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「戦国時代なんかにまじになっちゃってどうするの?」 映画『首』感想 

映画『首』を見てきた。小さめの箱だったのもあるが、公開1週経っているのにほぼ満席。戦国時代の映画がこれだけ人気なのも嬉しい。

自分はアウトレイジシリーズくらいしか見ていない、北野映画初心者。他作品を見てみたい欲はあるんだけども、配信がなくてTSUTAYAかGEOに行かないといけないのしんどすぎる。

そんな北野武ライトユーザーな自分の一言でまとめた感想としては、「ポップな北野映画」だった。


今作品、割りと明確にテーマがある。群像劇ではあるが、見た目も中身も全員濃いので、誰が誰だが分からなくなることもない。
笑いどころもしっかりと用意されているし、迫力あるアクションシーンもある。

ただし、ある1点がめちゃくちゃキツイので、絶対にデートで選んではいけない映画だ。暴力要素?いや、今作はそこまででもない。ホモ要素だ。


戦国時代のリアルな汚さを描く

CMで散々宣伝文句にされていた言葉。「学校で描かれていない歴史」。視聴するまでは、裏切りとか、暴力とか、そういった「アウトレイジ」的な要素が中心かなと予想していた。もちろんそういった要素もある。しかし、それらは本質的なものではない。

じゃあ、北野武がこの映画で描いたものは何かというと、「リアルな汚さ」だと思う。


その中でも、自分にとって一番の衝撃は、冒頭に書いた「ホモ要素」である。有名な武将はだいたいホモだった、という事実は知ってはいたが、映像として見せられたのは初だったので、かなり衝撃的だった。

物語の前半で、遠藤憲一が演じる荒木村重が明智光秀にキスしようと顔を近づけるシーンがある。結局、明智にキスは拒否され、ハグでそのシーンは終わる。

「あ、やっぱガチホモシーンはNGだったのね」と思いきや、その後より激しめのホモシーンが入る。モロだ。

自分の安易な予想を裏切ってきた。まさかあんな大俳優たちにホモシーンは撮らせないだろうと思っていたが…
しかし、この俳優陣で衆道文化を描けるのは北野監督しかいないだろう。そういった意味では、彼が戦国映画を作ってくれてよかったとも言える。

それにしても出演俳優は年をそれなりに取ったおじさんである。かなりキツイ。リアルなのかもしれないが、キツイ。
宣伝シーンでホモ要素が少ないのも納得である。性器こそモロに描写されないけども、TV放映できないようなシーンなのは間違いない。


なにもエログロだけがこの映画の「リアル要素」ではない。農民たちによる落ち武者狩りや死体漁りをトコトン描写される。死刑執行に大興奮する群衆をはじめ、大衆が持っていた負の要素をそのまま描く。

「戦国時代は侍だけが汚い殺し合いをしていただけじゃない。お前らみたいな一般人の祖先もこんなことをしてきたんだぜ」という、メッセージが伝わる。


個人的にこうしたリアルな戦国時代の描写で一番良かったのが、軍隊には必ずセットで存在していた、売春婦たちの集団を描いたことだ。

インフラも整っていない中世においては、どこの軍隊も、補給はなく現地調達。むしろ、軍隊という移動する集団が1つの都市のような機能を持つことすらある。

そして、軍隊という男の集団に必須なのが、売春。残念ながら、これは中世まではごく当たり前の光景だった。
秀吉の中国大返しに、必死についていく売春婦たち。彼女らも生活のために、軍隊についていかないと飢え死ぬ。

足軽たちと一緒にマラソンさながらに売春婦たちが走り続けるシーンは、シュールさもありながらも、当時の人たちが必死に生きていた「リアルさ」を感じられて好きなシーンだ。


一番納得のいった裏切りの理由

リアルな戦国時代、と書いたが、それは「汚い」ところに関してに限定した話。綿密な時代考証で描いた作品ではない。

しかし、数々の歴史作品がえがいてきた明智光秀の裏切りの理由。これは、今作品が一番納得がいった。

どういった理由か。文章で書くとシンプルだ。
「織田家の跡目は活躍次第で家臣にやる、と言っていた信長が、実はバカ息子に継がせようとしていたことが発覚したから」という理由。
今まで自分が跡目になれるかもと必死で頑張ってきたのに報われないから信長を殺そう、というのが裏切りの理由である。

こうして文章に書くと味気ない。単純な出世欲か、とすら思えてしまう。だが、物語として映画を見ていれば、裏切りの理由が単純な出世欲ではないこともわかる。すごく光秀に感情移入してしまう。


