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真の問題とは自他の影の演者や状況にはあり得ない?


まずはじめに

前々回から続く、「苦しむ私とは過去からの影法師...」と「過去から未来への影法師を手放し今現在のアートマン(真我)を見出す」との流れからすると、自分を含めて影芝居の中で何らかの問題解決に日々勤しんでいるという「仮説」が考えられます。

そこで、その影芝居の劇団内で問題を真に解決できるのか?について、ご一緒に考えてみましょう!

そもそも、何の行為もなくてすでに解脱している

三節
私は最高の、永遠の[ブラフマン]以外の何ものでもなく、常に満足しているから、私には得ようとする欲求がない。常に解脱しており、[私の]利益を望むことはない。

ウパデーシャ・サーハスリー1.19.3

この「私」とは、シャンカラ師だけではなく、私たちの誰もが当てはまるということであり、真の自己であるアートマン(真我)なので欠乏がなく、何かを得ようとする欲求もないので行為主体とはなり得ず、常に解脱していること以外の最高永遠の利益はこの世には存在し得ない、ということだ。

そういうことであれば、問題は?

真の自己であるアートマン(真我)には何の問題もないことになるのだが、しかし、自らの実在を鏡に映る映像と識別できていないままの付託(アディアーサ)による自分を含めた影法師の演者たちをスケープゴートにして問題解決に勤しんでいることになっています。

問題をどこか別の場所に移動させている

喩えはあまりよくはありませんが、「江戸の敵を長崎で討つ」にように、心の中での誤った決断、つまり、心の問題を心の中で解決するのではなく、その問題解決の逃げ道として、心の外に問題を投影して解決を図ろうとしている。

これが真実ならば、何万回輪廻転生しても、真の問題解決とはならないことは明らかになります。

問題解決を自分自身から引き離してしまっている?

この「仮説」が真実ならば、私たちのすべての本質的な問題とは、すでに解決されているのに、その解決から自分自身を常に引き離しておき、もしくは、問題を長い影法師のように引き延ばしていると言えるのではないか?

信頼を求める呼びかけ

この「仮説」が真実ならば、問題となるさまざまな状況の側面が影芝居として代替とされているものは、私たちに「信頼」が欠けていることの証しと言えないだろうか?

そのような影芝居としての問題の代替は、その状況と真の問題が実は同じ場所にあったことを私たちが信じなかったことを実証しています。

もとより、すでに解脱しているのならば、問題とは、私たちのそのことへの「信頼」の欠如だったとも言えます。

どのようなことかと再度考えると、私たちが問題をその源から引き離して別のところ(心の外)に置くときに、私たちはこの「信頼」の欠如を証明しています。

したがって、その結果、私たちは問題を見ていないことになる。そして、問題が解決できるという「信頼」が欠けていなかったならば、問題はなくなっていただろうし、その状況は私たちにとって意味あるものになっていたはずなのだ。

なぜならば、意味あるものとなっていたはずの理解を妨げるものが取り除かれていたはずだからです。すなわち、問題をどこか別の場所に移動させることとは、その問題を持ち続けることに他ならないと言えます。自分自身をあえて問題から引き離し、それを解決不可能なものにしてしまっているからだ。

影芝居の最中に、問題に直面しているとき、心静かに答を聴くならば、真の問題に対する「信頼」を求める呼びかけが心の奥底から救済と平安のもとへと呼び寄せる静かな声ならぬ声が響いているはずだ!

最後に

前々回と前回と今回にて、シャンカラ師が言わんとすることを現代的に、もしくは、現代の心理学調にてご一緒に考えてみましたがいかがでしたか?

ポイントは、心静かに、つまり、「寂静」となることですが、次回にこの「寂静」について少し考えてみようかと思っています。

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