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【小説】ミカエルリヒト


「流行り病?」


温めたカップに紅茶を注ごうと、ガラスポットの柄に指先が触れたとき、ふいにミシェルが呟いた。


「……流行り病って、なにが?」

柄をつかみ損ねた指は、仕方がなくテーブルの上にとどまる。その仕草をなぞるように眺めていた、向かいに座るミシェルと目が合った。

窓辺の席におさまっているミシェルは、陽の光に透けそうなほど白い。
サテン生地のシャツのボタンを一番上まで留めている。その首元はあまりに細く、か弱い。


「大切な人のことを、忘れてしまう病だよ。
ノエル知らない?」

開け放した窓辺に風で舞い込んだ花弁が散らかっている。午後のサンルーム。レースのカーテンが穏やかな風をまとっては、不規則な優しいリズムで揺れていた。
ゆっくりと窓の外へ視線を彷徨わせたミシェルは、
どこを見ているわけでもないようだ。
その美しい横顔に、時折レースの影模様が映る。


「……あぁ、極東のはなし?それ、この間読んでいた本の話だろ」
「物語のはなしじゃないよ、ノエル。僕、知っているんだ」

(少女のようにか細い声)

昨日摘んでおいた庭先のストロベリーを、ねかせておいたシフォンケーキにクレームシャンティと一緒に添える。
彼の好物は、僕の嫌いなものばかり。


「……大切にしている人のことから忘れていくんだ。忘れてしまったことすら、思い出せない病なの」

か細い少女のような声は届き続けている。

「ミシェル。そういうはなしは聞き飽きた。僕のこと試して遊んでいるんだろう?」

向かいの席に着き、紅茶をすする。
ナイフとフォークを両手に持ったままのミシェルは、ケーキに手をつけずこちらを見つめていた。


「僕がいなくなったら、ノエルかなしい?」


ミシェルはたまに、こういう話をしたがった。
僕の心の所在を確かめるように、僕の言葉をほしがった。

「どうだろうね」

本当の気持ちなんて、証明する術がない。
ほしい言葉を並べることができても、きっとそれだけではミシェルは腐ってしまう。
僕はいつだって曖昧な態度だ。


「僕はノエルがいなくなったら、やだな」

そう言ったきり窓の外を眺めたまま、ミシェルは
おしゃべりをやめてしまった。
風に揺れているレースのカーテンの向こうには、小さな庭が広がっている。
その奥に見える小道は光が射す森の入口へと続いていた。

会話が途切れ、2人で沈黙する午後。
そんな時間が僕は気に入っていたと思う。
頬杖をついて、ミシェルを見つめる。

どこからか、誰かがピアノを弾いている音が聞こえる。ジムノペディ第一番。ゆったりと、たおやかに、
夢のような旋律で。
こうしてミシェルと時間を共有するだけの午後を、
彼の好きなものを用意して、ティーカップを傾けるだけの時間を、
光に透けそうなその横顔を、

こんなに大切に思うのに、それを忘れてしまうだなんて、ミシェルは本当にそう思っているんだろうか。


僕は、水を与え過ぎて、彼を腐らせたくない。


「僕のために、ノエルが泣いてくれたらいいのに」

フォークでストロベリーをつついて、ふいに彼がつぶやく。ほとんど独りごちているような、僕にすら向けられていないような声だ。


「人間は誰かのためには泣けない」

「じゃあ誰のために涙はあるの?」

「自分のためさ」

きょとんとした表情のミシェルは、ようやくシフォンケーキを頬張ったところだ。

「誰かのためには、泣けないようになっている。
ミシェルがいなくなって僕が泣くなら、それは、自分のための涙だよ」

そう告げると、ミシェルは少し嬉しそうにして、また一口ケーキを頬張った。



目には見えないものを信じている。
例えば天使、例えば光。
形のないもの、
例えばミシェルと僕をつないでいる 確かなものを証明する術はないけれど。
そのあたたかな輪郭を、僕は確かに感じていた。
感じることでしか、繋がれないもの。


「ノエルにとって、美しいものになれたらいいな」


カチャリ、とシルバーを置く小さな音。

ミシェルは羽織っていたガウンのポケットから何かを探り当て 手のひらに乗せると、反対の指でそれをつまみ上げて、僕の飲みかけのティーカップの前に置いた。

濃淡が美しい、紫色の小さな結晶。
アメジストだ。


「ねぇノエル。僕、ずっときこえてるんだ。
耳の奥のほうで、記憶が壊れていく音が、ずっと」


テーブルに落としていた視線を彼に戻すと、耳をふさいだままうつむいている。
光に、透けそうにーーーーーー、

なぜだろう、うまく表情がつくれない。
どれほどの時間を2人で過ごしてきたのか、移ろっていく事実を、ただ眺めているだけだ。
彼に。
彼に何か言わなくちゃ、
唇をこじ開けても、乾いた空気を吸い込むばかりだ。

僕は、



「ノエル」


頭の中に反響しているピアノの旋律。
風に揺れるカーテンに隠れた、彼の顔。
光があふれて、眩しくて目が開けていられない。
光をかき分けるように、伸ばした指先がカーテンにふれる。

ミシェル、





「ノエル、僕のこと、





もう忘れていいんだよ」




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



(ーー……エル、ノエル)



