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その名はカフカ Disonance 22

その名はカフカ Disonance 21


2014年9月プラハ

 あえてオーストリアは通過せず、スロヴァキアを経由してビュクからプラハまで約六時間をかけてエミルがアダムとレンカと共にプラハへ帰って来たのは午後八時のことだった。
 ビュクにはアダムが乗ってきた車とエミルが借りた車、計二台があったが、アダムは「エミルの乗ってきた方はカーロイにどうにかしてもらおう」と言って、三人で一台に乗って帰って来た。
 アダムは、エミルに明け方の出来事については何も言わなかった。エミルに運転を交代させようともしないアダムを見て、エミルはアダムに余計な気を使わせているような気がした。今の自分は、運転もできなさそうなくらい痛々しく見えるのだろうか、と思いながら、プラハまで後部座席でただ座って外の風景を眺めていた。
 エミルは事務所の駐車場で降ろしてもらい、そこに止めてあった自分の車で家に帰った。玄関を開けると、玄関ドアから少し距離を置いて、ジョフィエが立っていた。
「お帰り」
とジョフィエが言うと、エミルは無表情のまま
「ただいま」
と返した。
 二人とも、暫く何も言わずに立っていた。エミルは何から話していいのか分からず、それはジョフィエも同じようだった。
 それからジョフィエは、エミルの足元に落としていた視線を僅かに上げると、
「あたし、大学入ったら、一人暮らししようかなって思うんだ。大学入ったらって、入れたら、の話だけど」
と話し始めた。
「ジョフィの頭なら、どこにでも入れるし、何でも好きなことが勉強できるよ。でも、なんで家を出るの?」
「エミルがいなくても、あたしは大丈夫だってことを証明するため。全部、お芝居なんだ。エミルに相手にしてもらいたくて、わざと問題を起こしてる。やらないって決めれば、やらずにいられる」
 そこで言葉を切って、ジョフィエは顔を上げ、エミルの顔を見ると
「それに、お父さんとお母さんが帰って来た時、あたしがいるよりも、エミルがいたほうがいい。だから、どっちか一人が家を出るんだったら、あたしのほうだと思う」
と言った。
 エミルは一瞬、何を言われたのか分からなかった。まさか妹が、両親が再び現れるかもしれないという希望を未だに抱いているとは、想像もしていなかった。
 ジョフィエは微かに笑って
「エミルは、もう諦めちゃったの?」
と言った。
 エミルは、返す言葉が見つからなかった。もう何年も前から、両親がまだ生存しているかもしれないという可能性は考えなくなっていた。きっと二人は解決されようのない事件に巻き込まれたのだろう。そしてもう一つ、エミルが捨てきれない可能性として、自分たちは両親に見捨てられたのかもしれない、という疑惑があった。
 両親はどことなく、浮世離れした人たちだった。まるでその二人を支えるかのように、エミルは幼いころから大人びた性格だった。もし、本当に両親がエミルとジョフィエを置いて、自分たちの意思で姿を消したのなら、エミルは両親にもう二度と会いたくないと思っていた。しかしそれは、ジョフィエには絶対に言ってはいけないことのような気がして、ジョフィエの前では一度も口にしたことはなかった。
 ジョフィエはエミルの返事を期待するのを諦めたかのように、エミルから視線を逸らした。そして、
「ねえ、エミル、ちょっと、そのベルト、貸してくれる?」
と小さな声で言った。
 エミルは不意打ちを食らったような顔になって
「ベルト?なんで?」
と返した。下を向いている妹の顔が、なんだか赤くなった気がする。
「あの、ごめん、ほんと、悪気なかったんだ。使ったの三回だけだし、毎回、すごく短かったし」
「ジョフィ、落ち着いて。全然話が読めない。何を言ってるの?」
 そう言いながら、エミルはジョフィエに近づいた。何よりも、エミルはジョフィエが自分に生まれて初めて謝っている、という事実に驚いていた。
 エミルはジョフィエの前まで来ると、身をかがめてジョフィエの顔を覗き込んだ。ジョフィエはますます恥ずかしそうな顔をした。
「その、シルバーの先っちょの飾りの内側に」
と言って、ジョフィエがエミルが締めているベルトの先端を指し示すと、エミルはジョフィエの顔から目を離さずに、ベルトのジョフィエが示した部分を触った。
「ここに?」
「……盗聴器が、入ってる」
