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汚いスタンド・バイ・ミー 『華麗なるギャツビー』

映画、『華麗なるギャツビー』を見た。理由は無性にレオナルド・ディカプリオを見たくなったから。「洋画好きあるある」な発作だと思う。

そんな本作品、しっかりと「ディカプリオ味」を堪能できる、いい映画だった。しかしそれだけの映画でもなかった。「ディカプリオ味」もしっかりと存在しつつ、あまり彼の他の映画にはない、新たな側面がこの映画にはあった気がする。


作品に華を持たせる顔

本作品は主演であるディカプリオが暴れまくる映画かなと思っていた。しかし、映画としての本作品の主人公にあたるのは、トビー・マグワイア演じる冴えない青年、ニック・キャラウェイだと思う。

スパイダーマン以外の彼の映画を見たのは始めてだったが、ディカプリオもそうだが、この俳優も最強クラスの顔だなと改めて思った。どの角度、どのシーンをとっても、「トビー・マグワイア」なのだ。物理的な話ではなく。

彼が出るだけで、作品の雰囲気が彼の色に染まっていく。顔面のどアップのシーンなんて、普通はつまらない。ただ、作品に華をもたせることのできる俳優なんかは、そうしたシーンを「魅せ場」にさえすることができる俳優なのだなと、改めて感じた。

トビー・マグワイアもレオナルド・ディカプリオも、どちらもそのレベルの俳優だった。


主役の2人に限らず、どの俳優も良い演技をしていたと思う。
人の顔と名前を覚えるのが得意でない自分としては、どのキャラ(俳優)も顔とキャラ付けが個性的で、非常に助かった。主要な登場人物でこれ誰だっけ?ってなることがなかったのは、物語の没入に非常に大きく貢献した。


同じ終わり方、同じテーマ

見終わった時のパッと頭に思い浮かんだ感想。それは記事のタイトルにもなっている、「汚いスタンド・バイ・ミー」だった。

最初にこう思った理由の大きなところは、単純に終わり方が同じだった、というところもあるだろう。どちらも主人公が過去を振り返りながら、筆を取っている。そして、最後のシーンでは小説の最後の一文を独白して終わる。

最初は単純に似たような演出で終わったな、という印象だった。多くはないが、そんなに特別な演出でもないとも言える。ただの共通点の1つかなと思っていた。


ただ、よく考えると、この2作品、意外と共通点が多い。まず、テーマが全く同じだと自分は思った。『華麗なるギャツビー』は、最初は恋愛をテーマにした作品かと思った。最後まで見てもそう思う人もいるかもしれない。ただ、自分はこの作品のテーマは「友情」だと思う。

過去に恋した女性に対して、愛を持ち続けた純情なギャツビー。たとえ悪人だと言われようとも、汚い金の儲け方をしていようとも、ギャツビーは主人公にとってかけがえのない友人だった。豪華絢爛なパーティをしなくなっても、出自が貧しい農民だとわかっても、主人公だけはずっとギャツビーのよき理解者で、純粋な友人であった。

そして、友人として見てきた一人の人間の生き様を、文字に起こす。


『華麗なるギャツビー』も、この作品のテーマは友情なのだと確信させられたのは、ラストシーンだ。

原稿を書き上げた主人公は、表紙の「GATSBY」とタイピングされた表紙に、こう手書きで書き加える。「THE GREAT」と。

ここで、この映画は単なる一人の男の伝記的な物語でも、恋愛物語でもないと感じた。単なる伝記なら、「ギャツビー」だけでよい。恋愛物語なら、悲恋の物語らしい形容詞を付けるだろう。しかし、主人公がそこに追記したのは「GREAT(華麗なる)」の形容詞。

ここに、ギャツビーへの友人として、人としての尊敬の念がしっかりと込められていると自分は感じた。世間での評価ではなく、主人公自身のギャツビーへの思い。それをこのタイトルに端的にあらわしている。


スタンド・バイ・ミーも同じくラストシーンで改めて作品のメッセージを伝える構造になっている。

小学生から時は流れ、級友たちはみんなバラバラになった。主人公は主人公の生活があるし、そこに過去の仲間たちの姿はない。最も尊敬していた友人は死去した。そんな状況で、主人公はこう綴る。

私は彼を忘れることはないだろう、「友情は」永遠のものだ。
あの12歳の時に持った友人に勝る友人を、二度と持ったことはない。
誰でも、そうなのではないだろうか。

映画『Stand By Me』ゴーディのセリフより

友情の儚さと美しさを端的に表した素晴らしい表現だと思う。やはり映画はラストシーンがいかに重要か、そう感じさせる2本の映画だ。


子供の世界か、大人の世界か、

『スタンド・バイ・ミー』と『華麗なるギャツビー』。どちらも友情をテーマにした作品だが、大きく違うのは描かれる世界だ。

『スタンド・バイ・ミー』では、主人公たちは小学生。悪ぶってタバコを吹かしたりもしているが、そこには純粋な子供の世界がある。金も、女もない。純粋な自分たちの冒険心を満たすために、死体探しの旅にでるストーリー。

一方でギャツビーのいる世界は、経済成長を続けるアメリカの、金と権力が物を言う汚い大人の世界。資産家、成金、ギャング。そんな欲にまみれた大人の世界での友情を描いた物語だ。ここが見事に真逆の作品になっている。

純粋な世界を描き切り、美しく純粋な友情を描いた『スタンド・バイ・ミー』も素晴らしい作品だが、友情モノとしては『華麗なるギャツビー』のほうが自分は好きだ。

世間からの評価ではなく、自分が感じたことに忠実に、人間として正しく生きようとする主人公の生き様は、シンプルにカッコいい。そして、その主人公だけがギャツビーを友として認めることも。
主人公は「つまらない男」と作中では何度も富豪たちに言われるが、人間として正しく生きているのは間違いなく主人公側だ。

うす汚い大人の世界で、純粋でまっすぐに生きることの難しさ、というのを何となく感じてしまう年頃になってしまったからこそ、自分はこの作品の主人公を愛したいし、主人公と同じく不器用に生きるギャツビーのことを応援してしまう。


ディカプリオだけの映画ではなかった

レオナルド・ディカプリオの映画は、割と「主役1本」な映画になりがちな印象だった。良くも悪くもアクが強すぎて、他の役者の存在が霞んでしまう。だから、大好きな作品というのはあまりなかった。

でも、この作品はそこにトビー・マグワイアが主人公として登場した。彼はディカプリオに負けない演技をやってのけたと思う。個性の強いキャラではなく、傍観者に徹する主人公として、見事な演技をしてディカプリオに負けない存在感を出した。

ディカプリオを堪能するためだけに見始めたが、それだけではない、いい映画だったと思う。


でも、一番のベストアクトは、「The Great Gatsby」という原題を「華麗なるギャツビー」と翻訳した翻訳家のセンスかもしれない。

自分だったら、直訳して「偉大な」としてしまうだろう。でも、別にギャツビーの生き方は偉大ではない。「偉大な」は世間的な名声や何かを成し遂げた人物にこそ送られる言葉だと思う。彼は富は築いていたが、そこはこの作品の本質ではない。

初めて本気で恋した女性のために、城を建て、毎晩を豪華なパーティを続け、いつか出会えるのを待ち焦がれる。そんな彼の純粋で美しい生き方には、まさに「華麗な」という形容詞こそが相応しい。これが、この作品で一番好きなところかもしれない。



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