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仮想、それを手放すこと①―アジャン・チャーの講話『あいまいなもの』後編

Not for sure 『あいまいなもの』後編の講話は前編と比べて少し複雑な展開になっています。まだ前編を読んでいない方は、こちら↓↓↓↓↓

これからご紹介するのは、20世紀にタイのみならず、西洋でも大変尊敬され、瞑想の名師であったアジャン・チャーの名で親しまれてきた(アジャンはタイ語で先生の意)、プラ・ボディニャナテーラ師の講話です。アメリカ人の僧侶であるタニサロ比丘が翻訳し、無料冊子に収められているものです。以前ワット・ナナチャートでいただいたものなのですが、仏教の知識がなくても大変わかりやすく面白い内容でしたので、抜粋して日本語翻訳いたします。アジャン・チャーのシンプルで深い洞察、アジャン・タニサロの繊細な言葉えらび、ふたりの素敵なエッセンスが伺える短くも奥行のある一冊です。
(著作権)Not for Sure, Venerable Ajarn Chah, translated from the Thai by Thanissaro Bhikkhu for free distribution, copyright © 2007 The Sangha, Wat Pha Nanachat, Warin Chamraab, Ubon Ratchathani 34310, Thailand

この世のすべてのものごとは、仮想であり、その仮想がわたしたちを存在たらしめている。一度何かを仮想したら、わたしたちは自分が想定したものの中に入っていく。ということは、他の人がそれをどうにかすことはできないってことだ。それが物差しとなり、アイデンティティとなり、それを拠り所としてしがみつくんだ。この何かにしがみついている状態は延々とつづく。これがサムサーラ(輪廻)ってやつで、果てがなく、留まることを知らない。でもわたしたちが実際に自分の想定というものに気がついたなら、手放せることを知る。そして手放すことに本気になれば、何を想定して仮想しているのかを知ることができる。それがダンマを知るということであり、堂々巡りに終止符を打つということだ。

例えばわたしたちが母親の子宮に入ってきたとき、まだ名前はない。実際にその存在が生き物になるだろうと想定されたときに、名前が生まれる。もしこの仮想という前提を知らなければ、人生はとんでもなく辛いものだと思うし、そういう人をたくさん見てきた。ほんとうは想定というものは単なる機能だ。それさえ解っていれば充分だ。想定という機能すらなかったら、たとえば誰かに何かを言ったり、そもそも言語という概念すら存在し得ないからね。

以前海外に行ったときに、欧米人が並んで瞑想しているところを見たのだけれども、瞑想が終わると男女混ざって、無造作に頭を撫でたりとかしていたんだよ。それを見て、『うーむ…、もしここで自分の想定というものを持ち出して、それにしがみついていたら、イヤな感じがすぐさま沸きあがって来そうだ。』と思ったんだよ。でも、そこで自分の想定にしがみつくことを辞めてしまえば、ずっと穏やかでいられる。

タイでは頭頂に精霊(守護霊)がいると考える文化があり、頭を撫でることは良くないとされてきました。愛情表現として子供の髪をなでることはあっても、ポンポンとするのはちょっと失礼な感じです。子供がお寺や托鉢に行くと、お坊さんが頭頂に手を当てて経をあげてくれたり、タイ人にとって頭頂はとても神聖な場所です。

たとえば将軍や大佐のように、肩書のある者がわたしに会いに来たとしよう。そして『わたしの頭をどうか撫でてください!』と言ったら、彼らはそれを望んでいるということだろう?ということは、まったく問題がないということだ。そしたら彼らの頭を撫でたらいいし、それで喜ばれるだろう。でも大通りのど真ん中、公衆の面前でそれをやったら、ちょっとした騒ぎになる。というのもそこに何かしがみついている想定があるからだよ。ということは、それさえなければ快適だということ。頭を撫でることに対して合意があれば、そこには問題がないという想定ができる。キャベツやレタスなんかをゴシゴシして問題がないのと同じだよ。でもそれが公衆の面前だったら、想定が変わって耐えがたいものとなる。

