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思うがままの「随」筆をしてみる

今日は、思うがままに書いてみようと思う。現在時刻は23時30分。大好きな先輩と飲みに行き(残念ながら美女の先輩ではなくおっさんだ)、楽しく酔っている。今日のnoteは、理性は最低限に、楽しく思うがままに書くnoteとしたい。


エッセイではなく、随筆である

そういう意味では、今日のnoteは本当の随筆だ。「随」という漢字の意味は

①したがう。ついていく。ともにする。「随員」「随行」「随従」
②思いのまま。言いなりになる。「随意」「随筆」

漢字ペディアより

酔いながら書きたいことを書いているこの文章は、まさに「随」筆だ。

自分はこの「随筆」という日本語が好きだ。英訳や仏訳すると、「エッセイ」だったり「エセー」となるが、自分には別物に思える。エッセイの語源はラテン語の「重さをはかる」や「試みる」らしい。やはり随筆とは違うと思う。

筆に従う。筆の思いのままになる。そんな日本語の随筆には、自分の心に素直で、ただ従っているという日本人らしい、奥ゆかしさが感じられる。
一方で、エッセイは、巨大な自己意識という存在に「挑む」ような、征服感や挑戦のニュアンスが感じられるとも思う。やはり仰々しい。

今日の気分は、随筆だ。この記事で自分の自己意識を分析しようとは全く思わない。思うがままに筆を取りたい気分なのだ。


推敲の苦しみから解放された

こういうスタンスで書いていて、何がいいって、推敲をしなくてよいことだ。自分の中で、最高の免罪符だ。

前々から、推敲が文章を書く上で大事だと聞かされていた。そして、それは『取材・執筆・推敲――書く人の教科書』を読んで確信に変わった。
この本の記事は、どこかでゆっくりと書きたい。素晴らしい本だった。


とにかく、推敲が一番大事だとわかった。でも、推敲は辛すぎる。
自分のダメなところの直視の連続だ。違和感を感る。でもそれをうまく直せないもどかしさ。

場合によっては、時間をかけて書いた文章が白紙に戻ることもある。悲しい。感情だけで言えば、そんなことはしたくない。

でも、自分に違和感を感じているなら、そこで妥協してはダメだ。そう自分に言い聞かせて、文字を「削る」ために推敲を重ねる。たま~に追記することはあるけども、大部分は文章をスリムにしていく行為だ。


PCを見ながら数回音読。時間に余裕があれば時間を空けて、もう一度音読。デバイスを変えてもう一度音読。その間にも何度も修正。そうして記事を書いている。

これを今日はしなくていい。そう決めた。もちろん、書きながら手を加えている箇所もあるが、今日は随筆なので、時間を置いて全体の論理を見直すなんて、絶対にしない。今の気持ちを正直に書いてしまうとこれだ。


読解力を鍛えたい

ひいては、自分の読解力のなさ、感受性のなさに嫌気がさす。オモコロのこの名記事をご存知だろうか。

これを読んで、自分の文章を見る力の無さに嫌気がさす。
だから、自分は推敲してもいい文章を書けないのだ。推敲する自分が読解力が、感受性がなければ、自分の文章にダメ出しできるはずがない。

これの10分の1の読解力、感受性があれば。もっと良い文章が書けるだろう。何万字も書くよりも、もっと磨くべき、努力すべきところをこの記事は教えてくれる。


露骨に文体に影響を受けるな

ちなみに、最近の記事で、文体が硬いのは、この記事の影響をもろの受けているからである。
芥川とか、太宰を読んだ後って、「である」とか、「~と思う」とか多用してしまう。

なんて単純な。でもそれがカッコいいと思うからしょうがない。

そろそろ日付が変わる。
連続更新した時の通知が好きなので、このまま更新してしまおう。
読み返さなくてよいなんて、幸せだ。

おやすみなさい。

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