「おい、ノエル・ハミルトン!」



音が止んだ。


うつ伏せのままテーブルで眠ってしまっていたみたいだ。伏せていた顔を上げると、白衣を着た目つきの悪い青年がテーブルサイドに立っている。

「……チャットウィン」

白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、呆れたような顔でこちらを見下すのは同僚のセス・チャットウィンだ。


「誰か来てたのか?患者とお茶でも?」


向かいの席に手付かずで置いてあるティーカップとシフォンケーキを見やって、セスは不思議そうに尋ねてきた。



「……」
「ノエル?」
「あぁ、ごめん、誰もきてないよ。…なんでケーキなんて」
「……」

甘いものは嫌いだ。
誰も座っていない窓際の席を見つめる。
午後の光に照らされたサンルームは、とても静かで、穏やかだった。
心の奥底にあった不安の澱が、光に透けて
溶けていくようだった。


「…昼休憩はもう終わりだぜ、ドクター。はやく持ち場に戻れよ」

ひらひらと手を振って、セスは部屋から出て行った。


ーー誰のために紅茶とケーキを用意していたんだろう。最近こういうことがよくあった気がする。
目を覚ますと、2人分の紅茶と1人分のお茶菓子。

頬杖をついていた左手を、膝の上の右手に重ねる。
何かを握りしめていることに気がついて、
テーブルの下 ゆっくり指をほどいた。


「…アメ、ジスト」


小さな紫の結晶。
なぜかとても懐かしい気持ちになって、静かにその石を見つめた。


……とても好きだった、大切にしていた。
光に透けて、消えてしまいそうなその淡い紫色を見ていると、込み上げてくる心の連なりが頬を伝っていく。
それが何だったのか思い出せないけれど、
手の中の硬質な感触が、心の底の方まで守ってくれるような気さえした。

ティーカップとシフォンケーキの乗った皿を片付ける。
窓の向こう、小さな庭を抜けて森の方へ歩いていくセスの後ろ姿。…あいつ、甘いもの好きだったな。
今度ご馳走してあげよう。
セスの後ろ姿を見ていたら、息が漏れるような笑みが込み上げる。
頬を拭って、白衣をまとった。

もう一度窓辺の席を見つめると、
ポケットの美しい宝物の感触を確かめてサンルームを後にした。



*******


「ーーーー消してしまったんだな、ミシェル。
最期まで兄想いなやつだよ、まったく」


森の奥にある教会。
ほど近くにあるひとつの墓石の前で、セス・チャットウィンは呟いた。

「……あなたこそ。
あなたには僕がずっとみえているのに、ノエルのためにそれを隠してる」

墓石の上に腰かけて足を遊ばせている、陽の光に透けそうな 天使のように真っ白な少年。
サテン生地のシャツのボタンを一番上まで留めている、華奢な体躯。

「俺は性格が悪いからな」
「ふふ、ありがとう、ノエルのことを大切に想ってくれて」

森の始まりを見ている、少年の静かな瞳。
教会からは賛美歌がきこえる。


「…神様に、選んでいいって言われたんだ。
一度きりだけ、死者が生者に出来ること。

忘却の魔法か、束縛の呪いを」



賛美歌の旋律に、ミシェルは目を閉じる。
セスは森の向こうの病院をみつめた。

「兄さんが僕のためにお医者様になってくれて、本当に嬉しかった。
病気は僕を蝕んだけど、必死な兄さんを一番近くでみていたから。
僕はずっと幸せだったんだ。
こんな日が、ずっと続いたらって。

でもね、
僕はノエルのこと、苦しめたくないんだよ。
僕の死をいつまでも乗り越えられないノエルのことを、これ以上みていられない。

本当は忘れてほしくない。当然だよ。あいしているもの。
……でも、でもね。
もういいんだ。いいんだよ。
ノエルの時間まで、止めてしまいたくないんだもの」


ミシェルの表情はとても穏やかだった。
ため息をついたセスは腕を組み直し、光を含んだミシェルをみつめた。


「忘れられないってことは間違ってるのか?
忘れてしまうことが、正しいことなのか?

痛みを切り取ってやることだけが愛ではないとおもうよ。俺はね」

「あのままでは兄さんは壊れてしまうよ」

「お前の気持ちは何処へいくんだよ」

「兄さんの心の中に」


「僕が一等綺麗な宝石だったら、邪魔しないで、
そばに、
……ノエルはきっとこれからも大切にしてくれるでしょう?

思い出さなくっていい。
ノエルにとって綺麗なだけで。それだけで」


ーーーー賛美歌がおわる。
生温い風が、ミシェルとセスの間を過ぎていった。

「そろそろあなたともお別れだね。
あなたがいてくれるから僕は魔法を選べたんだセス」


陽の光がスポットライトのように優しくミシェルを包み込んでいく。

「兄さんを愛してくれてありがとう。


それじゃあ、さようならセス」


無邪気な顔で微笑んで、
ミシェルは光とひとつになった。



教会から聖歌隊の子供達が出てくる。
午後の光の下、じゃれあう天使たちの姿に、セスは祈りのような気持ちを抱いた。

まだ少しだけ新しい墓石に、傍の白い花を摘んで手向ける。
子供達が走り去っていく。
白い花弁を抱き込んで、柔い風が舞い上がっていった。





「R.I.P.


そこは穏やかで美しい場所か?


なぁ、ミシェル・ハミルトン」



セスはひとり、午後の光に目を閉じる。

fin.




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