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ドイツの画家クルト・シュヴィッターズが生まれた。


ArtDailyは2022年06月20日に、ドイツ人アーティストであるクルト・ヘルマン・エドゥアルト・カール・ジュリアス・シュウィッタース(Kurt Hermann Eduard Karl Julius Schwitters/Kurt Schwitters/1887 - 1948)は1887年06月20日に、父親エドワード・シュヴィッタース(Eduard Schwitters)と母親ヘンリエッテ・シュヴィッタース(Henriette Schwitters)の一人息子として、ドイツのハノーバー(Hanover)のルーマン通り2番地(Rumannstraße 2/現在は住宅番号8(Hausnummer 8)の建物)の1階で生まれたと報告した。

両親は婦人服店を経営していたが、1898年に店を売却し、得たお金でハノーヴァー市内でいくつか不動産を購入。不動産の賃貸収入で生活を始めた。

ドイツにいる間、ずっとシュヴィッタースはこの賃貸収入で生活をしていた。

https://time-az.com/main/detail/64791

1893年にュヴィッタースの家族はドーレン(ハノーバー)(Döhren (Hannover))ヴァルト通り(Waldstraße/後のヴァルトハウゼン通り/Waldhausenstraße)5番地へ移る。ここはのちに、メルツバウ(Merzbau)として改装される家である。

1901年に、シュヴィッタースはてんかんの発作に襲われて苦しむが、てんかん発作が理由で、第一次世界大戦の兵役を終戦前まで免除されることになった。

シュヴィッタースは、ドレスデンにある王立サクソン芸術アカデミー(Königlich Sächsischen Akademie der Künste in Dresden)で学んだ後、ハノーヴァーに戻り、印象派スタイルで芸術活動を開始している。

クルト・シュヴィッタースは、ダダイズム(dadaism)、メディア構成主義(constructivism,)、シュールレアリズム(surrealism)、詩(poetry)、音(sound)、絵画(painting)、彫刻(sculpture)、グラフィックデザイン(graphic design)、タイポグラフィー(typography)、インスタレーションアート(installation art)として知られるようないくつかのジャンルやメディアで働いていた。

ほぼ同年代のオーストリアとドイツのダダイズムの芸術家であったラウル・ハウスマン(Raoul Hausmann /1886 - 1971)は、1918年から1922年まで所属していたベルリンのダダ運動の重要なメンバーとり1917年からハンナ・ヘッヒ(Hannah Höch)とともにベルリンに在住し、制作を続けた。1919年に雑誌『ダダ』を創刊し、1920年まで3号が刊行された。1920年にはベルリンで第1回国際ダダ展を共催し、クルト・シュヴィッタースやハンナ・ヘッヒとともにプラハのダダイストたちを訪問した。

この旅は、メルツ=アンティダダ=プレザンテスムツアー(Merz-Antidada-PRÉsentismus-Tournee)として、ベルリンのダダイストシーンにおける政治的分極への反動となるものであった。

クルト・シュヴィッタースは、Merz Picturesと呼ばれるコラージュで最も有名であった。

2018年06月20日に公開された作品は、クルト・シュヴィッタースにより、ライデン(Linden)で1921年に制作された紙のコラージュ「Mz 302」である。7 1/8x5 5/8インチ、プライベート・コレクション。
© Artists Rights Society (ARS), New York / VG Bild-Kunst, Bonn.

2017年06月20日に公開された作品は、Das Undbild, 1919, Staatsgalerie Stuttgart.」である。

ナチスが政権を握った1933年以降、クルト・シュヴィッタースにとって悪化する一方だった。
1934年にはハノーファー市とのタイポグラフィーの契約を失い、1935年にはドイツ国内の美術館に収蔵されていた彼の作品が没収された上ナチス支持者らによる展覧会でさらし者にされた。

1937年01月02日、ゲシュタポ(Gestapo)から「話を訊きたい」と求められた。
シュヴィッタースはハノーファー(Hanover)を脱出し、1936年12月26日にドイツを出てノルウェーに行った息子エルンスト(Ernst)と合流した。

ノルウェー北部にもドイツ軍が迫った1940年06月半ば、シュヴィッタースは息子と娘と共に砕氷船フリチョフ・ナンセン(Fridtjof Nansen)号でスコットランドへと亡命した。

彼は大戦後は健康問題で苦み、1946年には一時的に目が見えなくなり、その他に何度も発作が起こった。
シュヴィッタースはイングランド北部のケンダル(Kendal)で1948年01月08日に心臓発作で没し、アンブルサイドに埋葬された。

彼の墓には何も印が置かれなかったが、1966年に「クルト・シュヴィッタース - メルツの創作者」と題された墓碑が置かれた。

この墓碑は現在もアンブルサイドに記念碑として残されているが、シュヴィッタースの遺体は後にハノーファーに移されて埋葬され、1929年の彫刻作品『Die Herbstzeitlose』の大理石によるレプリカがその上に置かれている。

Hanover Rumannstraße 2の緯度、経度。
52°22'47.9"N 9°44'57.8"E
または、
52.379964, 9.749381

2006-06-18---「ダダ」の世界を探求できるサイトが登場!
1938-09-01---デンマークのアーティスト、ペア・キールケビーが生まれた。

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