一言日記の弊害
先月くらいから、日記をつけている。このnoteのことではなく。
Google keepに日付をとりあえず入れて、箇条書きでひたすらにその日あったこと、思ったことを書いていくのだ。
ネットに公開することを前提にしていないから、他人の実名はバンバン出てくるし、オチも特にない文章が多い。だからこそ気軽にかける。
それでも当日に書くのを忘れて、翌日、なんなら翌々日とかに3日分ガッと書くこともあるけども、不思議なもので、数日前の記憶なら何となく思い出せる。この作業が結構楽しい。
noteと違って苦労してはないから、読み返すことはあんまりないけども、数日前の記憶ですら懐かしく思えるから人間って不思議なものだ。
そんな感じで楽しい日記ライフを送っているだけども、1つの弊害が。逆にその日の出来事をざっと書いただけで満足しちゃって、noteに投稿するモチベが低くなってしまうのだ。
なにかの映画を見ても、見た事実と簡単な感想をメモして終わりになってしまう。結局、メモでは「よかったー」みたいな小学生の感想どまりになってしまうことが多い。非常にもったいない。
だからといって辞めることはしないのだが、やってみて分かった面白い事実だった。自分は非公表の日記ということですら、書くこと(アウトプット)することに満足感、いや安心感を覚えてしまう人間だなということが分かった。
仕事しかしていない1日。ダラダラとネットサーフィンだけをした1日。そうした虚無な1日でも、なにかのアウトプット行為があるだけで、すごく生産的なことをした気持ちになる。
簡易な日記はそうした安らぎを与えてくれつつも、同時に逃げ道になる。だから、なるべく毎日、1,000文字くらいの文章は書こうと最近は意識し始めたのだ。
ただ、日記も継続していく。「短くまとめる力」というのは、すごく大事なことだと思うから。その日にあったできごとを、3行くらいの文章にまとめて、よいタイトルをつけられるような人間って、すごく魅力的ではないだろうか。
糸井重里さんの文章とかを読んでいると、すごくそれを思うのだ。その日の1日を表現するのがうますぎると。
考えて、1つの「文章」を生み出す力と、短いけども力強い「ことば」を生み出す力。その2つは種類の違うもので、陸上の短距離走と長距離走みたいな、別種目だと思う。だから、自分はどちらもやっていきたいのだ。趣味で楽しくやれる範囲で。
身体を動かすとわけもなく気持ちよくなるのと同じように、文章を書くだけで楽しい。陸上のトラックと違って、ゴールの見えない男坂みたいなもんだけど。ちびちびと走り続けます。
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