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その名はカフカ Disonance 23 / Konsonance

その名はカフカ Disonance 22


2014年10月ケストヘイ

 海と隣接していない内陸国ハンガリーにおいて、「ハンガリーの海」と形容される巨大な湖、バラトン湖は周囲に多くのリゾート地を有している。そのうちの一つでありバラトン湖の西端に位置するケストヘイは「バラトンの首都」とも言われ、十八世紀から十九世紀にかけて貴族が住んでいた宮殿などの歴史的建造物でも、多くの観光客を魅了している。
 観光客が密集する街の中心からは離れた静かな森の側に、カーロイは別荘を持っていた。レンカは久しぶりに訪れたこの別荘の大きな裏庭のプールの傍らのベンチに座って、霧がかった十月の冷たい空気を味わっていた。
 家の中から庭へは客間の大窓から出入りができるようになっている。レンカは背後から落ち葉を踏みしめるようにして近づいてくる足音を聞きながら「今日は気配を消すつもりはないらしい」と思ったが、振り返らなかった。
 ヴァレンティンはレンカの座るベンチの後ろに立つと
「こんな寒いところに座って、こうしていればアダムが同情して抱きしめてくれるだろうなんていう魂胆なのかい?」
と聞いた。
 レンカは前を向いたまま
「アダムには、そんな演出は必要ないの。抱きしめてほしいって思ったら、いつでもそうしてくれるの」
と素っ気なく言った。
 ヴァレンティンはベンチの前に回ってレンカの隣に腰を下ろすと、レンカと同じように視線をプールのほうへ落とし、
「じゃ、何をしているんだい?」
と聞いた。
「私、ペーテルがまだ小さかった頃、ここでよく一緒に遊んだの。その頃から疑問なんだけど、あんなに大きい湖がすぐ近くにあるのに、どうしてカーロイはこの庭にプールなんて造ったのかしらって。あの頃も、全然使わなかったのよ」
「それは、金持ちの見栄か思い込みじゃないか。庭にプールを造るのは当然だっていう」
「そうなの?」
「お洒落なカーロイのことだから、庭のプールは別荘にあって然るべきアクセサリーの一つだと考えていそうだ」
 レンカはやっとプールから目を離すと、ヴァレンティンのほうを見て、暫く見つめた後、おもむろに口を開いた。
「あの日の、あのサシャの上官に会った日の私たちの会話、エミルが全部録音してたんだけど」
「それは最初から分かっていたことじゃないか。少将との話は当然、記録しておくべきだ」
「その前の、車の中の会話から、全部、アダムが聞いたんだけど」
 ヴァレンティンはニヤリとしてレンカのほうへ顔を向けた。
「それで?僕たちの清く美しき友情が復活した記念すべきあの瞬間に、何か問題でもあったかな?」
「私、改めて自分で聞いてみたら、あの瞬間に何が起こってるのか、聞いただけじゃ分かんないなって、思ったの」
「アダムはそのことについて何か言ったのかい?」
「何も。ちょっとくらい、何かあってもいいと思うんだけど」
 レンカの言葉に、ヴァレンティンは呆れた顔をして
「何を期待しているんだい?いい歳をして、焼きもちを焼いてもらいたいだとか、子供じみたことを言う気じゃないだろうね?」
と言った。
 レンカはヴァレンティンから目を逸らすと
「どうしてアダムの私に対する信頼はこんなに厚いのかしら。どうしてアダムはこんなに自信満々なのかしら、とも言い換えられるんだけど」
と返した。
「贅沢な悩みだ。君は自分がどんなに恵まれているのか分かっていない。そして、どうして君はそんな話を僕に聞かせるんだろう」
とヴァレンティンが言うと、レンカは再びヴァレンティンに視線を戻し
「だって、あなたは私の親友でしょう?親友に悩みを打ち明けて、何が悪いの?」
と言って、悪戯っぽく笑った。
 ヴァレンティンは眉を上げて
「君がこんな取るに足らない可愛らしい悩みを僕に打ち明けてくれるようになるとはね。何だか、十三年前に時間が巻き戻った気分だ」
と答え、またプールのほうへ視線を戻した。
