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あいまいなもの②―アジャン・チャーのマインドフルネスにまつわる講話

これからご紹介するのは、20世紀にタイのみならず、西洋でも大変尊敬され、瞑想の名師であったアジャン・チャーの名で親しまれてきた(アジャンはタイ語で先生の意)、プラ・ボディニャナテーラ師の講話です。アメリカ人の僧侶であるタニサロ比丘が翻訳し、無料冊子に収められているものです。以前ワット・ナナチャートでいただいたものなのですが、仏教の知識がなくても大変わかりやすく面白い内容でしたので、抜粋して日本語翻訳いたします。アジャン・チャーのシンプルで深い洞察、アジャン・タニサロの繊細な言葉えらび、ふたりの素敵なエッセンスが伺える短くも奥行のある一冊です。
(著作権)Not for Sure, Venerable Ajarn Chah, translated from the Thai by Thanissaro Bhikkhu for free distribution, copyright © 2007 The Sangha, Wat Pha Nanachat, Warin Chamraab, Ubon Ratchathani 34310, Thailand

あいまいなもの―アジャン・チャーのマインドフルネスにまつわる講話①はこちらです↓↓↓↓↓

よくヴィパッサナー(内観の行)とシャマタ(集中の行)をまったく別のものかのように言うけれども、実際のところふたつはひとつで、同じものだ。ヴィパッサナーは動きのある集中のことであり、ふたつの出どころは同じ、両方ともマインドから出ていきている。ここになっているマンゴーのように、ただ向かう方向や、特徴が違っているだけ。小さいマンゴーは熟すまでどんどん大きくなる。その間マンゴーはずっと同じマンゴーだ。別のマンゴーになったりしない。小さいときもこのマンゴーだし、大きくなってもやっぱりこのマンゴーだ。ただ特徴だけが変化していく。

ダンマ(法)を知るための精進の過程で、ある状態のときは集中と呼ばれ、過程を経ていくと智慧による洞察と呼ばれるようになる。だけど実際にシーラ(制心)、サマディ(集中)とパンニャ(智慧)はすべて同じものということができる。マンゴーと同じようにね。

マインドフルネスの実践(サティパタナ)の基盤となるのは、①シーラ②サマディ③パンニャの3つであると、サティパタナ・スッタの中でブッダは説いています。
シーラは漢訳では直訳して『戒』と訳されます。面白いことにアジャン・タニサロはこれを徳(virtue)と訳しています。なぜ彼がこの言葉を選んだのかというと、戒の行いの結果としての状態が『徳』だからではないかと思います。戒律と直接書いてしまうと、西洋的には押さえつけてがまんするかのように聞こえてしまうため、心をコントロールすることで得られる『徳』という結果の部分を巧に表現しています。
サマディは漢訳では『定』と訳されています。一点集中が続く、波風が立たない状態をいいます。直訳するとサマ=均衡、アディ=状態という意味です。前回の記事であった『印象』に振り回されず、安定した岩のようなマインドの状態です。
パンニャは智慧のことを指しますが、ここではより具体的に『洞察によって喚起される智慧』という意味でお話が進んでいきます。そのためアジャン・タニサロの対訳は『discernment=洞察』となっていました。奥の深い言葉選びから彼のダーマを大切に扱う様子が伺えます。

ダンマ(法)を知るという精進を実践するのであれば、どんなことであっても、マインドからはじめなければいけないということだ。そのマインドって何なのかわかっているかい?マインドってどんなもの?何?どこにある?誰も知らないだろう。わかっているのは、あっちに行きたいとかこっちに行きたいとか、あれがほしいとかこれがほしいとか、しあわせだの悲しいだの、そういうことだけ。でもマインドが一体どういうものなのか分からない。

マインドはどれも決定的に「ある」という状態ではない。みんな受ける印象という仮説の上で良いとか悪いとか判断を起こしているだけで、それを『心』だとか『意識』だとか言っているんだ。

