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青山拓央氏の場合――「意識」を巡る記述の超越論的-超越的二重性/循環

※下記は、現在「下巻」執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している 』「上巻」第1章 無内包性と形式性 カント『純粋理性批判』――「形式としての空間」の形式性」に対する[注]の一つである。


[注8]
ここでは、「境界なき境界」としての「意識」「心」といった形でこの<次元/場>をあらたに概念化/言語化することはしない。なお、「境界なき境界」としての「意識」(「意識の現象的内包」「現象的パースペクティブ性」)と独在性の関係性を焦点化した論考として、青山拓央「他者と独在性」および「言語と「それしかなさ」について」(『<私>の哲学をアップデートする』永井 均 入不二基義 青山拓央 谷口一平著 春秋社 2023年 所収)を参照。

 「意識」を巡るどのような議論またはロジックも循環に陥るというのは哲学的議論の地平では常識だが、非常に高度な青山拓央氏の議論または記述そのものにおいてもその循環が炙り出されている。その指標になる記述の一つが、

「意識はそれ自体としての境界を持ちませんが、意識の内容はある種の境界を持っている。その「内容」は、世界の局所的な部分しか表象しないようになっています(中略)このような表象範囲の限定性が意識内容には多様に見られるのですが、それらを取りまとめてやると、身体に代表される、世界に複数実在している境界付けのどれかと重なるようになっている――。これは当たり前の話に聞こえますが、先述の「重ね合わせ」について考慮するなら、じつは驚くべきことです。というのも、それしか存在しないということと、存在するそれの内容物がそれを併存する「箱」の一つに紐づけるということは、本来、独立のことなので。この二面性を備えた存在を、僕は意識以外に知りません。」(青山拓央「他者と独在性」 94頁 強調は青山氏による)

における「それらを取りまとめてやると」である。まさにここで青山氏が記述する「それらを取りまとめてやる」ことという事態の超越論的かつ超越的な二面性が問われている。さらに、「言語と「それしかなさ」」(青山拓央 前掲書 272頁)の記述

「ある特定の身体における運動感覚、ある特定の身体動作の予見(いまからある身体がどう動くかの予見)、ある特定の身体動作を合理的に説明するための心理的情報(たとえば意図や計画についての記憶)、こういったものが「それしかない」ひとまとまりの現象的内包を通じて与えられるとき、それは知覚情報のパースペクティブと手を取り合って、世界内のただ一つの身体を特権化する」

においても「ひとまとまりの現象的内包を通じて与えられる」という事態の超越論的かつ超越的な二面性が循環的な形で示されている。

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