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苦しむ「私」とは過去からの影法師...


まずはじめに

今回は、いわゆるインド思想としてのシャンカラ師の哲学だけではなく、現代の心理学の中で、ジークムント・フロイトが提唱した防衛機制の1つである投影を加味することで、ご一緒に考えてみたいと思います。

私は行為する主体であるという誤り

七十七節
「私は行為主体であり…」というのは、正しい理解ではありえない。

ウパデーシャ・サーハスリー1.18.77

シャンカラ師の教説によれば、「このnoteに書いているのは私だ」というのは、正しい理解ではないということになる。

百六十節、百六十一節
「[私は]苦しい 」という観念は、身体などを、「私」であると誤って考えることから確実に生じる。「[私は]イヤリングをもっている 」という観念のように。「私は内我である」と考える観念によって、すなわち、この[われわれの主張によれば]、識別智によって、識別智をもたない[観念]が否認される。誤った見解においては、[一切のものは]究極的には非存在となる。なぜなら、正しき知識根拠が正しい知識根拠でなくなるから。

ウパデーシャ・サーハスリー1,18,160-161

識別智については、「ヨーガは体と心を識別し心が霊を自認しながら生活を営む技術」にごく簡単に触れていますが、「アートマンを知覚主体と誤るカラクリがマーヤー(幻力)を生み出している」の鏡と鏡に映る映像の喩えからすると、自らの実在を鏡に映る映像と識別できておらず、付託(アディアーサ)してしまっている状態に対して、識別する智慧があることで鏡に映る映像を否認することができる、ということになります。

マーヤー(幻力)がもたらす時間と存在のマジック(魔術)について

「私」という観念の主体や知覚主体(行為主体)としての「自我意識」については、「苦しみの連鎖(カルマ)から解放するための智慧もしくは希望について」にて触れましたが

この「自我意識」のわかりやすい特徴とは、時間で言えば、過去に対して多大な思い入れを抱いていて、過去のみが時間の中で唯一の有意義な側面であると頑なに信じている。

そして、「自我意識」とは、自分が何か悪いことをしたとする罪悪を重要視することで未来と過去を同じものとして視ることによって、今現在という時勢を回避させて自分自身の連続性を維持しようとしている。

このように時間を捉えていることで、「自我意識」は、未来において生じるだろう何かを過去の代価を何らかの形で支払わなければならないとして、過去は未来を決定づけるものとなり、今現在という時間を介在させることなく過去と未来を直結させています。

ということであれば、「自我意識」は、「今」という時間が何の意味もないものとなり、現在という時間は単に過去の傷すなわち罪悪感を刺激し思い起こさせるものとなっています。

だからこそ、私たちが識別智をもたないままに付託している「自我意識」という知覚主体は、現在という時間に対して、あたかもそれが過去であるかのように反応することになっています。

したがって、「自我意識」は、過去という時間から解放されること、すなわち、過去においての罪悪感という苦しみを手放すことには耐えることができない(我慢することができない)ジレンマに陥っているのです。

過去はすでに過ぎ去っているのにもかかわらず、それが現在もなお継続しているかのように現在に対して応答していることで、過去の印象(残存印象/サムスカーラ)を保存しようとしています。

ここまで読み続けた人は、なんか嫌になってしまうかもですが、それでも是非ぜひ、一息ついてでも耐えてください。

過去からの影法師こそが逃れるべきものである!

ここまでを読み続けたならば、今回の題名である「苦しみ私とは過去からの影法師…」としたことに理解をお示しくださるはずです。

影は光が差す方向を遮ること、つまり、物にさえぎられてできる暗い部分となるわけですが、この物とは、ヴェーダーンダ哲学で言えば、「無智さ」であり、「識別智」をもたないこととなります。

心理学の投影とは、ジークムント・フロイトが提唱した防衛機制の1つで、「受け入れられない自分の感情や不快なもの、あるいは自分の悪い部分などを相手に映し出して、相手が持っていると思い込むこと」を言うのですが

この「無智さ」と「識別智」を手放した症状を診るならば、自らが否認した「智慧」を受け入れられず否認した罪悪感を自分だけで苦しむことに耐えきれずにそうせざえるを得ないことに葛藤しつつも、その部分を相手や世界へと映し出して、相手や世界が抱えている問題だと思い込む、となるでしょう。

光をさえぎるもの(自我意識)が無くなると

「自我意識」の特徴が無くなってしまうとどのようになるのでしょうか?

そのことについては、「神に恋する神人が観るヴィジョンとは?」をご参照ください。

今現在という時勢を回避させていたこと、つまり、今現在という時間を介在させなくなったのならば、「今」と「ここ」に実在する光のみを延長させた「実相世界」となることでしょう!

最後に

ここまで書いた後に永井豪の『真夜中の戦士』を思い出す。

永井豪はエッチな漫画として知られるが、この『真夜中の戦士』は子供心にいろいろなことを考えさせられたし、「私」は本当に私なのか?とか見えている世界は本当に在るのか?などを想うのだが、図書館に調べに行っても答は出なかったことを思い浮かべます。

子供の頃の私にこの “note” に書かれていることは難しいかもしれないけれど、探していた答はまさにここにあったと思います。

永井豪『真夜中の戦士』

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