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星空にあわせて廻る街区、富士見廻舞台住宅

 かつては先端技術で建築された施設も、時間がたてば傷むし壊れもする。そんな建物の問題を診断し解決策を探ることを生業とする建築診断士、播磨宮守ハリマミヤモリの元に新たな依頼人が現れる。

 事務机を挟んで向かい合った半透明の美女は、薄い唇を小さく震わせた。

「うちに、霊が出るんです。なんとかならないでしょうか」
「・・・・・・風水や方角にご不安が?」
「いえ。方位は大丈夫です。霊なんです」

 そう言って彼女は滑らかな黒髪を肩からこぼしつつ手を差し出してきた。白い指先に「契約書ほか」と書かれたフォルダアイコンがつままれている。そのホログラフの手からアイコンを受け取って机状モニタ上に置くと、建物売買契約書のほかに図面やカタログデータが滑り出して整列した。

「ラップ音ってご存じです?」
「マンガ程度の知識ならば。しかし私は建物機能の劣化診断士でして―――」
「調べてみたんですが、うちが建っている宅地は昔の墓地だったそうなんです。鎌倉時代の武蔵七党の―――」

 相談者は恐怖に顔を引きつらせながら、こちらの様子などお構いなしに怪談話を始めた。止めても聞くタイプではなさそうだ。しかたなく相槌を打ちながら写真に目を向けた。

 およそ十数年前に売りに出された木造二階建て。白い屋根は熱反射性。砂色の外壁と基礎は自己修復材仕上げ。施工不良でもないかぎり三十年は問題なさそうな仕様だ。劣化した自己修復ナノマシンを操作して外壁に人の影のようなものが描かれたり、室内放送機器をいじくってそれらしい音をだすようにされたりといった『心霊現象』については先生に教わったことがあるが、この建物だとその線は無いように思える。

「―――音が止まないんです。ずっとゴリゴリって。食器が落ちかけてるのかなと思ったけどそんなこともないし」
「・・・・・・なんだこれ。回転方向?」
「あの、播磨さん。聞いてます?」
「ああすみません。配置図を見てたんですが」

 図面を滑らせ、彼女の顔に重ねる。

 分譲住宅地は真円状だった。まん丸の敷地に三列の道路が同心円状に走っており、中央は広場となっている。その道路上に『回転方向』と併記された矢印。加えて『点検ハッチ』なる四角い表示が等間隔に、小さく記されていた。

「これはなんでしょう?」
「ああ。書いてあるとおりです」
「まさか、街区自体が回転するなんてことは・・・・・・?」
「え、そうですけど」

 再度図面を眺めてみる。三列の道路の内側それぞれにいくつも線が重なって黒ずんでいる。詳細図がないため詳しいことはわからないが、もし、仮に、街区がまるごと回転するとしたら、この黒くなっている部分は街区回転体とでもいうものの外縁部。そこを保護するための何かプレートのようなものではないか。

「街区が、回転されているんですか?」
「はい」
「なぜ街区が回転を?」
「さぁ? 面白いからじゃないですか?」

 そんなわけないだろうと口走りそうになり、あわてて言葉を飲み込んだ。
だがなぜだ。どう考えたって問題が起きないわけがない。幽霊とやらが出る前に別の不具合が出る。水や排水、住み心地もどうなるかわかったものじゃない。しかしこの街区は存在する。立派に認可を通って完成して、販売されて、いまも人が住んでいる。

「・・・・・・図面だけでは問題点がわからないので、いちど現場を拝見してもよろしいですか?」
「もちろん! よかったぁ、どこの方にもお引き受けいただけなくて」
「再度お断りしておきますが、私は霊に関しては専門外です。あくまで建物に問題がないかを拝見したいと思います」
「大丈夫ですよ。建物の仕事をされてるなら神職のようなものです」
「違います」

「・・・・・・なんで回した?」

 目の前で時計回りに街区が回転している。三つの街区内道路はドーナツ状のプレートとなっており、それぞれ異なる速度で回転しているようだ。回転速度はごく遅く、歩くよりもゆるやかだ。住戸の間に広がる比較的大きな庭越しに、内側の街区にあるだろう建物が動いていくのが見える。
 その姿は、街区を取り囲むレンガブロックを模した塀と鉄柵のせいで、檻に押し込められた新手の妖怪のようだった。