したいか、したくないの想定が問題なんだ。どちらにしても受け入れて、あきらめて、手放せばいい。それさえできれば、何があっても大丈夫だ。どんな状況でも、想定にしがみついていたら、すぐさま仮想が生まれ、瞬く間に仮想が成長し、毒々しさや危険が顕れる。ブッダは仮想について説き、仮想を作りあげている想定を解除して、仮想を消去する方法を説いた。だからそんなものにしがみつかなくていい。

この世に顕れるものすべては、仮想。それが生きるということをもたらす。仮想がゆえに顕れてしまったものに、陥る必要はないんだ。ただ苦しいだけだから。仮想がどのように起こるか、そのなりゆきはとても重要だ。それを手放せるならば、誰でも苦しみから自由になる。

だけどそれはわたしたちの世界そのものを存続させている活動そのものだから、そう簡単にはいかない。例えばブーンマーという男の話をしよう。彼は県知事で彼の旧友のシンチャイは知事ではなかったが、二人は古くからの仲だ。ブーンマーは知事だから、そこには想定というものがあるのだが、生きているからには、それをきちんと使う術を心得ておかなければならない。シンチャイが庁舎に来てブーンマーの頭をポンポンとやったら、面目ないのだ。シンチャイがどれだけ二人が仲良く仕事をしたり、旅行しているときに一緒に死にそうな目に遭ったり、ということを引き合いに出しても、公衆でそんなことをするのはよろしくないわけだ。少し腰を低くして、社会的な想定という目線に立たなければならない。そうしてはじめて共に穏やかに生きることができる。どんなに古くからのつきあいであっても、彼には立場というものがあり、それをわきまえているところを示してこそ良き友人だ。

庁舎を出て家に帰れば、頭をポンポンやったってかまわないんだよ。知事の頭だろうが、何の問題もないわけだ。公の庁舎だったら問題だという想定があるわけだが、そこを配慮することが相手に敬意を払うということだ。こんな風に理解できていれば、想定という機能をきちんと使うことができる。どれだけ古き良き友であっても、公衆で想定をわきまえなければ彼は怒るに違いない。いろんな人の世界と繋がっているからね。そこのところを履き違えてはいけないよ。

だから想定の使い方と、想定の手放し方、どちらも学んで賢くあるように教えられてきた。あなたもこの機能を使い方をよく学んでおきなさい。きちんと使えれば何の問題もないが、使えなければ暴力的な人間になってしまう。何が暴力なんだと思う?それは他の人々が抱えているキレーサ(不浄)を、乱暴に踏みにじることになるからだ。生きているのは、不浄があるからだ。ある一定のグループや人の集まり、時と場合によっては従わなければならない想定というものが存在する。その想定を受け入れることのほうが賢いと言える。その想定がどこからきて、どのくらいの影響力があるのかしっかり考えなさい。生きているからには想定を受け入れなければならない。ただそれにしがみつくと苦しいということだ。それを解った上で想定とはただの想定であるということを手放せるまで探求しなさい。そうすれば大丈夫だ。

キレーサ(不浄)という表現は、神道的な穢れと少し違います。汚れているのではなく、無知がゆえに仮想を実在だと信じ込み、想定をたくさん抱え込んで混乱し、現象に質量を与えている状態のことを不浄と言います。ここでの話の流れでは、キレーサ=しがみついている想定と考えてもいいかもしれません。

わたしは良く言うんだが、以前は在家だったけれども、今は僧侶だ。在家という想定から、出家の儀式なんかを経て僧侶という想定になった。それでも僧侶になったからと言って、それは想定なだけで、真の僧侶かと問われると、それはどれだけ想定から解放されているかで違ってくる。瞑想をつづけることによって、熟成(アサヴァ)されてしまった仮想から、ひとつづつ、段階を経て解放されていく。それは解放の流れに入った者(ソータパンナ)、あと一度の生で解放されそうな者(サガダガミ)、今世で解放されそうな者(アナガミ)というように、想定によるすべての不浄(キレーサ)は解き放たれる阿羅漢(アラハン=解放された者)の道へと続いている。たとえ誰かが『あの人は阿羅漢だ』と言ったとしても、その人が真の僧侶であったとしても、それも結局ただの想定だということだ。

