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生きる希望が見つからないとき

自分には何ができるのだろう?

一般的には、歳を重ねるにつれ「できること」が増えていき、自分に自信がついていく。

しかしぼくの場合は逆だ。「無理だったこと」が増えていき、自分に自信が無くなっていく。何のために生きているんだろう?と思う時間が増えていく。

もちろん生きることに意味なんてないし、生物としては子孫を残して死ねばそれでok、という話でしかないのは分かっている。

だが生きている以上、自分に自信は持っていたいし、ぼくは何かを達成できる人間だ!と思って生きていたい。そっちの方が遥かに幸せだろうと思うから。

正確には「できること」は増えている。だが、「無理だったこと」がそれ以上に重い。

例えばプロ野球選手を目指す人がいるとして、毎日素振りをして努力した。それによりホームランを打つことができるようになった。でも野球をやり続けている中で、プロ野球選手になれないことは何となく悟った。そこで野球を諦めた。

そういった類の経験が、ぼくには何十個もある。自分はこういうふうでありたい。でもそうはなれない。この現実的なギャップに、幾度となく打ちのめされている。

「自分は何なら達成できる人間なんだろう?」
それをいつも考えている。

何十回と打ち砕かれて、前を向くのに疲れている。

「どうせこの可能性を追ってもまたダメなんでしょ」
と思ってしまっている。

「挑戦、失敗するのが怖い」とは少し違う。
単に、「何に努力すれば良いのか分からない、そもそもの努力対象が見当たらなくなってきている」というのが近い。

一般に、「努力する方向を間違えるな」と言われる。勉強が苦手な人が東大を目指したり、運動が苦手な人がメジャーリーガーを目指したり。

無論、目指すのは自由だ。それで楽しいならオールオッケー。でも普通は、活躍できて、人から頼られることで、より楽しさや幸せを感じられる。ぼくはそっちを目指したい。

大学時代の先生の言葉でよく覚えているものがある。
「好きこそ物の上手なれという言葉があるが、それは違う。上手だから、その物事を好きになるんだ。」
少し残酷な言葉だが、当時19歳のぼくはとても納得した記憶がある。

ぼくは自分が輝ける分野を見つけたかったんだと思う。
それを神様が教えてくれたなら、どれだけでも努力しただろう。何百回でも打ち砕かれて、でもその度に、嬉しさとともに何百回と立ち上がっただろう。

でもその分野が見つからない。見つけるためには挑戦するしか無いのは分かっている。でももう、その挑戦にも疲れてきている。

才能を持った人が羨ましい。或いは、この記事に書いているような悩みを認識せずに、幸せを感じられる人が羨ましい。

ぼくはとてもナイーブだ。
自分で自分をそういうのは気持ち悪いから普段は言わないが、絶対にそう。父も兄もそうで、遺伝的にもメンタルは激弱だ。

ナイーブのくせにスポットライトを浴びたくて。
才能がないくせにセンスで勝負したくて。
過程を重視したいのに結果ばかりを気にして。
自分と向き合うべきなのに他人と比較して。
何かを成し遂げた訳でもないのに社会や他人を批判したくて。

「何者かになりたくて」
そういう思いが、いつまでも脳内に居座っている。

理想や期待が、高すぎるのかね。こういうのは「幸せな悩み」って言われちゃうのかね。

無気力

いまは、何にも没頭できていない。何にもやる気が起きない。希望をどこに持てばいいのか分からない。

正確には、「没頭できること」はある。数年前まではそれだけ永遠にやって、十分幸せだった。今だって、その物事に対して没頭出来る自信はある。

なら何故いまは、それに没頭しないのか。それは、「それに没頭して誰が自分に価値を見いだしてくれるのか」と考えてしまうようになったからだ。

もしそういった他者視点、客観性を重要視することが社会人的、大人的だというのなら、ぼくは大人なんてなるもんじゃなかったなと思う。

結局のところ、人に好かれたいだけ。好かれたいというか、必要とされたい、が近いかな。
必要とされること=希望=幸せの種、と思っていて、自分の幸せを他者依存するようになってきている。

客観的な指標を幸せの基準にするのは、多分良くない。幸せは主観で決めるべきだ。そういう意味では数年前のほうが良い状態だった。

まあ、そんな戯言はどーでもいいよね。

人生ってホントにくだらないよね。めちゃくちゃ分かるよ。何が楽しくてこんな色々苦悩しないといけないんだろうね?

希望を感じさせてくれた言葉

そんなぼくだが、希望を感じた言葉もある。それは僕の大好きなオードリー若林の、著書の中の一節だ。

「いっぱい悩んで生きてきてくれてありがとう」「これからもたくさん悩んで生きてください。それが、私を生かすから」。

まさか、自分の欠落に苦しんできたことが、誰かを生かすなんて思いもよらなかった。初めて自分の欠落に感謝した。

俺にとっての自信とは、欠落があったからこそ巡り会えた価値だ。

それがあったからこそ、血が通った関係や仕事や趣味に出逢えた。そして、それはサル山の序列と経済と世間が届かない場所まで俺を運んでくれる。

その恩恵に気づいてから、俺は人格を否定されることがあまり怖くなくなった。それは、俺を血が通った関係や没頭に出逢わせてくれたものだから。

(中略)

俺はボンネットを開けて欠落の構造を自分なりに理解した時に、これからもずっと生き辛いだろうし、そして、これからも大切な価値にたくさん出逢うだろうという諦念と感謝が同時に生まれた。その感情が芽生えてからは、内面を覗き込む時間が少なくなっていった。

表参道のセレブ犬とカンパーニャ要塞の野良犬(若林正恭)

これは若林が、欠点と思っていた自分のナイーブで生きづらい性格によって、他人を救っていたことを知ったときの感想を書いた節だ。

もしぼくが他人に価値を与えられるなら、これかもしれないと思った。自分はこの性格のまま生きて、誰かを助けられるのかもしれないと思った。

そんな簡単に考えるのは傲慢かもね、分かってる。
でもこの言葉は、ぼくの人生に希望を持たせてくれる。何者にもなれないぼくの、生きる意味を教えてくれている。

泣きたくなるような経験、その経験から得られる悩みこそ、ぼくの価値だ。

常に手を動かして悩み続けていよう。
目を覆いたくなるような現実に、飛び込んでいこう。

それをしている限り、きっとぼくは大丈夫だ。

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