「播磨さーん!」

 弾むような声に呼びかけられて振り返った。正門で小さく手を振る美女と小太りの壮年男性が、回転する敷地から慣れた様子で駐車場に降り立つ。依頼人の額降ヌカフリアヤコ氏。電話ホログラフ通話で見た通りの綺麗な黒髪に整った顔立ち。体のラインを強調するホワイトのブラウスに薄緑色のマーメイドスカート。遠くから見ると白磁の花瓶か何かのようだった。傍らの男性も時折その女性的な輪郭を目で追っている。

「どうも。建築診断士の播磨ミヤモリです」

 微笑む額降氏には会釈で済ませ、男性へ名刺を差し出して頭を下げた。

「どうも。事情はさきほど聞いたんですが、内容がよくわからなくてですね・・・・・・。理事の玉縄です」

 男性は額降氏を伺いながら名刺を渡してきた。富士見フジミ廻舞台マワリブタイ住宅ジュウタク町内会理事および住宅地設立委員会監査役とある。

「額降さんからは幽霊の、ね。お話は伺ってます。お宅にお邪魔して様子も見たんですが、私がいる間は変わった様子もなく」
「私は建物の劣化診断が専門です。こういった特殊な事例のお住まいですから、音や振動の原因を探せればと思っております」
「あ、ご専門で」

 玉縄理事は眉を開いて名刺を眺めた。銀縁眼鏡が名刺のコードを読み取り、ぼくの職務経歴のいくつかがレンズの上を通り過ぎていく。

「―――わかりました。しかしですね。うちは半年ごとに管理会社が点検してるんですよ。どうぞこちらへ」

 玉縄氏は名刺を胸ポケットにしまいながら門のほうへ歩き出した。門のレンガアーチを支える壁には鈍い金色の銘盤が表札のようにはめ込まれており『富士見廻舞台住宅』と刻まれている。
 玉縄氏がそのプレートを指し示す。頷いてそこに触れるとARグラス上に、銘盤と同じタイトルの冊子が浮かび上がった。
『星空にあわせて廻る街区、富士見廻舞台住宅』との詩的な文章と共に、天の川を中心とした満天の星空と富士山、満開の桜が背景を埋め尽くしている。手触りの無いそれをめくると街区全体の断面図が現れた。上から人工地盤、回転プレート、基礎と注釈されている。

『富士見廻舞台住宅は全街区型免震装置を備えた画期的な低層住宅地です』
『磁器プレートで回転する街区は毎日が新鮮』
『充実の管理体制で三六五日完全サポート』
 各ページに宣伝文句が美しくうねり踊る。巻末には編者リストがあり、そこに玉繩氏の名も含まれていた。

「御覧の通りの場所なんでね。地下の機械部分も全部見てもらってます」
「回転プレートの清掃もその時にされているんですね?」
「あとで資料を差し上げますが、掃除は自動なんです。回転プレートにハケとダストボックスがついてましてね。点検の時にはその交換をやるんです」

 玉縄氏はどうやら住宅地の機構をおおよそ理解している。名刺やパンフの奥付からすると、この住宅地そのものの発起人の一人らしい。自分の住んでいる場所がどういう場所かを肌で理解しているのだ。
 それだけではない。門から見える住宅地はどの家もよく整備されていて綺麗だ。色の褪せていない屋根葺き材や手入れされた外壁は自動修復材が機能している証拠だ。庭の草木も街路樹も管理が行き届いている。居住者の多くが、我が家の外壁に入った小さなヒビの位置すら知っているだろう。

「でも幽霊は出ますよ?」

 依頼主の額降氏を除いて。

「前にもお伝えした通り、幽霊はぼくの手に負えません。建物にしてもこれだけ管理が行き届いてますし、ぼくの出番は無いと思いますよ」
「ほら、ね。専門家もこうおっしゃってますし」
「私は、播磨さんに見てもらいたいです。セカンドオピニオンですよ」

 彼女は柔らかい笑顔を浮かべながら言った。あくまでも依頼を通す構えだ。ため息をごまかしながら理事を見るとまた目が合う。半笑いで肩をすくめていた。

「玉縄さん。どういたしましょう?」
「あー、ねー。・・・・・・まぁ額降さんの家だけならいいんじゃないですか。何もないとは思いますが」
「決まりですね! さあ行きましょう!」