家の主のことを考えてごらん。来客があるのは家の主だけだ。訪ねて来た客が主を来客だと認識することはできない。主が家にいるときに、誰か来ると主はその来客を認識しなければいけない。そのとき誰が印象を受ける?誰が感覚を反応させる?それが『マインド』だ。それでもわたしたちは理解できずに、堂々巡りをする。

『マインドってなんだろう?心ってなんだろう?』と混乱しないでいい。何が印象を受信しているのだろう?あることは好印象であり、あることはそうでもない。なんだこれは?そこには好き嫌いということがあるからなのか?もちろんそうだろうけれど、そもそも好き嫌いがどういうものなのか知らずに起こる。それがマインドだ。わかったかい?あまりあれこれ考えなくていいんだよ。

ここでの行は、シャマタとヴィパッサナーの違いがどういうものなのかについて、掘り下げなくてもいい。ただ『ダンマを知る行』をしていると思いなさい。それで充分だ。そして行をするときは、おのれのマインドから始めなさい。マインドとはなんぞや?マインドは知覚による印象を受けるもしくは認知するもの。ある印象は心地の良いものであり、ある印象はみじめなもの。その印象の受信がわたしたちの幸不幸、正しいと間違いを決めている。だけどそれは確かなものではない。わたしたちは知らずと確かなものだと思っているけれど、それはただの『ナマ・ダルマ』だ。「良いこと」はモノ?それとも悪魔?幸せや苦しみにカタチはある?ないだろう?角があるかい?どんな長さだい?知ってるかい?それが『ナマ・ダルマ』。物質として表すことができない。だけどあるということだけがわかる。

だからまず、マインドを穏やかにすることからはじめるように教えられてきた。何が起こっているのか氣づいていなさい。氣づきがあれば、マインドは穏やかになっていく。ただとにかく平穏な心だけを求めて、マインドに目を向けることを嫌がる人もいるけれど、それだと平穏が何であるのかを履き違えていることになる。平穏とは何もないことだと思うのであれば、何も学ぶことができない。もしこの『目を向ける人』がいなければ、何をもってして行をするというのだろう?

長いも短いもない、正しいも間違っているもない。近頃の人々は、何が正しくて何が間違っているか、何が善で何が悪かを基準に学ぼうとする。だけど正しさとは何なのか、間違いとは何なのかを知らない。ただ単に正しいか間違ってるかだけを知ろうとする。「自分は正しいものだけ必要で、間違っているものは一切いらない。当たり前だろう?」という人もいるけれど、そうやって実際正しいことだけしようとしているうちに、何かを間違える。正しさがゆえの間違いってやつだ。

人々はいつも何が正しいか、何が間違っているかばかりを気にしているけれど、『正しくもなく、間違いでもないもの』に目を向けようとはしない。善と悪を学ぼうとし、美徳と背徳はなにかを探すけれど、その丁度真ん中にあたるどちらでもないものを学ぼうとはしない。短いのか長いのかを問題視し、どちらでもないことを議題に上げようとしない。

このナイフには刃があり、背があり、持ち手がついている。それを手に取るときに、刃の部分だけ持ち上げるようなことをするかい?刃の背だけ持ち上げたり、持ち手の部分だけ持ち上げることができるかい?持ち手はナイフの一部で、背もナイフの一部で、刃もナイフの一部で、どこを持ち上げても、どうしたって3つの部分のすべてがついてくる。

それと同じように、良いことにこだわっても、悪いことも必ずついてくる。それでも人々は良くも悪くもないものはそっちのけで、良いことだけを求めて、悪いことを全部排除しようとする。これを解ろうとしない限り、堂々巡りは終わらない。良いことには悪いこともついてくる。もれなくついて来る。しあわせを求めると、苦しみもついてくる。表裏一体だ。良いことだけを求めて、悪いことを排除しようとするのは、子供だましのダンマだ。子供がおもちゃで遊ぶというダンマだ。もちろんそのまま良いことだけを求めていても構わないよ。だけどどうしても悪いこともついてくるから、だんだん支離滅裂なことになってくる。ということはあんまりよろしくないということだ。

③へつづく↓↓↓↓↓


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