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浪人時代の思い出



関わった人達を振り返ってみる

浪人当時、18-19の歳。

田舎からはるばる良い教育環境を求めて都会に渡り、全国どこでもあるスタバで毎日を過ごしていた謎の時代だ。

初め2か月くらいは真面目に予備校に通っていた。

でも、予備校の隙あらば金を搾り上げようとしてくる商売感と、そこにジャラジャラとお布施しまくる周りの人間に、なんか違和感を感じた。予備校に勉強に来ている以上、彼らの行動は正しいのだけれど。

なんか人間ってホントくだらない生き物だな。
どこに居たってくだらない。地球がいますぐ破壊されても、別に後悔しない。
そう思うことが多かった。
いや、いまだって割とそう思っているが。

そんなこと考えるやつが予備校なんか来てんじゃねーよって思うでしょ?
だから、行かなくなった。

あんな場所に行っていたら精神が崩壊してしまう。こっちから願い下げだ。

よく巷では、「浪人時代は暗黒時代だった」などと振り返られがちだが、ぼくにとってはそんなことない。

むしろ、関わる人間が少なくてもよくて、そういう意味では楽だった。

小中高大社会人、どの時代と比べても浪人時代が一番シンプルだった。

LINEとかは消していたし、「他」を意識しなくてよい期間だった。

関わりがあった人を思い出してみる。

寮の食堂でご飯を出してくれるばばあ
アメリカ人の英語担当S先生
寮の友達2人

これだけかな。

1. 食堂のばばあ

食堂のばばあは、いい人だった。ぼくが都度おかわりに来なくていいように、最初から白米を大盛りにしてくれていた。寮生活終盤では、ぼくが何も言わなくても、好きそうなおかずなら勝手に大盛りにしてくれていた。
このばばあは週1だけ、食堂にいない。休みの日なのだろう。
「なんで休んでんだよ」
そう思っていた。本当に救えない若造だ。

2. アメリカ人の英語担当S先生

アメリカ人の英語担当の女性、S先生は、予備校の講師人の中ではオープンな雰囲気で、好きだった。有名な本も、何冊か監修している人だ。
英作文の練習を兼ねて、ぼくは毎週、日記を英語で書いて提出していた。宿題ではなく、勝手に好きでやっていたこと。
ぼくが予備校に行く用事は、その日記帳の提出と回収だけだ。
だから僕の予備校に通う頻度は「週1回、1分間」だった。

もちろん、そんなふざけた予備校の通い方をしていると、チューターからよく電話がかかってくる。「予備校に来い、授業を受けろ」と。
無論、ガン無視。そんなくだらないことでイチイチ電話をよこすようなイかれ野郎に構う暇などない。
予備校は気分が乗らなかった。手前までは行けど、結局いつもスタバに逃げ込んでいた。

話を戻して、英語の日記の内容はといえば
「この国は終わっている」
「予備校は金のことしか考えていない、ぼくはただの金蔓なのか」
「生きる意味が分からない」
など、国や予備校、人生に対する反逆思想ばかりだった。
でもS先生は、そんなぼくの日記に、数行ではあるが毎週しっかり感想を書いてくれた。
「あなたが感じている疑問は正しい」
そう英語で書いてくれたこともあった。ぼくはとても嬉しかった。

3. 寮の友達2人

寮の友達2人は、どちらも変わった人だった。
彼らとはよく麻雀をしたり、アニメを見たりした。
彼らと過ごす、自由な空間が好きだった。

そして2人とも、冬ごろに寮と予備校を辞めた。
彼らが悩んでいたのは分かっていた。相談、という相談をされたことはなかったが、そういうのを表立って切り出すタイプではないことは分かっていて、そこにズケズケと介入するのは良くないかなと思っていたのと、彼らの思考は謎が多くてぼくには良いアドバイスはできないだろうと、あまり追及しなかった。

自分には分からない要素が多いにせよ、世間一般的な人よりかは自分と似ている部分も多いと思っていたし、ぼくは彼らが好きだったから、とてもショックだった。

自分のような人間や、自分が好きになる人間は、社会から必要とされず、自ら排除されていく世の中なのか。
そう思うと、悲しかった。

ぼくはこの時、勉強を再開しようと思った。
「僕や彼らのような人間でも、社会に必要とされる人間になれるんだ」
そう思いたかったからだ。いつか彼らにそう伝えたかったからだ。
今思えば勿論、それを示すことが勉強を再開することに限らなくても良かったのだが。
当時受験生のぼくにとっては、旧帝レベルの大学に受かること以外、思いつかなかった。

普段はカフェで数学と、S先生との英語の日記のやり取り以外、ほとんど勉強していなかったから、超特急で勉強していった。

結果、現役時代よりセンター試験の点数は40点ほど下がったものの、2次試験で巻き返して地帝に入った。

合格発表の際、彼らに連絡しようかと思っていた。
でも連絡はしなかった。

彼らが勉強を辞めた理由が何だったか、ぼくには分からなかったから。

もし彼らが、新たな別の道に向けて前向きな理由で勉強を辞めたなら、彼らにとってぼくが大学に受かったことなど、どうでもいいだろうと思ったから。

むしろその合格の連絡を聞くことで、「やっぱり勉強しておけばよかったのかな」などと、思い悩んでほしくなかったから。

彼らを冬に最後に寮で見て以来、一度も連絡を取っていない。

元気にしているだろうか。
いまどんな人生を送っているのだろうか。
自分自身に、自信をもって日々過ごしているのだろうか。

当時を振り返って

普通に浪人生をやっていたら、クラスメイトとか講師とか、もし寮に入っているなら寮生とか、多くの人と関わるはずだ。いまは当時と比べてSNSもより活発だろうし、薄い関係も含めて50人くらいとは関わるものなのかな?

浪人時代に学んだことは、主に2つ。

「ぼくは社会の中では生き辛く、パフォーマンスを出せないダメダメな人間であることを認識することで生きやすくなる」

「自分の士気を上昇させたいとき、周りとの比較ではなく、自己に対する没頭のほうが遥かに効果的である」

ということだ。

寮の2人がぼくに与えてくれた受験勉強への動機は、他の存在や邪念からぼくを解放させて、目の前の勉強のみへの「没頭」に導いた。

打たれ弱いぼくには、この短絡的で直線的な没頭こそ、最適な状態だった。

だから、普通の社会ではすぐ他人と比較して停滞してしまいがちな自分が、
この時だけはマシな結果で終われたのだと思う。

そして今後も、ダメダメな自分を認識して、短絡的で直線的な没頭に身を置くよう、努めていきたいと思う。


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