 額降氏はぱちんと両手をあわせると素早く右手をつかんできた。ぐいぐい引っ張られて回転体の上に飛び乗ると、わずかに加速する大地に脳を揺らされた。軽いめまいを収めつつ、どうにか細指から逃れる。

「すみません、玉縄さんにもう少しお伺いしたいことがありますので。どうぞお先に」
「そうですか」

 しゅん、とオノマトペが出てきそうな表情を浮かべる額降氏。だがそれも一呼吸のうちに笑顔に戻る。

「ではお茶を淹れてお待ちしてますね」

 ぱたぱたとアスファルトを駆けだした彼女をしり目に、後を追ってきた玉縄理事を迎えた。お互いの視線が合うと何度目かの苦笑いが浮かんだ。

「額降さんはああいった方なんですか?」
「いや。彼女ここに住んで日が浅くてですね。まだなんとも」

 並んで宅地内へ歩き出す。後にしてきた世界がゆるやかに流れ、行く先もまたしずしずとこちらに向かってきては通り過ぎていく。確かなものは足元の舗装道路くらいで、めまいがぶり返しそうな空間だ。

「通常は管理会社で対応できるんです。でも彼女、幽霊とか言ってるでしょ? ちょっと対応しきれなくてね」
「なにかの音を勘違いされているのかもしれません。考えられるのは回転部分だと思ってるんですが・・・・・・」
「特に問題は無いですよ。まあ常に動いているので、管理は大変なんです」

 理事が腕時計を差し出すとこちらのARグラスに通知が瞬く。『住宅地データ』と記されていた。一礼して受信を承認する。

「我がことながら、若い時分は何をしでかすかわからないものですね。年々メンテナンス費用がかさむんで、初期からの住民も離れていくんです」

 玉繩氏は胸を張りながら襟元に手をやる。控えめなループタイの装飾がきらめき、中空にパンフレットのホログラムが現れた。

 かつての関東大震災により都心部が受けたダメージは激しかった。旧市街とあだ名されている一部エリアにはいまだに液状化と地下構造物の崩壊による傷跡が残っている。しかしその他の多くは都市免震工法に救われたのだ。崩壊した地下を貫いて杭を打ち、瓦礫もろとも基礎として足場を固め、その上にジャッキとダンパーに支えられた人工の地盤を作る。人口密集市街地の迅速かつ強固な復旧、その技術と工法。それらの一部がここで生まれた。

 この場所でも地滑りが起こり寺社・墓地諸共崩壊してしまった。だがそこに目を付けた行政が、乱れた地盤を補強するテストケースとして実証実験を行うことになった。
 ここで試験されたのは磁力を用いて人工地盤を数ミリ浮遊させる免震構造だった。人工地盤と基礎部分の縁を完全に切ってしまうため、ゴムや鉛のダンパーのように交換が不要。場合によっては街区をパズルのように入れ替える磁力曳家も可能で、新たな不動産商品になるとの目論見から企業も参加していたという。

「この住宅地はデモンストレーションも兼ねた実験街区でした。宣伝効果とスタッフ達の提案を入れて、現在のような回転する街区になったわけです」
「なんというか、思い切ったご計画をされましたね」
「悪いことばかりじゃありません。回転は全ての住戸に日照だけでなく眺望を確保するために必要です。もともと崖地なんで眺めはいいんですが、普通の宅地にしてしまうと崖から離れた住戸は損をするでしょう?」

 玉繩氏は吐息と共に前方を見つめた。敷地を囲む木々が流れていくのを背景に住宅地の最外周部に位置する住戸が並んでいる。

「額降さんはあそこの三軒を持ってるんです。みんな転居で空いた家です」
「・・・・・・なぜそんなに?」
「わからないんです。じきに家族が越してくるという話なんですが」

 玉縄氏が眉を開いて小さく手を上げる。行く手の住戸前で額降氏がティーセット片手に手を振っていた。

「とりあえず、お気をつけて。不思議な方ですので」
「・・・・・・ありがとうございます」

 彼女の背後には三つ子のような二階建てが並んでいる。どの家も小綺麗だが飾り気がなく、居住者の個性を推し量るようなものは見当たらなかった。

 額降氏の後ろで玄関ドアが閉まった。外気と内気が隔てられ、空気がしんと落ちていく感覚がする。静かに呼吸する。普通ならばその家特有の匂いが感じられるのだが、ここではそれが薄い。

