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あいまいなもの④―アジャン・チャーのマインドフルネスにまつわる講話

これからご紹介するのは、20世紀にタイのみならず、西洋でも大変尊敬され、瞑想の名師であったアジャン・チャーの名で親しまれてきた(アジャンはタイ語で先生の意)、プラ・ボディニャナテーラ師の講話です。アメリカ人の僧侶であるタニサロ比丘が翻訳し、無料冊子に収められているものです。以前ワット・ナナチャートでいただいたものなのですが、仏教の知識がなくても大変わかりやすく面白い内容でしたので、抜粋して日本語翻訳いたします。アジャン・チャーのシンプルで深い洞察、アジャン・タニサロの繊細な言葉えらび、ふたりの素敵なエッセンスが伺える短くも奥行のある一冊です。
(著作権)Not for Sure, Venerable Ajarn Chah, translated from the Thai by Thanissaro Bhikkhu for free distribution, copyright © 2007 The Sangha, Wat Pha Nanachat, Warin Chamraab, Ubon Ratchathani 34310, Thailand

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わたしたちは感知によって起こる印象とは何かを知らなくてはならない。その印象を観察しなさい。あるものは好ましく、あるものはそうでない。だったら何なんだ?放っておいたらいい。それが感知であり、印象であるというだけだ。サルみたいにね。すべてのサルはサルだ。印象も同じだ。好ましかったり、疎ましかったりする。ただそれだけ。そういうものだということをわたしたちは理解しなければいけない。それさえ知っていれば、気に留めることがなくなる。印象ほどあいまいなものはない。きまぐれで、ストレスで、実体がない。このことを心に留めておくんだ。目、耳、鼻、舌、肌そして意識がただ印象を受信しているんだよ。その性質を理解するんだ。サルがどういう生き物か知るのと同じようにね。どのサルも家にいるサルと同じ。それが解れば、平穏でいられる。

印象が顕れたら、それに気づきなさい。それに振り回されなくていい。印象なんてあいまいなものだ。一分ある感じがしていても、次の一分はもう違う。時に同じような印象を繰り返して、留まっているかのようだ。だけどそれも変化の中でのこと。そして生きとし生けるものすべてがその変化の中でここに存在している。息を吸ったり吐いたりしているようにね。息を吸うだけなんてことはできないだろう?何分できるかな?反対に吐くだけも無理。変化が無かったら生存することすらできないんだよ。吸うと吐くと両方あってはじめて生存できる。そうしてやっと、あなたは寺まで辿りつくことができるんだ。ここに来るまでずっと息を止めていたら、あなたは途中で死んでいるはずだ。ここにいないだろう。そういうことだ。

印象もそれと同じことだ。そこになければならない。もしそれがなかったら、洞察力を培うことができない。もし間違っているという感覚がなければ、正しいという感覚も存在しない。反対に正しいとは何かという判断基準がなければ、間違ったことは存在できない。そういうものだ。

もしあなたがマインドについて学びたいのであれば、印象がどんどん出てきたほうが分かりやすい。だけど印象が疎ましかったり、それに目を向けようとしないのであれば、授業をさぼっているのと同じだ。先生の言うことを聞きたくない子供と同じだ。印象はいろいろなことを教えてくれる。それが解ってさえいれば、ダンマ(自然の摂理=法)を学ぶことができる。わたしたちはそれがどういう性質のものであるのかさえわかれば、平穏でいることができる。何が問題なのか知っていさえすればいい。サルがそうであるようにね。家で飼っているサルにいちいちイライラしないように、どのサルを見てもイライラしない。だってそういうもんだって知っているからね。だから気に留めることもないだろう。

ダンマを知るということも同じだ。どこか宇宙の彼方にあるようなものではなく、身近なものだ。ダンマとは何か崇高なもののことを指すわけではなく、シンプルに自分のことだ。単に今ここで自分に何が起こっているかということ。だから自分について深く考察するといい。しあわせだと感じたり、苦しかったり、爽快だったり、イライラしたり、誰かを好きだったり、嫌いだったりするわけだ。これがダンマだよ。わかるかい?

