
 国境は、あってないようなもの。いや、なくなってしまっていたのだ、今日という日までは。この十年間で、今日ほど「国境」に意識を向けたことはない。そんなことを考えながら、レンカはヴァレンティンの運転する車の助手席から、まだ薄暗い明け方の風景を眺めていた。
 ビュクを出発してから、ヴァレンティンはほとんど何も言わなかった。レンカもあまり話をする気分ではなかったが、十分ほど走ったところで、静かに口を開いた。
「どうしてこの仕事は、サシャの国境越えと同時に実行しなくてはいけないのかしら?」
「一刻も早くサシャに会いたいだとか、そんなわがままを言う気じゃないだろうね?それを受け取った時点で、君にはこの仕事が待ち受けていることは分かっていたはずだ」
 ヴァレンティンはそう言いながら、前方を向いたまま右手の人差し指でレンカの膝の上のA4大の茶封筒を軽く弾いた。
「サシャがオーストリアに入るのと時を同じくする、これも必須条件だ。相手はどう考えても既にサシャのだいたいの動きに関する情報を入手している。たぶんサシャが大使館に入ったくらいの時点からね。それくらいできなくて、どうしたらGRUの支局長なんてやってられるんだ。それなら、サシャの危険が一番大きくなる可能性のある時間帯は、別の場所で奴を押さえておけばいい。単純だ」
「きっと、一人では来ないでしょう?」
「誰かは連れているだろうが、大部隊ではないことは確かだ。彼もスパイの中のスパイなんだよ。単独行動のほうを好む」
「サシャのほうに誰かを送り込んでいる可能性は?」
「それも薄い。僕らが計画した通りに進めば、サシャの位置を随時正確に把握するのは容易ではない。それに、彼がいくら階級が高いと言っても、軍からの仕事でない限り、動かせる人間は限られているはずだ。人数で、こちらが勝つ可能性のほうが高い」
 何を言っても、ヴァレンティンは自身の信念と正論で切り返してくる、もう何も言わないでおこう、そうレンカが思った瞬間、ヴァレンティンは車を止めた。レンカは、改めて外を見た。まっすぐに伸びた車道の両側を森が囲んでいる。他に走る車はなかった。
「ここなの?」
「ああ、ここだ」
「来るかしら?」
「来る。絶対に来る。もちろん指定した時間は既に過ぎているが、それも計算済みだ」
 レンカは、冷静でいようと思えば思うほど不安が大きくなってくるのを抑えられなかった。自分は、交渉相手が怖いのだろうか?それもあるのだろうが、きっと自分が一番怖れているのは、その交渉の結果なのだろう。それには、サシャの未来が懸かっている。何がどう転んでも、サシャのこれからの人生に絶対的な平穏というのは訪れないのだろうが、この交渉だけは、失敗できない。
 ヴァレンティンは、レンカの膝の上で微かに震える左手を横目で見ながら
「悪いが、僕にはアダムのように君を慰める包容力も勇気づける潜在能力もない」
と言った。
 レンカは窓の外を向いたまま、
「そんなことは、ないと思うわ。アダムほど、効力はないでしょうけど」
と答えた。
 ヴァレンティンは
「君はどこまでも正直だ」
と言って、右手をレンカの左手に重ねた。それとほぼ同時に、一台の車が後方から走ってきて、二人が乗っている車から十メートルほど先まで行ってUターンすると、ゆっくりと戻ってきて、対向車線の路肩に止まった。
 ヴァレンティンは
「勝算は、こちらにある」
と言うと、レンカのほうを向いて
「さあ、行っておいで、レンカ」
と言って微笑んだ。
 レンカもヴァレンティンのほうを向くと、ヴァレンティンの右手の下にある左手を裏返して手のひらを上に向け、ヴァレンティンの手を一瞬だけ強く握り、
「ありがとう、ヴァレンティン」
と言って、車のドアを開け、外へ出た。
 レンカがドアを閉めたのと同時に、対向車線の車の運転席からも、一人の男が降りた。秋の早朝の外気は、冷たかった。レンカは薄手のコートを着ていたが、これを脱いで武装をしていないことを証明しろ、と言われたらさすがにきついな、と思いながら、茶封筒を持つ左手に力を入れ直し、男のほうへ歩き始めた。
 男との距離が二メートルほどに近づいたところで、レンカは立ち止まった。まだ夜は明けきらず、薄暗いが、相手の顔が見えないほどではない。レンカは「この男ではないな」と思いながら
「ロマノフスキー少将は、いらっしゃっていますか?」
と聞いた。
 男は
「そちらは、まだ車の中に、誰か?」
と質問で答えた。レンカは
「運転手が、一人」
とだけ返した。男は頷くと
「こちらも同じです」
と言ってから車の側に戻り、男がヘッドライトの前あたりで立ち止まると同時に、中肉中背の初老の男が助手席から降り、レンカのほうへ近づいてきて、レンカの一メートルほど手前で立ち止まった。
 レンカは頭を下げることも、握手を求めることもしなかったが
「ロマノフスキー少将、ご足労いただき、感謝いたします」
とだけ言った。
 少将はレンカの目を真っすぐ見て
「あんたがハルトマノヴァーか?いちいち私の名をこんなところで連呼する必要はない」
と返した。レンカも少将の目を見ながら「今日は無駄に笑う必要は、ないらしい。偽物の笑いはどうせ見破られてしまうだろう」と思った。
 少将はレンカの目から視線を逸らさず言葉を続けた。