 彼女に先行して一階のリビングに踏み込む。外壁二面に面して設けられた大きなガラス窓が外光を取り入れて明るい。通りを歩く人の姿もはっきり見える。見えすぎるほどだ。カーテンがないためだろう。

 カーテンだけではない。室内には家具がほとんどなかった。一人暮らしの女性には作り付けの収納で十分かもしれないが、あるべきものがそこに無い感は否めない。

「ここで音が響いていました」

 響くだろう。家具も敷物もない。音を吸収するものが何も。

「次の部屋へ伺います」

 返答を待たずキッチンへ進む。彼女が止めてくるかと思ったが、静かにこちらの背中を見つめているだけだった。

 アイランド型のキッチンに踏み込んでも様子は変わらない。居間より安心感はあるが、それは備え付けの吊戸棚や冷蔵庫のせいだ。耳を澄ませても天井の熱交換器が呼吸する音しかしない。
 黙って廊下へ出る。額降氏は静かについてくる。

 トイレ、浴室、客間。どの部屋にも異常はなく、どの部屋にも家具は無かった。家具がないことは異常ではない。個人の趣味だ、と自分に言い聞かせながら機械的に調査を続ける。そうして二階に向かうべく階段に足を向けた時、後ろからそっと手を引かれた。ひんやりした細い指に。

「待って」

 額降氏がごく近くに寄り添い、地下室への階段を指した。

「上ではないんです。地下を」
「なぜ下を? 地下には何もないのでは」

 資料によると、この住宅地はすべて地下付きの物件だ。天井高さもたっぷりある広い地下室が倉庫として備えられている。だがこの様子では彼女がそれを活用しているとは思えない。

「あの夜は恐ろしくて地下までいけませんでした。その後もずっと。でも今なら二人ですから大丈夫です」

 何が大丈夫なんだ。彼女の言う幽霊がいるとして、数の優位に意味がある相手なのか。

「さ」

 彼女がそっと、力強く右手を握ってくる。逆らえそうにもない。そもそも最初から、彼女はこちらの話を聞いているか怪しいのだ。

「なにも、ありはしませんよ」

 地下はまさにがらんどうだった。見渡す限り灰色の部屋。床だけはかすかに濃い色になっているおかげで床と壁の見分けがつく。天井から梁がちょこちょこ顔を出し、大小の給排水管がその間を走っては壁に消えていく。その間からぶら下がる裸のLED管が弱い光を放っていた。
 ARグラスに触れる。室温二十度、湿度六十%の表示。少し高めだが問題になるほどではない。

「やはりなにもありませんね」
「そうですね」

 額降氏は相変わらずの様子で後ろに立っている。

「ここから音が聞こえてきたとお考えですか?」
「はい。一階と二階はなにもありませんから」

 二人で何を見るでもなくコンクリ壁に向かい合っている。ARグラスの上で調査アプリをいくつか走らせても異常は見当たらない。ここと比べればうちの事務所の方が空気が悪いくらいだ。

「ここもそうですよ。特別な劣化も故障も見当たらない」
「でも幽霊はいるんです」
「もしそうなら、残念ですがぼくの専門外です」
「大丈夫です。播磨さんならきっとなんとかしてくださいます。アメンテリジェンスマンションだってなんとかなさったんですもの」

 額降氏の穏やかな声が地下と、心臓に響いた。彼女は変わらない笑顔を浮かべている。

「あのビルに憑りついていたものを払われたじゃないですか」
「・・・・・・なにを仰っているのかわかりませんね」

 アメンテリジェンスマンション。建物自身が居心地の良さを考え形作ると意味づけられた高層マンション。あそこで仕事をしたのは間違いない。しかしそれは彼女の言うような悪魔祓いではなかった。

「劣化調査をしただけです。ぼくの専門はそれだけですよ」
「壁を登って忍び込んでらしたじゃないですか」

 だがこの人はどうやってかあの時の仕事を知ったのだ。ぼくが法を犯してまでやった仕事のことを。

「お住まいの方々に心配をかけないように、ですよね。素敵です」
「・・・・・・どうやってマンションのことを知ったんです」
「播磨さんと同じですよ。この貴族社会と戦う戦士に不可能は有りません」

 うわあ。

「貴方は平和のために法律を侵すことができる。誰かの幸せのためにそれができる人は、私たちと同じ戦士なんです」
「そんな話をするためにここへ? 幽霊話なんてでっち上げて」
「ここに幽霊がいるのはほんとです」