これを知るためには、印象に目を向けなければならない。それらが何なのか腑に落ちた瞬間、それらを手放すことができる。そうすることで気にならなくなるんだ。気づくとあなたははっとする。『ああ、これはあてにならない、あいまいなものだ』と。そしてまた印象が変わると、『これもあいまいだなあ』と。そうすれば、サルと同じように気に留めることなく、気楽でいられる。疑うことなんか何もない。印象というものの性質を解っていれば、ダルマとは何か分かっているということだ。そうすると印象にとらわれることはない。あなたはどうしたって絶対に、どんな印象も確かなものになることはないんだと悟っている。『しあわせを感じたことがある?』『悲しみを感じたことがある?』と聞かれても答えなくていい。どうしたって答えは『はい』だ。だけど、それは絶対的なものかと聞かれたならば、答えは『いいえ』ということになる。

この『あいまいなもの』がブッダだ。ブッダとはダンマのことだ。ダンマとは、このあいまいなもののこと。このあいまいなものが見える者はだれでも、それが絶対的な本性であることを解っている。この本性が変わることはない。これがものごとの正体であり、ダンマそのものであり、ブッダそのものだ。ダンマの正体が見えれば、ブッダの正体も見えるということだ。ものごとが気まぐれで、あいまいであるということを目の当たりにしたら、それに対してあれこれするということを辞めるだろう。こだわっても仕方がないのだから。

『わたしのコップを割らないでね?』と言うかもしれないけれど、どうやって割れる性質のものを割らないでいるというのだ?今は割れていないかもしれないけれど、いつかは割れる。あなたが割らなくても誰かが割るかもしれない。誰かが割らなかったとしても、ニワトリが来て割るかもしれない。ブッダはそれに対して仕方がないという。だからもう割れてるんだと思うといいと説いたわけだ。割れてないコップを既に割れているように見ているということだよ。コップを取って、それで水を飲んで、それを置いたときもずっともう割れてるんだと思いなさいってこと。わかるかい?ブッダが言っているのはそういうことだ。ブッダは割れていないコップの中に割れたコップも見ているんだ。時が来れば必ず割れるからね。だからこういう見解を育てていくといい。コップを大事に使いながら、コップの本性を知るんだよ。するとある日そのコップが手からすべり落ちて割れても、『ガッチャーン!』でも大丈夫。なんで大丈夫なんだ?それはあなたがそうなる前からコップの割れる性質を知っているから。

それでも人は『大事にしてるから、絶対に割らないでよ!』と言い、ある日犬がそれを壊してしまうと、『あの犬め!コノヤロー!』と犬を憎み、自分の子供が割ってもその子に嫌気がさす。誰が壊したって憎いんだ。なぜだと思う?自分で八方塞がりにしてしまっているからだよ。排水口のないダムを作っているのと同じで、水は流れない。てことは、ダムは決壊するしかないんだ。ダムを作るときは、排水溝も作っておかないといけない。水かさが限界まで来た時、水を外に流すことができれば安心だ。へりに排水溝さえあれば水ははける。そんな風にあなたもはけ口を作っておかないといけない。ものごとは永続的ではない(アニッチャ=無常)ということを知るということが、賢者のはけ口となる。それがダルマを知るということだ。

だからわたしは立っていても、歩いていても、座っていても、横になっていてもそれを心に留めておくようにと教えられてきた。だからそうしてきたし、いつもそのことにサティ(集中)するようにし、観察しマインドを見守ってきた。これがシャマタ(集中の行)だよ。そしてこれがヴィパッサナー(内観の行)でもある。この二つは同じものだ。ただその性質が違っているだけだ。

