人生において「成功」と「失敗」の“境界線”はない
『反省記』著者・西和彦インタビュー(3)
ビル・ゲイツとともにマイクロソフトの礎を築き、創業したアスキーを日本のIT産業の草分けに育てるなど、偉大な足跡を残しながら、その後、両社から追い出され全てを失った西和彦氏。そんな西氏の「半生」を『反省記』として著した本が大きな話題となっている。
マイクロソフトとも、ビル・ゲイツとも別れ、自ら立ち上げたアスキーとも訣別。人はそれを「失敗」と呼ぶかもしれないが、当の西氏は「すべては、今があるための必然」と語る。
人生の第三幕として「これから10年で大学を作る」と語る西氏に、これまでの人生と、これからについておおいに語ってもらった。
西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。
――そもそも、なぜ『反省記』という「半生を反省する物語」を書いたんでしょうか?
これは本の冒頭にも書いているんですが、最初はダイヤモンド社の編集者が「ハンセイキを書いてほしい」と言うから、「半生記」だと思って、「まぁ、いいかな」と思ったわけです。
ところが、よく聞いてみたら「半生記」じゃなくて『反省記』だって言うじゃないですか。人をつかまえて「反省しなさい」なんて失礼なことを言うんですよ。初対面の僕に向かって、よくもまぁそんな依頼ができるなぁと、これはあきれました(笑)。
――なるほど(笑)。
でも、考えてみたら『反省記』くらいでないと自慢話になってしまうし、それはそれでおもしろいと思いました。
実際に書いてみると、書いている途中で、どんどん細かいことを思い出してきて、リアルな情景まで浮かび上がってくるんです。『反省記』を書くにあたっての参考文献はありません。保存していた資料は参考にしたけど、基本的に、すべて僕の記憶の中から取り出したものです。
本を読んでもらえるとわかるのですが、細かいエピソードもたくさん出てきますけど、それがすべて頭に入っていたことに、自分でも「よく覚えていたな」という感覚はあります。
これからは年齢的にも、いろいろ忘れていくわけですから、ここで一気に書いてしまったのはよかったと思っています。「これで忘れてもいい」っていう感じです(笑)。
国語や社会ができない人にも『最高の理系の教育』を受けさせたい!
――『反省記』では、ビル・ゲイツに初めて会ったときから、マイクロソフトの礎を築いていく話、その後のアスキーの話など、まさに西さんがビジネスの最前線で活躍し、苦悩し、葛藤した姿がリアルに描かれています。
そして、最後には「これからの話」も触れています。西さんが、これからの人生において、やりたいこととは何なのでしょうか?
『反省記』は三幕に分かれていて、第一幕はマイクロソフトの話で、第二幕はアスキーのこと。そして、第三幕は、これから僕がやろうとしている「日本先端大学」という、工学部のみの単科大学をつくるという話です。
これまで「大学の新設」に関しては、「できたらいいな」くらいの気持ちでいたんですけど、今は違います。絶対につくる。この本はその宣言でもあるんです。
大学をつくるとなると、だいたい100億円くらいかかるんですが、それくらいだったら集められる。そんな自信ができたので、外部の人にも公言することにしました。この本の話を受けたとき、まさにその気持ちが固まったという時期でもありました。
――そもそも西さんは、なぜ「日本先端大学」をつくろうと思っているんですか?
僕は今、東大で教えているんですけど、東大って国語も、社会も、英語も、理科も全部できないと入れないんです。
でも、コンピュータを作ることに「国語はいる?」「社会はいる?」「世界史、日本史はいる?」と考えていくと、別に全部はいらないと思うんです。
もともと東大に入れる人はいいんですけど、国語がダメで東大に入れない、社会がダメで入れない、そういう人は多いわけです。東大だけの話じゃなくて、苦手科目があるからという理由で、早稲田に入れない、慶応に入れないという人はたくさんいます。
そうなると「偏差値の低い大学へ行くしかない」ということになるんですけど、そういう人たちのなかにも、コンピュータに関してはめちゃくちゃデキる人はいっぱいいるんです。
僕は中学生、高校生も大勢見ていますけど、彼ら、彼女らのなかには「こいつは将来、そうとう活躍しそうだな」という人は本当にたくさんいます。
でも、そういう人が、たまたま社会ができない、国語ができないというだけで、その可能性が潰されてしまうとしたら、もったいないでしょう。可哀そうです。
そういう人たちにも、レベルの高い教育を受ける機会を与えたい。それが、結果として日本の産業に役立つ。そういう思いで「日本先端大学」をつくりたいと思っているわけなのです。
――ちなみに、西さんにも苦手な教科はあったんですか?
そりゃありましたよ。日本史も、世界史もダメでした。漢文や古文はできたんですけど、現代文は全然好きじゃなかったです。
ある有名な評論家の文章が国語の教科書に載ってたんですけど、それがめちゃくちゃ難解な文章なんです。何が書いてあるのか、さっぱりわからない。でも、それを国語の先生がえらい褒めているわけです。そんなのおかしいでしょう。
「なんで、こんなわかりにくい文章を書くねん。文章なんて、わかりやすくてナンボのもんでしょうが」って思ってましたし、それは今でも自分が正しかったと思ってます(笑)。
高校卒業式のときの西和彦氏。痩せていた!!
