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神に恋する神人が観るヴィジョンとは?


まずはじめに

ここのところ、ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドのヤージナヴァルキァ師がヴィデハ国ジャナカ王との謁見での対話をご紹介させていただいておりますが

今回は、私たちの内奥に潜む神人(=プルシャ=アートマン=真我)について、熟眠状態と夢眠状態そして覚醒状態のそれぞれを教説した後に触れる一節について引用します。

そして、ヤージナヴァルキァ師の二人目の妻であるマイトレイーに真我(アートマン)について言及する教説を引用し、「神に恋する神人が観る世界とは?」どのようなものかについてご一緒に考えてみたいと思います。

神に恋する神人が観る世界とは?

■眼が反対側を向く…

一節
(ヤージナヴァルキァ師が教え続けた)
この真我(アートマン)が力のない状態に陥り、明らかに意識を無くしたのと同じような状態になると、これらの生気(器官)はそれ(真我)の周囲に集まってくるのです。これら光からなる種々の粒子をすべて引きつけながら、それ(真我)は心臓の中に入るのです。それ(真我)の眼が反対側を向いてしまうと、人は形態(ルーパ)を意識化しないようになるのです。

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.4.1

内的心理器官(アンタカラーナ)の中のマナス(意思)という器官は、肉の眼を通して外的世界を知覚し認知(意識化)します。

しかし、夜寝て見る夢は、眼を閉じていても夢の世界を知覚していることから眼が反対側を向くことができる、つまり、マナスという器官は、心の中、もしくは、内的心理器官自体も知覚することができます。

伝統的な保守本流のヨーガの師が導く瞑想を体験した方々なら釈迦に説法ですが

一番粗雑な肉体(食物鞘)から順により微細なカラダをこのマナスという器官を使って観察していきます。この観察には、外的世界を認知する働きとしてのマナスをしっかり制御できなくてはなりません。

心臓内の小さな空間に神様が鎮座する」にて触れましたように、最終的に、観る主体である心臓内の真我までたどり着いた、つまり、真我を悟った神人が観る世界はどのようなものなのでしょうか?

■なぜ、愛する夫や妻や子供が愛おしいのか?

ちょっと、引用文が長いのですが、がんばります!

一節
さて、ヤージナヴァルキァ師には、マイトレイーとカーティヤーヤニーの二人の妻がいました。マイトレイーの方は、いつも絶対者ブラーフマンについて夫と議論するような妻でしたが、カーティヤーヤニーの方は、家事だけをする普通の女性でした。ある日のこと、ヤージナヴァルキァ師は、別の生き方をしたいと思いました。

二節
そこで、ヤージナヴァルキァ師は

『マイトレイーよ、私は今の生活を捨てて遊行の旅に出ようと思っている。だから、おまえとカーティヤーヤニーをおいてゆくので赦してもらいたい』

と言ったのです。

三節
そこで、ただちに、マイトレイーが言い返しました。

『あなた、この世の中のすべてに私の財産が満ち溢れているとしたら、私はそれらの財物で不死の人間になれるでしょうか?それとも、なれないでしょうか?』

『なれないだろう。おまえは、この世で多くの物を所有している者たちと同じようになってしまい、それら財物の力で不死の人間になることなどできなくなるはずだ』とヤージナヴァルキァ師が答えました。

四節
すると、マイトレイーがこう答えました。

『それでは、私は、自分を不死にはさせてくれないような物をあなたから残されてもいただくわけにはいかないでしょう?どうか、私に、あなたがご存じの(それこそが私たちを不死の者にさせてくれる)ものを教えてください』

五節
ヤージナヴァルキァ師が答えました。

『確かに、おまえは、私にとって愛おしい存在だったが、今さらながら、お前が愛おしくなってきた。だから、おまえがそうして欲しいならば、今から、そのことについて、話すことにしよう。私が話した通りに瞑想を施すがよい』

六節
かくして、ヤージナヴァルキァ師は次のように語ったのです。

『まことに、夫であるが故に夫が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に夫が愛おしいのである。

 妻であるが故に妻が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に妻が愛おしいのである。

 息子たちであるが故に息子たちが愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に息子たちが愛おしいのである。

 財産であるが故に財産が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に財産が愛おしいのである。

 家畜であるが故に家畜が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に家畜が愛おしいのである。

 バラモン僧であるが故にバラモン僧が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故にバラモン僧が愛おしいのである。

 王族(クシャトリヤ)であるが故に王族が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に王族が愛おしいのである。

 諸世界(ローカ)であるが故に諸世界が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に諸世界が愛おしいのである。

 神々であるが故に神々が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に神々が愛おしいのである。

 ヴェーダ聖典であるが故にヴェーダ聖典が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故にヴェーダ聖典が愛おしいのである。

 生類であるが故に生類が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に生類が愛おしいのである。

 万有であるが故に万有が愛おしく思われるのではなく、真我(アートマン)が愛おしい故に万有が愛おしいのである。

 マイトレイーや、真我こそ眼にされるべきであり、耳にされるべきであり、考えられねばならぬのである。真我(アートマン)を認め、耳にし、熟考の対象にする時に、一切は悟られ(意識化され)るのである』

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド4.5.1-6

以前のヴィデハ国ジャナカ王との謁見での対話をお読みの方々ならば、しこため、王様から財物をヤージナヴァルキァ師が贈られたことはご存じの通りです。

お金に目がくらまない女性は、なかなかにやっかいですが、実は、この後にもヤージナヴァルキァ師の教説は続き、マイトレイーは混乱し真我がわからなくなってしまいます。

ヤージナヴァルキァ師は、真我は捉えられないものであるからこそ「それではない、それではない(ネイティ・ネイティ・ブラーフマン)」として真我によって認識しなさいと説いて立ち去るのでした。

当時の私もマイトレイー状態でしたが…

■恋する人の瞼に映るもの

哲学的に難しく考えてしまうとマイトレイーのように陥ってしまいがちです。

たとえば

これは誰かに恋したことがある人なら、誰でも感じたことがあることで

瞳を閉じると

そこに

瞼に

好きな人を感じることができる

瞑想して心の内奥に真我(アートマン)を眼にしたならば

その眼が見つめる神様を感じることができる

瞳を閉じると

そこに

瞼に

神様を感じることができる

そのまま、眼を開けて外を観ても

それ(神様)が延長されて世界が輝いて見える感覚

私たちが普通に恋して輝く世界を知覚するように

神人は

内なる神だけにぞっこんでそのまま世界も愛おしく感じるのでしょう

最後に

神人が観るヴィジョンを想像することができたでしょうか?

おそらく、普通に恋する私たちがその想いを投影する世界に対して、比べようがないほどに、輝いた世界が目前に広がっているのかもしれません。

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