 額降氏は暗い倉庫の中心に後ずさり、くるりと踊って見せた。

「ここにいる幽霊も貴族たちに踏みにじられた被害者です。彼らは今も泣いている。だから貴方を呼んだんです。いまここに暮らすひとのために最高の仕事をしようとする貴方を」
「ぼくは建築診断士です。最初からはっきりお断りするべきでした。幽霊に関しては専門家へお願いします」

 彼女の踏み込みは早かった。近づかれたと思った時には、その整った顔立ちが鼻先に迫っていた。

「貴方は仕事をしてくださいます。だって依頼主が困っているんですから。貴方はきっと解決策を見つけてくれる。私達が住めるようにしてくれる」

 目の前で妖しい瞳が輝き、鼻孔にベルガモットの香りが届く。それを深く吸い込む前に顔を逸らし、彼女の耳元でようやく一息ついた。

「当然ご存じだと思いますが、一応」
「なんでしょう?」

 白い耳の前で眼鏡のツルを指で叩く。

「お宅を拝見する際は必ず録画、録音をしております。調査のためはもちろんですが、不測の事態に備えてのことです」

 他人様の家に上がり込む商売は危険が多い。家財を傷つけられたと訴えられるのはまだいい方で、家主に危害を加えられることもまれにあるという。家とは安息地だが、同時に相手の縄張りの内でもあるのだ。
 だがこの備えがあることを予め伝えておけば危険はぐっと減る。今回は伝える暇がなかったが。

「診断はいたします。お渡しした契約書にも書いていることです。それ以外のことについては、悪しからず」
「・・・・・・わかりました。このお話はまた今度ゆっくりと」

 湿度がぐんと下がった。額降氏はいつのまにか数歩前にいて、艶やかな髪をいじっている。

「では、引き続き調査をお願いします」
「はぁ・・・・・・。とはいっても他に見るところと言えば二階」

 こん こん こん

「・・・・・・うそだろ」

 こん さり さり こん こん

「嗚呼、やっぱり運命ですね」

 音が聞こえてきた。ごく小さく、かすかだが聞き間違えようのないはっきりとした音。
 こん、こん、と。石畳で杖をつくような。さり、さり、と。ふすま障子をそっと開けるような。そんな音達が聞こえてくる。目の前の方から。灰色の塊、鉄筋コンクリート製の壁の向こうから。

 さり さりさり こん こん ここん さり こん

 額降氏と二人、その音に聞き入る。やがて音が聞こえなくなっても、しばらくの間は動かずにいた。ようやく我に返って時計を見ると、地下室に入ってから二十分近く経っていた。

「断じて心霊現象ではありません」

 庭のテーブルの上へサイコロ状のホロプロジェクターを置き、富士見廻舞台住宅のカタログから平面図を取り出して広げる。同時に仕様書を呼び出して街区回転時速を確認、図面へ書き殴りながら先ほどの異音を録音した動画を隣に並べる。音が始まった時刻と街区の回転をすりあわせると、あの音が鳴り始めたのはちょうど正門側。かつて斜面地だったこの人工地盤上で最も地山に近づく時間だった。

「既存地盤と人工地盤との間で何かが起きてる。その何かに家が近づいた時だけ、あれが聞こえるんです」

 どうだ、と思いを込めて二人を見上げる。額降氏は穏やかな笑みを崩さないが、こちらの説明は聞いているらしく小さく頷いて見せた。一方で玉縄理事は首をかしげている。

「我が家も含めこんな音の話は聞いたことがない。異常があるとしたら額降さんの御宅だけでは?」
「播磨さんの説明で理屈は通ります。ですが音の出元はわからないままです。玉縄さんがおっしゃる通り、他の御宅のことも気になります」
「もしこの家にだけ異常があるとすれば音が聞こえたり聞こえなかったりということはないはずです。それに事実として、音が聞こえたのは家が正門側に近づいた時です」

 ほかの家で音が聞こえない理由はわからない。しかしそれは後回しだ。音の原因が不明なのだから聞こえ方に差がある理由もわからないだろう。いま確かに言えることは、家がかつての斜面に最接近していた時に音が聞こえたということだ。
 地下を調べなければならない。地下室のさらに下。人工地盤に封じられた斜面の近くを。音の出元を突き止めなければ。