 レンカは、ヴァレンティンを見つめたまま、十三年前の記憶をなくした時のこと、その後起こったこと、そして、スラーフコ・マヴリッチに残したメッセージのことを思った。
 あの時、記憶をなくさず心も体もそれまで通りのバランスを保ったままだったら、アダムが自分を心配してくれることも、自分に興味を持ってくれることさえもなかったのだろう。そして自分は、本当はそうしたいと思っていたのにもかかわらず、こちらの世界で仕事を続けたいなどという望みを口にする勇気もなく、バイト期間終了と共に彼らのもとを去っていたのだろう。時々カーロイに「みんな、どうしてる?」なんて聞いていたのかもしれない。
 たった二日間の記憶をなくしただけで、どうしたらこんなに自分はおかしくなってしまえるんだろう。記憶をなくしていた十三年間、レンカは何度となくそう思った。今なら、分かる気がする、とレンカは思う。自分はこの人に、ヴァレンティンに、どうしてももう一度、会いたかったのだ。
 あの二日間のことは何も覚えていないのに、意識の深いところに「カフカの中心に会った」と刻み込まれていたのだろう。既に体も衰弱して、しっかりものを考えられなくなっていた時、衝動的に、まるで助けを求めるかのように、スラーフコにメッセージを書き残してしまった。
 その名はカフカ。中心を間違えないでね。
 それはスラーフコに対するというよりも、自分自身に対するメッセージだった。カフカの四人を見ているだけでは、中心人物が誰なのかは分からない。一番年上のカーロイかもしれないし、紅一点のティーナかもしれない。アダムかサシャである可能性も捨てきれない。
 でも、違う。忘れないで。もう一人いるの。
 レンカの視線を感じていないはずはないのに、ヴァレンティンはそれを気にする様子もなく、ふと思い出したように腕時計を見やり、時間を確かめると、
「そろそろサシャが着く時間だ」
と言ってレンカのほうを向き、
「これで全員集合だ」
と続けた。
 レンカはヴァレンティンを見つめたまま
「それが、最初の質問の答え」
と言った。
 ヴァレンティンは首をかしげて
「何を聞いたっけね?」
と返した。
「こんな寒いところで何してるんだって聞いたじゃない。サシャが到着したら、カフカの五人は揃って全員集合、かもしれないけど、私は何?邪魔じゃないの?そう思ったら、家の中にいたくなくなったの」
「今更君がそんなことを気にするとは思ってもみなかったな」
 そう答えると、ヴァレンティンは少し考えるような顔をしてから、
「君は、僕たちの飼い主だ」
と言った。
「何、それ?」
「僕たちは五人で一羽の鴉なんだよ?だから君は、僕たちの飼い主だ。どうだい、すごいお役目だろう?」
「……私は逆に、あなたたち五人に飼われているような気がしないでもないんだけど?」
 ヴァレンティンはレンカが最後の言葉を言い終わるか終わらないかのうちに立ち上がると、
「それなら、立場が逆転するように努力してみるといいさ。君が僕たちとこれからも一緒にいたいと思っているのなら」
と言って、レンカを見下ろした。
 レンカは暫く座ったままヴァレンティンを見上げていたが、
「鴉のほうが、飼い主を選ぶのね。私を選んでくれた鴉さんの期待を裏切らないように、良い飼い主にならないといけないわね」
と言って笑うと、腰を上げた。
 ヴァレンティンも満足げに笑って、レンカを家のほうへ促した。二人が客間の大窓の側まで来ると同時に、大窓が内側から開いて、ティーナが顔を出し、
「サシャが着いたわよ。まったく、そんな寒いところで何してるのよ、風邪ひくわよ」
としかめっ面をして見せた。
 レンカは「立場が逆転するには、まだまだ時間がかかりそうだな」と思いながら、顔に大きな笑みを浮かべたまま、家の中に入った。



その名はカフカ Disonance〔了〕



その名はカフカ Modulace 1へ続く



『Vzkaz pro Lva Nikolajeviče』 Bamboo (Hahnemühle) 19 x 28 cm、水彩



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