「簡潔に済ませろ。ティモフェイェフは今まさにオーストリアへ移動中だということは分かっている。あんたのほうから来た話では、更に詳しい情報を提供できるということだが、その代償は、何だ?あんたはその情報と引き換えに、何が欲しいんだ?」
「少将殿、交渉内容が、幾分か間違って伝わっているように思われます」
 レンカの言葉に、少将の目の奥がぎらりと光ったように見えた。
「私には、無駄にしている時間はない。こんなところで足止めを食らわせて、馬鹿にしているのか?」
「取引をしたい、という要請に変わりはありません」
 レンカはサシャの上官を目の前にして、全く怖れていない自分が不思議だった。勝算はこちらにある、ヴァレンティンがそう言うのなら、そうなのだろう。ただ単純に、その言葉を信じているだけなのかもしれない。
 レンカは少将の瞳の奥を観察しながら話を続けた。
「簡潔に済ませたいのは、こちらも同じです。しかし少々、お聞きしておきたいことがあります。アレクサンドル・ティモフェイェフのイギリスでの市民権の申請を取り下げたのは、少将殿、貴方ですか?」
「そんなことを聞いて、どうする?」
「答えていただけないのですか?では、もう一つお聞きします。少将殿は、ティモフェイェフに彼のロシア国籍は復活している、とお伝えになっていたそうですが、それは事実ですか?」
「……あの国で、そんなことが可能だと、あんたは本気で思うのか?」
「つまり、彼の国籍は、剥奪されたままだった、ということですね?少将殿は、ティモフェイェフを、無国籍のままイギリスに不法滞在させ、ロシア軍のために働かせていたということですか」
 少将は、答えなかった。レンカは自分の内側で、静かな、しかし無視することのできない大きな怒りが湧き起ったのを感じた。一体この人は、サシャという一人の人間を、何だと思っているのだろう?
 数秒の間を置いた後、レンカは少将の目を見据えたまま、
「少将殿は、八十年代にブカレストで、任務に就かれていましたね?」
と言葉を続けた。そしてレンカは、少将の目が、僅かに見開かれたのを見逃さなかった。
 少将が何も言おうとしないのを見てとると、レンカは
「このような物が、存在しているのです」
と言って、左手に持っていた茶封筒を差し出した。少将は、受け取るべきかどうか、しばし迷っているようだったが、片手を伸ばすと素早く掴み取った。
「中を、確かめてはみないのですか?」
というレンカの言葉に、少将は
「何なのかは、分かっている」
と答えた。悔しそうな、声だった。
 レンカは静かに
「それはもちろん、コピーです」
と言い、
「原本は、ブカレストに厳重に保管されています」
と付け加えた。
 レンカは徐々に失望の色を濃くしていく少将の目を見据えながら、言葉を続けた。
「こちらの要求を、聞いてくださいますね?」
「……何だ?」
 レンカは柔らかに微笑むと、一呼吸分の間を置いてから
「今後一切、アレクサンドル・ニコライェヴィチ・ティモフェイェフに関わらないこと。それだけです。貴方はご自分のドイツでの任務が終了すると同時に、イギリスのGRU駐在局に彼を謀殺してもらおうとでも計画していたのでしょうが、今貴方が握りしめている紙切れは、いくらでも複写ができて、どこにでも拡散できる、ということをお忘れなきよう願います」
と言った。
 少将は、レンカの言葉を聞きながら、ゆっくりと歪んだ笑いを浮かべた。
「あの男を、始末する?私が本当にそんな無駄遣いを、すると思うか?一体今までどれだけ私があの男に目を掛けてやったと思っているんだ。あんたがどういう経緯でティモフェイェフのために動くことになったのかは分からんが、あんたも知ってるんだろう、あの男の後ろでどれだけ多くの人間が動いているのか。奴らはほとんどロシア軍や旧ソ連軍からの脱落者だ。裏切者のくせに、忌々しいほどに優秀な奴らで、鼻が利く。祖国は平気で裏切ったのに、ティモフェイェフを頭と崇めることに決めたら、鋼の忠誠心を見せる、奇妙な奴らだ。私がドイツでの任務を終えても、ティモフェイェフにはいくらでも利用価値がある。イギリスに置いておくわけにはいかないが、"東"のどこかに移動させて使い続けるつもりだった」
 レンカは、ロシア軍の上級士官だろうと、キツネのようなチンピラだろうと、結局は同じ人間なんだな、と思いながら聞いていた。窮地に陥ると、無駄に饒舌になる。
「あんたは私の一存でティモフェイェフを利用していたと思っているかもしれないが、私にはGRU外の軍の中にも、私に賛同し何かと協力を頼める上層部の人間はいる。ティモフェイェフの"護衛"を派遣してもらったのも、そういったところからだ。軍の中枢の動きではないおかげで、大して優秀な人間は回してもらえなかったがな」
 少将が言葉を切ると、レンカは一旦無表情に戻り、少将の手の中の茶封筒に目を落とし、また少将の顔に視線を戻した。
「私たちの交渉は、成立ですか?」
「ああ。満足か?」
 レンカは大きな笑みを浮かべて
「ええ、とても」
と言った。
 二人は、それぞれ異なった性質の笑顔を浮かべたまま、暫く見つめ合って、その場に立っていた。
 空気は冷たいままだったが、空はだんだんと明るみを帯びてきていた。


その名はカフカ Disonance 20へ続く


『Lenka』 Skitseblok 21 x 27 cm、鉛筆、色鉛筆



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