「玉縄さん。申し訳ありませんが地下点検扉の鍵を貸していただけませんか」
「いや、だめですよ。今日は回転を止める日じゃ・・・・・・」
「ここなら回転を止めなくても入れます」

 パンフレットの図面を拡大し、街区の中央を指差す。中央公園と大書されたそこは豊かな色彩によって花壇や植込み、石畳が塗りつぶされている。その円形空間の真ん中に、インターロッキングブロックを示す灰色の下に、『中央点検口』の文字が薄く見えていた。

「この点検口は街区の、回転体の中心です。宅地の回転を止めずに地下に入れる昇降口ですよね?」
「それは・・・・・・」
「ありますね。まあるい石のプレート。あれマンホールだったんですね!」

 額降氏がホログラフの地図をのぞき込んで笑った。

「私、地下を見たいです。ね、いいでしょう?」
「・・・・・・まぁ、はい。額降さんが言うなら」

 玉縄理事は歯切れ悪く応え、あいまいに頷いた。

 竪穴の底にたどり着くと土を踏みしめる感触が靴裏に広がった。ARグラス内蔵照明で照らすと、想像よりも広い地下空間が現れた。分厚い鉄筋コンクリートの地中梁が土から顔を出し、そこから鉄骨の柱と筋交いが生えては交差して上っていく。それらは天井を、磁気ダンパーを、人工地盤を支えているのだ。

 カン、カンと小気味良い音を立てて額降氏が鋼製梯子を降りてきた。

「身軽ですね」
「はい。朝飯前です」

 変わらない笑顔が暗がりに光る。この程度、戦士には造作もないと言ったところか。続けて降りてきた玉縄氏は正反対で、梯子の一段一段をおっかなびっくり伝ってくる。彼の降りる地面を照らしてやると、息せき切りながら降り立った。

「玉縄さん、見てください」

 いつのまに離れたのか、額降氏が鉄骨の林の一角にしゃがみこんでいる。赤銅色の斜材をくぐって近づいていくと、鉄骨の根元にコンクリとは違う灰色の塊が見えた。ARグラスが即座に「片岩」と表示する。

「石碑ですか」

 舟型の石が鉄骨柱脚部コンクリートに抱かれていた。文字が彫り込まれているが経年劣化で薄れており何が書いてあるのかわからない。だが人工地盤の基礎と一体に整備されているということは、この碑がこの土地にとって重要なものであることは間違いなさそうだ。額降氏は静かに手を合わせた。

「やっぱりここは、昔のお墓なんです」
「いや違いますよ、これは墓地移転の時に作った記念碑みたいなもので―――」

 玉縄理事がしどろもどろに説明をはじめるが、額降氏は石碑と向かい合ったままだった。

 その時、新たな匂いが鼻に届いた。

「ちょっと失礼」

 石碑を離れ、鉄の柱を潜り抜けていく。足元の裸土が徐々に登りになっていく。行く手を照らすと、十数メートル先で崖のような土壁が天井までそびえていた。天井付近にまだ隙間があり奥に続いているようだ。その土の崖の天辺に青いものが見えた。

「苔があります」

 腰のホルスターから二機取り外す。一体は球状のドローンで、もう一体はキャタピラのついた小型調査車両だ。車両の上部にドローンを連結させて放り上げる。静かに起動したドローンは砂埃を巻き上げなら天井付近の隙間に入ると、小型車両を切り離して戻ってきた。

 ARグラスに小型車両からの視界が写る。崖上の隙間には青白い苔かカビのようなものが広がっている。その一番奥で何かが蠢いていた。喉を鳴らしてカメラを捜査し、拡大する。生き物のような蠢きが視界の中で広がる。被写体に車両からの照明が当たってきらきらと輝いた。
 泡だった。ぽこぽこと小さな泡を立てて水が湧き出していた。

 日も傾きかけてきたころ、額降氏の庭でようやく腰を落ち着けた。彼女は泥汚れもそのままにぼくと理事に紅茶を淹れてくれている。

「地面の下のことなので推測になってしまいますが」

 前置きと共に、再びホロプロジェクターを机上に置いた。玉縄理事の指が舞い、住宅地開発前の写真が並んでいく。
 古い墓場だ。変色した墓石や境界石が苔むし、石畳の間は水気を帯びてぬらぬらと輝いている。開発される前の墓地には水が出ていたのだ。