本当に非永続性にもとづいてものごとを見たならば、それはものごとが不確かであいまいだということであり、非永続性という前提のもと、ものごとの不確かさを目の当たりにしたとき、目にしたその非永続性は確かなものとなる。どんな風に確かかというと、それがものごとの本当のありさまだということが確かに分かるってことだ。わかるかい?これだけでも解れば、ブッダとは何かを知っていると言える。それがブッダに帰依するということだ。それがダンマに帰依するということだ。今言ったことを元に深く考察しなさい。

ブッダというものの本質を投げ出さない限り、苦しむことはない。それを投げ出したとたん、苦しみは瞬時に蘇る。アニッチャ(無常)、ドゥッカ(苦しみ)、アナタ(自己の不確かさ)という根本を投げ出したとたんに苦しみは瞬時に蘇るんだ。

ここでアジャン・タニサロは、アニッチャ(無常)を非永続性inconstancy、ドゥッカ(苦)を八方塞がりのストレスstress、アナタ(無我)を不確かであいまいな自己non-selfという形で表現しています。単に無常・苦・無我と聞くよりもコンセプトに沿った繊細な表現で分かりやすいですね。 

これだけ練習できれば充分だ。苦しみは生まれることがないだろうし、万が一生まれたとしても、簡単に消えてしまうだろう。そしてこれがこの先苦しみが生まれることがない縁起の起因となる。ものごとはここで終わる。ここが終着点。なぜ苦しみはもう生まれないのだろう?それは苦しみの起因となる原因を慎重に見極めているからだ。これがサムダヤ(四聖諦の二つめの『集』=原因)。

たとえばこのコップが割れたら、イヤな思いをするわけだ。ということは、苦しみの原因は割れていないコップなわけだ。ということはその原因を取り除けばいい。すべてのダンマ、現象は原因があるから生まれる。それが消えるときも、原因があるから消える。じゃあそこでここにあるコップが苦しみの原因だということにしたら、それで怒って、その怒りで苦しむんだとしたら…。さっき言ったように、割れていないコップを割れているコップだと想定して、それがどういうことが考えてみるといい。そうすれば原因はなくなる。苦しみが起こる理由がないということは、消えたってことだ。これがニローダ(四聖諦の三つめの『滅』)。

これ以上なにもないよ。このポイントをずらしてはいけないよ。いまここでそれを実践しなさい。いまここで考察しなさい。いまここで自らのマインドで証明することを始めなさい。これが基本中の基本だ。五戒を胸に実践しなさい。経典を読まなければできないなんてことはない。五戒を守れているか見守りなさい。日々の瞬間瞬間を大切にし、常に実践しなさい。そんなに簡単ではないから、間違いを起こすだろう。それでも間違いにいかに早く気づき、戻ってくるかだ。また間違ったら、また戻ってくればいい。とにかく何度でも戻ってくるんだ。

五戒(パンチャ・シーラ)とは、仏教に帰依する=ダンマを実践するものが最低限する5つの約束のことで、僧侶にかぎらず在家にも値します。①不殺生=命を奪わない②不偸盗=与えられていないものを奪わない③不邪婬=性欲に振り回されない④不妄語=嘘をつかない⑤不飲酒=中毒性のあるものを摂取しないの5つのことです。

そうすればあなたのサティ(マインドフルネス)は高い再現性を持つものになっていく。水差しから注がれる水のように、ちょっと傾けただけでもポトポトと水滴がこぼれるように、途切れながらも流れ出す。もっと水差しを傾けると、さっきよりもジャジャっと断続的に出る。そしてもっと傾けると、途切れることなくジャーっと流れ出すわけだ。そしたら水滴なんてない。水滴はどこへ行った?どこにも行ってないよ、ただ流れる水になっただけ。そうすると再現性を超えて、継続的なものになっていく。水滴が途切れることのない水の流れの中に混ざっていくようにね。

⑤につづく↓↓↓↓↓


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