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30年の病院勤務 ②こうして診療情報管理士の道へ



病院勤務30年の実務経験から、

現場がわかる医療コンサルタント

髙村松世(Matsuyo)です。



     🍀 🍀 🍀



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医療事務を目指したきっかけ



30年の病院勤務


①初ものづくし/民間病院時代


③起業するまでの公務員時代



30歳。
病院で初めての診療情報管理士となりました。
一般的に病院に1人いるかどうか、
という時代。


病院機能評価
(※1病院を第三者機関に評価してもらうもの)
https://www.jq-hyouka.jcqhc.or.jp

合格、というのが早速の課題でした。
そこで求められる評価基準を満たすように
業務内容を選定していきました。

・診療録の書き方を医師へ情報発信
・診療録監査を開始
・同意書の基準、手順を整備
・同意書の種類を選定、作成基準を整備
・クリニカルパスの導入
・職員への教育
・紙カルテの整理(用紙の統廃合)
・それに伴う運用をマニュアル化
・紙カルテ管理の徹底化
・ICD分類開始(疾病、処置・手術統計)
・退院サマリーの管理

など。


医事請求業務も担当していたので、
約1年間はほぼ休みなし、
出勤日は残業が当たり前。


子供たちを0歳から保育園に預けながら
これまでにない、全く新しい仕事を作り出し、
院内調整を図りながら
イチから業務を構築していきました。


この時に「ゼロイチ」の大変さを
身をもって体感しましたね。


右も左もわからない。
何をどうしたらいいのかわからない。


どのような状態が正解なのかも
全くわかりませんでした。

身体も心もヘトヘトでたった1人で
やっているという感じ。


疲れと不安で緊張の毎日。


大きな救いは
子供のことで
ほとんど心を痛めずに済んだこと。


多くの女性は、子供を産むと
子供と一緒にいることを望みます。


「ママ!行かないで」と泣かれた時に
知らんぷりして仕事へ向かえる女性が、
世の中に何人いるでしょうか。


私もそうです。


ある時、幼稚園の園長先生に
「お話しがあります」と呼び出され
「あなたに母性はあるんですか?
仕事、仕事って、仕事をして
何になるんですか?」
と言われたことがあります。


私は物心ついた時から
弟、妹がいて、
家族のために自分の時間を
費やしてきました。


両親にも気を遣って
欲しいものも欲しいと言えませんでしたし、
塾や習い事も行かせてもらえませんでした。


仕事をすれば、自分自身の人生を
生きているという充実感がありました。


私から仕事をとったら
何の取り柄もない、意欲もない
ただ消費するだけの
毎日を過ごす人になる、と思っていました。


いつまでも、生まれ落ちた
家庭環境のせいにして
皮肉と諦めの世界にいる。


そんな私が人を育てることなんてできない。


自分が充実している背中を見せることで
子供たちには私を選んで生まれてくれた
お返しをしていこうと思っていたのです。


そして、私が仕事と家庭を両立させる
ことは、これから後輩に道筋を作る
お役目がある、とも思っていました。

幸い、子供達は私の仕事に理解があり
(まさか!当時は勝手にそう思い込んで💦)


主人や近くに住んでいた妹から
十分すぎるサポートを受けながら
仕事に打ち込むことができました。


息子たちは、私が居なくても
穏やかに頼もしく成長してくれました。


本当に感謝です。



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そして、機能評価は無事合格。


約1年間、
何もないところから、
それまで経験したことのない緊張感の中で
精一杯取り組んだ結果、


私は上司であった副院長をはじめ
医師からは信頼していただける存在に
なりました。


一方、事務職の上層部からは
煙たがられる存在になりました。


その時、まだヒラ社員でしたので
私の上には主任、係長、課長、部長が
いらっしゃいます。


その指示命令系統を飛び越えて
医師が直接、私に仕事を依頼してこられる
ことを快く思われていなかった直属の上司から
「イジメ」を受けるようになったのです。


私だけ会議の情報をいただけなかったり
課の集まりに呼ばれなかったり
稟議書を回しても無視されたり


それでもメゲずに仕事に取り組みました。


その頃には、
診療情報管理室を切り盛りし、
組織横断的に仕事をしていました。


ただ、
昇級も給与アップもなかったのです。


そこで私は、これまで取り組んだことで
どれくらいの経済効果があったのかを可視化。


その資料をもとに、給与をあげてほしいと
副院長へ掛け合いました。


それが認められ、1年に2階級昇進という
これまた病院始まって以来、初めて
の人になったのです。


このことが引き金となったのかどうか
今では定かではありませんが、
直属の上司からのイジメはエスカレート。


極め付けは、100時間の残業手当が
ついていなかったこと。


給与明細、残業手当ゼロ円。
流石に納得できず、お話しに行ったところ
「ごめん、ごめん、忘れとったわ」


翌月、2カ月分の残業手当が
振り込まれていました。


5月の給与です。
そう!サラリーマンは5月の給与で
1年間の課税金が決まります。


それまでの人生で最も高所得で喜ばしいはずが、
その後1年間
高額な税金を支払うことになりました。


身体も心も緊張のピークだった心の糸が
ブツン・・・


朝起きても出勤することができなくなりました。
そして、
約1カ月休職することになったのです。


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復帰してからは、
2階級昇進を承認してくださった副院長が
直属の上司となりました。


そこからの私は、さらに仕事に
パワーを注いでいきます。


・地元地域の病院へDMを配送
・診療情報管理士の情報交換会を発足
・学会やセミナーで発表しまくり
・セミナーや勉強会に積極的に参加
 (全国どこでも行きました)
・近畿全域の研究会で幹事役員に抜擢
・病院でめて新しい部門
【医師事務作業補助】を立ち上げ、
 医師のサポート体制を構築


この頃は、診療科分析や病院経営の指標となる
分析も始めていました。


この頃、数名部下がいましたので
彼女たちが働きやすい環境を作るよう
努めました。

女性が8割の医療事務の業界で
役職付きの8割は男性ということに
理不尽さを感じていました。


人並み以上に努力して掴んだポストも
何歳も下の男性スタッフが
ひょい、と登っていくのを見て
心がざわざわしたこともあります。


でも、それを恨んでも仕方がありません。


私は、特に自分の部下で
仕事に意欲のある女性スタッフに対し、
これからのキャリア形成を考えるよう
機会あるごとに話をしました。


資格取得を勧めたり、
どこでも通用するスタッフの育成に
尽力もしました。


嬉しいことに、
たくさんの女性がその病院で
なくてはならない人になったり、


社会福祉士や診療情報管理士の資格をとり
新しいフィールドへ旅立った人、
今でも病院で患者さんのために
働いている人もいます。


そんな日々を過ごしているある日、

とある
病院経営コンサルタントの方を通じて
自治体病院からオファーを
いただくことになるのです。


「一緒に病院経営を立て直して欲しい」


これが人生最初のヘッドハンティングです。


診療情報管理士としてイチから学ばせていただいた
民間病院から、
私を温かく育っててくださった
副院長の元から

巣立って、自治体病院へ移ります。

そしてこれまでに類を見ない
過酷な状況へ突入していきます。

新たなステージの幕開け・・・


to be continued

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