はじめのうちは、出家の儀式によって、僧侶と呼ばれるという想定に対して合意を得る。だからって突然すべての想定による不浄を手放せると思うかい?そんなことある訳がない。それは砂を手に取って、『これを塩だと想定すると、』と言って話を進めるのと同じだ。仮説の上では塩だけれども、それが本当に塩なはずがない。それをカレーに入れても、塩として機能してくれない。それを塩だと言い張っても絶対にそうはならない。これは想定上の話なのだから。

『解放』という言葉はなにか仮想の中で起るように聞こえるかもしれないけれど、それは仮想というものを超えたところにある。解放されるということは、すべての想定を手放すということだ。そこに至るにはこれだけだ。想定なしにわたしたちは生きることができるかい?できないよね。もし想定というものが存在しなければ、お互いコミュニケーションを取ることすらできない。ものごとがどこから来て、どこへ行くのかも把握することができない。どんな言葉をつむぎ出すこともできなくなってしまう。

想定には機能という使う目的がある。たとえば、全員同じ人間という種であっても、人にはそれぞれ名前がある。もし名前がなかったら、呼びたい人に気づいてもらうこともない。人込みの中で『人!人!』と呼んでも意味がない。全員が『人』という想定に入ってしまって、誰も気づいてくれない。そこで『ジャン!ここだよ!』と呼ぶと、ジャンという名前の人が気づいて来てくれるだろう。他の人は来ないだろう。これが想定が機能するということだ。ものごとはそうして役割を果たす。だから想定という機能の取り扱い方をわたしたちは学ばなければならない。

想定のきちんとした取り扱い方と、解放の仕方の両方を知っていれば、想定とうまく付き合うことができる。想定には機能があるが、実際に想定はただの想定で、実体はないということだ。そこには人っ子一人いない。ただ自然にコンディションが集まっているだけで、原因となるものが集まってそこに生まれる。どんな原因が集まるかによってさまざまな熟成を遂げ、しばらくの間顕れ、そのうち消えていく。その活動を止めることはできないし、コントロールすることもできない。そういうものなんだ。それは想定が集まってできた仮想だけれども、想定がなければ、それについて何か言うすべもないのだ。名前もなければ、修行もないし、仕事も、言葉もない。仮想の想定や便宜上のものというものは、わたしたちが何かを表現するためにある便利なツールなんだよ。ただそれだけ。

たとえばお金を例にあげてみよう。昔は紙幣というのがなかった。紙はただの紙でそれ以上の価値はなかったわけだ。銀をたくさん持ち歩くのは大変だということで、そこで代わりに紙幣というものが生まれた。もしかしたら将来、紙のお金が嫌いな国王が出てくるかもしれない。そうしたら例えば蝋なんかを溶かして、印をつけてお金だと言うかもしれない。国中で蝋を使ってまわるんだよ、そして蝋の借金ができたりする。蝋はやめて今度はニワトリから液を抽出してお金にしようか!と今度は鶏がらがお金になって、鶏がらのために争ったり、人を殺めたりするんだよ、バカバカしい。

なんでもいいんだ。とにかく合意さえ得れば、想定として成立する。銀から始まったお金だって、はじめのうちはそれが何なのかみな良く知らないというとこから始まったんだよ。そもそも銀とは何なのかって所まで遡って、それって本当に銀か?と疑ってみると、誰にも分らないってことだ。銀を知っている人が、銀とはこういうものだという想定をしただけだ。この世のものごとはすべてそうやって成り立っている。わたしたちが何かを想定することで生まれるんだ。だって想定集まりの中で生きているんだから。だけど仮想をほどいて、想定を解除して、本当に解放されていくということは難しい。

家、お金、所有物、家族、子供、周りの人たち、自分のものだと思っているものすべては、仮想の中にそういう想定があるから存在している。だが実際にダンマの中ではあなたのものなど何ひとつない。みなこれを聞きたがらないけれど、それが真実だ。想定がそのものに付随しなければ、価値は存在しない。反対に無価値という想定をすれば、それに基づいて価値はなくなるということだ。そして価値を想定したらすぐさま、価値は蘇る。そういうものだ。想定という機能の使い方が解っていれば、そういったものも別に悪くはないわけだ。

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