「で、工事が始まると。斜面に何本も杭が打たれ―――」

 同じ場所を撮影したのだろうその写真は工事中のものだ。関東ロームの赤土にらせん状の羽根を備えた杭が据えられ、回転しながら土中に潜り込んでいく。切り株のように頭を出した何本もの鋼製杭はコンクリートの梁で連結されると、斜面は灰色のワッフルに覆われたような姿となった。

「その上に都市免振装置の試作機が設置される、と」

 コンクリ製ワッフル上に鉄骨柱が組み上げられ、やがてRC壁で見えなくなっていく。現在の宅地より数メートル低い位置に出来上がったその舞台上はいくつものブロックからなる磁気ダンパーで埋め尽くされた。そこに人工地盤が重ねられると、ほぼ現在の宅地の地盤が出来上がった。
 磁気ダンパーにより人工地盤が静かに、完全に浮遊する。だが力の伝達が消えたわけではない。大質量の微速回転が磁気に伝わりダンパーへ。そして基礎部分へ微かな振動となって伝わる。それから振動は長く、静かに、斜面を揺らし続けた。

「液状化に至るほどの振動ではありません。しかし地下の水みちを変える程度のものではあったかもしれません」

 地中に閉じ込められた水が人工地盤の微振動を受け、細かい土の粒子の中を徐々に上っていく。何年もかけて水の道が変わっていく。そしてついにコンクリート擁壁の最も弱い部分に接触した。

「水圧がコンクリ壁にヒビを入れたかはわかりません。ただそれなりの圧力で水が壁を叩き、内側に水が入ってきている」
「その力が音を出していた、と」

 理事は大きくため息をついた。

「次の停止の時に改修しないとな。また出費がかさむ・・・・・・」

 額降氏はにこにこしながら話を聞いている。幽霊なんていなかったのだと証明されたのに。でもそれでいいのかもしれない。彼女にとって幽霊話はぼくに渡りをつける口実だったのだろうから。

「一応、周辺の地盤と工事情報を見てみます。近所で基礎工事をやっているとこっちにも影響が出るかもしれませんから」
「お願いします。報告書はいつ頃にできますか? 管理会社にも見せたいんですが」
「一か月はかからないと思います。完成次第、お二人宛てにお送りします」

 暗闇の中で額降氏がくるくると回っている。地下室の真ん中で、黒い花を咲かせた花瓶のように。こんこん、こんこん、と響く音が彼女を廻す。
 足元では磁力ダンパーが働いている。数ミリの隙間に磁力が吹き荒れ、人工地盤を浮遊させている。だが街区の重みは地下へと伝わっていく。装置を伝い、鉄骨を伝い、コンクリに抱かれた石碑へと。
 石の周りには幾筋も小さな川が流れ、こんこん、こんこんと泣いていた。

「ね? 声が聞こえるでしょう?」

 跳ね起きたのは事務所兼自宅の狭いアパート、そのベッドの上だった。壁掛け時計を見ると午前二時をまわったばかり。時計の下にカレンダーがある。富士見廻舞台住宅の調査からもう二か月が経った。

 いまだに額降氏は見つかっていない。報告書を受け取らないうちに彼女は引っ越してしまった。

 こん こん

 ぎくりと音の方へ振り向く。カーテンに仕切られた窓ガラスからだ。その外にはベランダがある。ああそうか、今日は春日居がいるんだった。
 召し合わせの甘いカーテンの隙間から外が見える。テントから身を乗り出すクセ毛の女がぎろりとこちらを見た。薄い唇が街の明かりに照らされて『うるさいぞ』と動く。片手で詫びながら再び寝転んだ。

 基礎に湧き水の音が響いていたのは本当だ。改修工事に入った業者が確認してくれた。彼らの作った湧き水用の排水管で流れが変わり、音は止まった。あの音を聞くことはしばらくないだろう。少なくとも十数年は。
 確かめに行って見ようか。依頼主のいなくなった家へ。一人で地下に入り、街区の回転に身を任せてみようか。耳を澄ませて、巨大な構造物が回る音を聞いてみようか。
 だが聞こえるはずはない。回転は磁力によるものだ。人の住むあの円盤は動力と接していない。切り離されているのだ。

 瞼を閉じても眠気は寄ってこない。浮かんでくるのは笑顔と音と、そして疑問。

「じゃあなんで、伝わってくるんだ」

■おわり

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