【春秋戦国】復讐に生きた伍子胥の魅力
初めてこの人物を知ったとき、強烈な魅力を感じるとともに、
日本人では考えられないようなメンタリティに、大きな衝撃を受けたことを覚えている。
中国、春秋戦国時代に生きた「伍子胥(ごししょ)」という人物だ。
「伍子胥」は、紀元前500年ごろ、長江流域にあった「呉」の国で頭角をあらわし、「呉」の躍進に大きな貢献をしたことで知られる。
この人物の魅力は、その感情表現、特に「怒り」の表現のすさまじさだ「伍子胥」の人生の前半は、復讐のために生きてその目的を達成した。その人生の終わりも、怒りを込めて死んでいく。
今回は激情の人であった「伍子胥」を紹介する。
1. 名軍師「孫武」とともに、「呉」を躍進させる
さて、今回紹介する「伍子胥」が生きた中国の春秋戦国時代は、
数百年にもわたる戦乱の時代だ。
この長い戦乱では、現在でも高い知名度を誇る英雄が何人も登場する。
兵法書「孫子」を書いた、「孫武」も春秋戦国時代に生きた英雄の1人だ。
この「孫武」と今回紹介する「伍子胥」は、同じ時代・同じ場所で活躍した人物として有名だ。
「孫武」と「伍子胥」は、中国の大河である長江流域に存在した「呉」という国で、王の側近という地位にいた。2人はともに軍事において大きな才能を発揮し、「呉」の躍進に大きな貢献を果たしたことが知られている。
2. 親兄弟殺害への復讐に生きた、「伍子胥」の前半生
「呉」で活躍した「伍子胥」だが、元々は隣国の「楚」という国の名家の生まれであった。しかし、「伍子胥」の父と兄は、「楚」国内におけるお家騒動に巻き込まれ殺害されてしまう。
「伍子胥」自身は「楚」国内を逃亡し、命からがら「呉」へ逃げる。
無事に「呉」に逃げることができた「伍子胥」は、「楚」への復讐を誓い、復讐を果たすために、呉王・闔廬(こうりょ)の信任を獲得していく。
呉王・闔廬の信頼を獲得し、「孫武」と共に闔廬の側近となった「伍子胥」は、本格的に「楚」への侵攻を開始する。
そして、紀元前506年の柏挙の戦いにおいて、「楚」の軍勢を打ち破り、「楚」の都を陥落させた。
この時、父と兄の復讐を果たした「伍子胥」は、「楚」の先王の墓を掘り起こして、遺体に向かって鞭を打ったというエピソードがある。(死屍に鞭打つ)
強烈な復讐エピソードだ。
3. 怒りに生きた男の激しい最後
「楚」への復讐を果たした「伍子胥」は、引き続き「呉」の発展に携わっていく。
しかしながら、最大の理解者であった呉王・闔廬が、戦争の怪我が元で亡くなり、息子の「夫差(ふさ)」が呉王の地位に立つと、「夫差」と「伍子胥」の間で軍事の方針に食い違いが発生する。
「呉」の隣国にあった小国の「越」をめぐって意見が対立したのだ。
「伍子胥」は「越」を脅威と認識し、たびたび新呉王の「夫差」を説得していたが、「夫差」は「伍子胥」の意見を聴き入れない。
複数回にわたる意見対立の結果、「夫差」は「伍子胥」に自決を命令する。
自決の命令を受けた「伍子胥」は、「夫差」に向けて次のような言葉を残しながら自決した。
「伍子胥」の自決後、小国だった「越」は、「呉」を打ち破り、「呉」は滅亡したと伝えられる。
※この辺の話は、「臥薪嘗胆」、「呉越同舟」、「会稽の恥をすすぐ」などの古事成語にも多く残っている
「伍子胥」は感情を武器にした珍しいメンタリティの人物だ。
それが大きな魅力にもなり、大きな欠点にもなったりした。
非常に興味深い人物だ。
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