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法事ってさ

法事。古臭い文化の代表例としてあげられることの多いイベントだ。
不要だ、という意見も多い。実際、コロナ禍以降こうした古来からの慣習的な催しは、一気に縮小している。自分も、正直法事に関してはプラスのイメージは持っていなかった。

先日、実家にて祖母の法事があった。と言っても、従兄弟の家族だけを招待して家でやる小さな法事だったが。
そこでの住職さんの発言が印象的だった。

・もう法事自体をする人が少なく、中には兄弟すら呼ばない家もある。
・そんな中で、これだけ人数が集まっているこの家はそれだけで素晴らしい
・故人を思い偲び、人を集められるだけで、一家安泰だ
・実際、ある程度栄えている家は、こうした法事を大事にしている家が多い

もちろんお寺さんもビジネスでお金を稼がないといけないので、多少の営業トークは含まれているだろう。
これは、我が家が持ち上げられて気持ちよかった、という話ではない。この話には、人生をより良く生きるための重要な要素があった気がしたのだ。


要するに、余裕と人望が大事、ということな気がする。

正直、法事をしたところで、現実的なメリットは1円もない。お香典とかはもらえるが、出費に比べればわずかなものだろう。それに加え、準備に時間もかかる。お礼も言わない(言えない)故人のために時間を使っているわけだ。
絶対に、金銭的・精神的な余裕がないとできないことだと思う。

特に大事なのが、精神的な余裕のほう。正直、亡くなった人のことを思い出すことなんて、日々の生活でめったにない。誰だって目の前の現実の課題の処理で手一杯だ。

でも、みんなで仏壇の前に座っている間くらいは、故人との思い出を振り返ることができる。そんなことをしたって、1円の得にならないかもしれないが、そこに人間が人間として生きていく上で大事な心の余裕があると思う。

お盆やら法事やら、そうした古臭い慣習は、そうした心の余裕を強制的に持たせてくれるイベントな気もする。祖先に感謝したり、故人との思い出を懐かしんだり。せめて、その特定の期間だけは、そうした心の余裕を持つ。
眼前の現実だけを見てあせくせと生きているだけの余裕のない生活では、いつかは限界が来るな、と思う。


そして、もう1つ大事だなと思うのが、人を集めること。要するに、法事というのは喪主が人を集める儀式なわけで。同じく、集められる人たちにも、先述した通り、参加したところでメリットはほとんどない。

そんなめんどうくさい儀式に、わざわざ出てくれるということがどれだけありがたいことか。そこに勇気を持って呼びかけることがどれだけ大変なことか。
そうしたことができる人が持つものが、人望というのではないだろうか。

法事をすることが社会慣習ではなくなりつつあり、任意参加になっているこの時代において、法事に参加する人が多いということは、それだけ家が愛されている証拠、という住職の言葉には一定の説得力がある。

こうした考え方は、何も親族に対してだけの話ではなく、人とのつながり、縁というのをどれだけ大事にしているか、ということにもなると思う。そこを大事にしない人たちが、大きく成功する未来はない、というのはそれなりに納得する。


故人を思い偲べるくらい、心に余裕を持って生き、人とのつながりを大事にする。こうしたことができるような大人になっていかねばと思った週末でした。
以上!

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