――たしかに、別に国語や社会ができなくても、世界で通用する人材になる可能性は十分にありますよね。西さんが、それを体現されています。
そうなんです。ただ、日本で作ったものを世界中で売ろうとしたら、間違いなく英語は学んでおく必要があります。世界で通用する英語ですね。ここは、もうちょっとなんとかしたほうがいいと思ってます。
たとえば、僕は毎週新幹線に乗るんですが、以前、新幹線の車内アナウンスは録音されたテープだったんです。でも、最近は車掌が実際に肉声でアナウンスしています。それは素晴らしいことなんですけど、人によっては英語にかなり問題があるんです。
「Thank you for riding Tokaido Shinkansen.This is Hikari 226 bound for Osaka」とか言ってるだけなんだけど、その英語がまるで田舎の方言なんです。日本語で言ったら「みなはん、乗ってもろうて、ありがとござんす」みたいな感じ(笑)。
そういうのはしっかり学んでおかないと、ビジネスにはならない。日本の製品を世界で売ろうと思ったら、「ありがとうござんす」だとちょっと具合悪いです。それに、英語力も「This is a pen」のレベルでは通用しない。きちんとプレゼンできるレベルの英語力を身につけることは必須です。
はっきり言って「日本の英語教育はどうなってんねん!」という思いはありますけど、大学からでも遅くはないので、世界に通用する英語だけはきちんと学んでおいた方がいいですね。
――西さんは、英語はどこで覚えたんですか?
マイクロソフトで、覚えました。
マイクロソフト社の前で撮影。
――でも、西さんは、マイクロソフトに入る前から、アメリカに飛び込んでいって現地の人たちとコミュニケーションとってましたよね? ビル・ゲイツにも“直電”して英語で口説いてますよね?
まぁ、それは、日本の学校で学んだ英語で必死に伝えたわけ。「伝えたいこと」があったから、なんとかなったんでしょうね。でも、マイクロソフトに入って、本格的にビジネスをやるとなると、日本の英語力じゃダメでした。最初はちょっと苦労しました。
でもね、英語なんてたいしたことないんですよ。だって、海外に行ったら、みんなしゃべってるんだから。ちゃんとした訓練をしたら、誰だってできるようになります。
失敗も、成功も、すべては「今があるための必然」
――今回の本は『反省記』ということもあって、第一幕のマイクロソフト時代も、第二幕のアスキー時代も「たくさんの失敗を重ねてきた」という見せ方を本ではしているのですが、実際のところ、西さん自身は「自分の経験」についてどのように捉えているんでしょうか?
もちろん、失敗はたくさんしてきました。でも、その失敗がなかったら次はないわけで、マイクロソフトとだって別れてよかったと思ってます。
あのままマイクロソフトにいたら、副社長になってお金持ちになっていたでしょうけど、それはあくまでもマイクロソフトありきの話であってね……。僕は、「マイクロソフトも半導体をやるべきだ」と主張して、周りの人に政治的にはめられて、ビル・ゲイツと対立したわけだけど、マイクロソフトにとどまっていれば、「半導体」の夢はあきらめるしかなかった。そうしていたら、その後の僕はなかったですよね。
最初に設計したLSIのマスクプリントの前で撮影。
だから、ビル・ゲイツに「自分の持ち株の10%をやる」と言われたこともあるんですけど、「そんな株、いらねぇよ」って言ったんです。ビル・ゲイツの前で、そんなことを言ったのは僕だけでしょ(笑)。でもなんと馬鹿なんでしょう。
――うーん……。
まぁ、ビルと大喧嘩をして、マイクロソフトを追い出されて、そのことで10年くらいは苦しみました。
でも、僕はエンジニアとして「MS-DOS」と「GW-BASIC」と「TCP/IP」をローカルネットワークに乗せて、マウスとCD-ROMをWindowsに繋いだ。それにマイクロソフトを辞めたからこそ、グラフィックスとCPUとコミュニケーション半導体も作った。それは当時としては、どこに出しても恥ずかしくない業績だと思っています。
アスキー時代には、ビジネスマンとしてベンチャーをやって、株式上場もやったし、リストラもやった。結局社長は辞めたけど、あれだけ複雑な会社を運営して、会社を潰さなかったという自負はあるわけです。
それに、社長を辞めたからこそ、本格的に大学教育の世界に入ることができた。そして、教育者としての経験を積んだからこそ、大学をつくろうという「目標」も生まれたわけです。
世間の人は「あれは失敗だ」「ダメだった」とか言いますが、そういうさまざまな経験や業績があって、そして、いろいろ失敗もするからこそ、次の人生に繋がっていくのではないのでしょうか。
――なるほど。周りの雑音に惑わされず、前に進み続けろ、と?
そうそう。宇宙飛行士が、地球の外に出たときに「宇宙から見た地球には国境はなかった」と言うのとちょっと似ていて、自分の人生をマクロの視点で俯瞰して、全部『反省記』に書いてみて何を思ったと言えば、「失敗」と「成功」の“国境”なんてないということです。
ひとつの「成功」が次の「失敗」の原因になり、その「失敗」が次の「成功」につながっているのではないか。人の一生というものは、ドミノ倒しが延々と続くように、「失敗」と「成功」の因果がひたすら続くものなんでしょうね。そういうことが、『反省記』を書くことで、よく理解できました。
つまり、「今までの毎日に無駄はなかった。本当の意味での失敗はなかった。本当に失敗ならば今、生きてはいない」ということです。すべてのことが「今があるための必然」だと思うのです。
もちろん、『反省記』は僕のことについて書いた本ですが、これは、多かれ少なかれ、誰にでも共通することじゃないかと思います。ぜひ、みなさんにも『反省記』を読んでいただいて、ご意見やご感想をお寄せいただければ嬉しいですね。
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【取り上げられた本】
『反省記』
西和彦(著)
<内容紹介>
ビル・ゲイツのもと草創期のマイクロソフトを躍進させ、創業したアスキーを当時最年少で株式上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、すべてを失った……。栄光と辛酸を舐めた「天才」が、ついに、その裏側をすべて明かす。
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