これが今作品の構成のすごいところだ。物語の前半は、大部分が信長のパワハラするパートで占められている。「もうこれ以上は辞めてくれ」と視聴者全員が懇願するくらい、ひたすらに信長の理不尽な振る舞いによって苦しめられる家臣たちが描かれる。

「うつけ者」なんてレベルじゃない信長の狂人ぶり。そしてこんな狂人でありながら、天下統一の一歩手前までいく存在という、畏怖も同時に感じる。そんな信長に虐げられ、それを耐え続ける光秀。

人外と思って我慢してきた、しかしそんな信長ですら、自分の息子を愛おしく思うただの人間であった。単純に跡目を継げないという損得の感情も超えた、別種の落胆がそこにあっただろう。

光秀が「第六天魔王、人にあらずとして仕えてきたが、所詮は人の子か!」
と吠えるシーンはウンウンとうなずくしかない。

個人的にこの解釈はかなり納得がいったし、少しクドいなと思っていた信長の描写も、このためだと思うと非常に納得できた。


北野武であり、秀吉でもある

そして今作品の主役である秀吉。北野武が演じている。
演じているものの、やはり北野武は北野武、なのだ。

ばかやろう、このやろう、は回数は少ないが普通に言うし、相変わらずの滑舌だし、大名らしい威厳がある演技もしない。なにも変わらない北野武がそこにいる。

でも、秀吉なのだ。
不思議と、秀吉ってこんな感じだったのかも、と思わせる説得力があるのだ。

ぶっ飛んだ言動、決してかっこよくはない姿、でもコイツは何かちがうな、ヤバいやつだなと思わせるような風貌。その全てが、秀吉かも、と思わせる要素になっている。

これが北野武が天才と言われる所以なのかと。そう感じさせる演技だった。


作品全体を見たときにも、コメディアンである北野武が秀吉をやっているのは意味があったと思う。

豪華な俳優陣の中で、やはり北野武は浮いている。しかし、今作品では、この秀吉の異質さも、1つのテーマだったと思う。後述するテーマに繋がってくるが、秀吉はあくまで農民出身の身分だ。

切腹する侍はバカにし、名誉なんかよりも実益を大事にする。京都のパレードには農民の出自だから参加はできない。秀吉は侍たちの中ではやはり異質な存在であり、だからこそ、北野武という存在の違和感は作品にとっても必要な要素になってくるのだ。


「首」というタイトル

首というタイトル。これも秀逸だ。
見事に本作品を表す一言だと思う。

乱世の時代に生きる人々の、様々な思いは、この「首」というワードに集約されていた。

敵の首を取ることに必死な侍たち。そんな侍に憧れ、大将首を取ることに必死な茂助のような農民。そんな首をどうでもいいと吐き捨てる、農民出身の侍である秀吉。

そして終わり方。え、これで終わり?というあっけなさを一瞬感じるも、きれいにタイトルに言及したあの終わり方は、大好きだ。戦国時代なんてのは、高尚なものではなく、人間の首(名誉)を追い求めるイカれたホモたちの殺し合いでしかないというのが北野武の戦国時代感なんだろう。


今作品はこうしたタイトル回収はじめ、非常にテーマがわかりやすい。

結局、出てくる侍たちは、みんな侍じゃない「一般人」に殺されていく。信長は明智光秀でなく、従者の黒人に首を取られた。光秀もその首をとった茂助も、農民たちの落ち武者狩りに殺された。最後に勝ち残ったのは、切腹の文化をあざ笑う秀吉だった。

もちろん、戦国時代の最後の勝者は徳川家康になるのだが、少なくともこの映画の勝者は侍ではない。首や名誉にこだわる侍をおしのけ、地位も立場もない農民たちが勝者となる。

この結末の根底には、ファミコンゲーム、『たけしの挑戦状』から続く、北野武のコメディ感覚、「こんなゲームにまじになっちゃってどうすんの」精神が宿っている。

『たけしの挑戦状』クリア時の画面

名誉や天下のために必死に殺し合う人間たちをあざ笑うような結末。そういった意味ではやはりこの映画はコメディ映画とも言えるし、コメディアンが作った映画としてあるべき形だ。


北野映画の良さは変わらない

北野武映画は初心者だが、この監督の作品の良さがようやくわかってきた。ストーリーだとか、感動の展開を期待してはだめだ。

シーンごとのインパクトと、ぶっ飛んだキャラ。これを楽しむのが北野映画なのだ。本当に北野映画には、物語の展開なんかよりも、シーンが印象に残る。画面作りがすごくうまいのだろうと思う。

見ている瞬間よりも、見終わった後にジワジワと好きになってくるタイプの映画が多い。『首』も同じく。POPとは冒頭に言ったものの、そういった北野映画の本質的な良さは失われていないような気がする。凄くいい作品だったし、劇場で見れてよかった。

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