 エミルは一瞬、きょとんとして、それから素早く体を起こして、まじまじと自分の触っているベルトの先端部分を見つめた。
「そんなこと、あり得る?」
「……うん。すごいの、作ったの」
「で、使ったわけ?」
「だから、三回だけ。本当は、一回だけ実験してみて、終わらせるつもりだった」
 エミルは、ゆっくりとジョフィエに視線を戻した。
「ごめん、そんないやらしいこと、本当はしたくなかったんだ。でも、最初に実験した時、エミル、女といて」
 エミルは、ただジョフィエの顔を見つめていた。少なくとも、妹は悪戯が成功して喜んでいるようには見えない。
「それで、声を聞いて気が付いた。何かがおかしい、この女、普通じゃないって。だから、二回目の接続でエミルの上司の動きが掴めたから、『エミルが危ない』って警告しに行った。あの人、直接言わなくても分かってくれたんだと思う、あたしが何を言いたかったのか」
 そこまで言うと、ジョフィエは顔を上げて、エミルのほうを見た。エミルは、なんだか泣き出しそうな顔だ、と思った。
「三回目は、エミルがなかなか帰って来ないから、ちょっと聞いた。でもその後は使ってない。ごめん、今から外すから、ベルト貸して」
 エミルは、ゆっくりとジョフィエのほうへ手を伸ばし、ジョフィエがまだ幼かった頃叱っていた時と同じようにジョフィエの頬に両手を当て、顔を挟んで目を合わせ、真剣な表情で
「ジョフィが初めて兄ちゃんに謝ってくれたことに、兄ちゃんは感動している」
と言ってから、吹き出した。
「ねえ、ジョフィ、兄ちゃんだって、誰にも聞かれたくないようなこと、してる時あるんだよ?こんな、いつも身に付けてるものに盗聴器なんて、恥ずかしすぎるよ。もうやらないって、誓える?」
とエミルが笑いながら言うと、ジョフィエも笑顔になって
「うん、もう絶対にやらない」
と嬉しそうに答えた。
 エミルはジョフィエの顔から手を離すと、
「じゃあ、一緒に外そう。そのすごい盗聴器っていうのを見せてよ」
と言った。
 ジョフィエは
「もしかすると、仕事で使ってもらえるかもしれない。探知機に反応しないんだ、それ」
と言いながら、先に立って自分の部屋へ向かった。
 エミルはジョフィエの後に続きながら、「僕たちが盗聴器を駆除することはあっても、こちらから仕掛ける機会なんて、あるかなあ」と考えた。そして、「ああ、自分はまた、これからの仕事について考え始めた」と自覚し、少し驚いた。
 普段エミルは、自分の仕事の次の展開を常に考えていて、先を見越した動きを心がけている。ただこの日は一日中、自分の「これから」、レンカの仕事のための「これから」に、考えを巡らせることができないでいた。自分には、まだ「これから」が、ある。改めてそう意識すると、不思議な気分になった。
 ジョフィエは部屋のドアの前で立ち止まると、エミルのほうを振り返った。
「あたし、エミルの上司に、謝りに行ったほうがいいかな?あり得ないくらい、あたし失礼だったと思うんだけど。それとも、私なんかにもう会いたくないかな?」
「あの人は、そういうことを根に持って怒るような人じゃないけど。確かにこのまま、なかったことにするのも良くないかも」
「あなたのところに就職するつもりはございませんって、伝えといたほうがいいかな?そんなことも、見透かされてる気もしないでもないけど。何か手土産を作っていこうかな?」
 そう言いながら、ジョフィエは部屋のドアを開け、エミルを招き入れた。そして、
「社長さん、こういうの好きだったりする?」
と聞きながら、手芸用作業台の上の、淡いピンクのシルクオーガンジーを幾重にも重ねて裾に幅の広い黒いレースをあしらって作られたボリュームのあるスカートを指し示した。
 エミルは「レニがこういうのを着たら、面白いかもしれない」と思いながら
「ジョフィはあの人に、似合うと思う?」
と聞いた。
 ジョフィエは、少し何かを思い浮かべるように視線を宙に浮かせた後、
「全然だね」
と言って楽しそうに笑った。
 エミルは久しぶりに見る、妹の素直な笑顔が嬉しかった。そして、今まで鏡を見るように自分とそっくりだと思っていた妹の顔は、いつの間にか自分とは違った成長を遂げていることに気が付いた。これでは一人暮らしをさせるとしても別の心配が出てくるな、と思い、そんなことを考えている自分に、エミルは心の中で苦笑した。


その名はカフカ Disonance 23へ続く


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