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【春秋戦国】兵法書「孫子」の編纂者はどっちだ??

疾 (はや) きこと風の如く、徐 (しず) かなること林の如く、侵 (おか) し掠 (かす) めること火の如く、動かざること山の如し

日本の戦国武将、武田信玄が、旗印として「風林火山」として掲げた言葉だ。

日本人としても非常に馴染みのある言葉だが、「風林火山」の由来は、中国の兵法書「孫子(そんし)」に記された言葉でもある。

「孫子」は世界で最も有名な兵法書の一つでもあり、中国や日本のみならず、世界でもその認知度は高い。

そんな、兵法書を代表する「孫子」だが、編纂者について古くから議論が巻き起こってきた。

1.  孫武or孫臏、「孫子」著者はどっちだ?

兵法書の「孫子」を編纂した人物は、今から2000年以上前の中国の人物だ。

では、その編纂者は誰だったのか?
これまで、2人の編纂者の候補が議論されてきた

1人目の候補は「孫武(そんぶ)」。
紀元前2500年ごろの人物で、軍略家として活躍した人物だ。

一方で、2人目の候補は「孫臏(そんぴん)」。
孫武の子孫であり、孫武がいた100年後の紀元前2400年ごろの人物とされる。

2人とも歴史書「史記」などでは、軍略家として優れた人物とされ、戦争などで活躍した人物だ。

2. 兵法者として優秀だった2人

孫武と孫臏、「孫子」編纂の候補2人は、どちらも春秋戦国時代と呼ばれる、戦乱期に生きた人物だ。「春秋戦国時代」は、多くの国が乱立し戦乱が絶えなかった時代とされる。

この戦乱期において、孫武と孫臏は、それぞれが軍略で大活躍する様子が「史記」などに描かれている。


2-1. 「孫武」:「呉」の躍進に貢献

「孫武」は中国南部にあった「呉」という国の軍略家として活躍した。当時の「呉」は富国強兵を推し進め、隣国の「楚」と長期間の戦争状態だった。

「孫武」は同じく傑出した人物だった、「呉」の宰相「伍子胥」と強固な関係を築き、「楚」に決定的な打撃を与えている。

「孫武」は当時としても傑出した軍略家として認識されていた。

※「孫武」や「伍子胥」の話は書きたい話がありすぎるので、本記事ではここまで!後でここの話は書きます〜


2-2. 「孫臏」:ライバル「龐涓」との争いに勝利

「孫臏」は「斉」という国で軍略家として活躍した。若い頃から、その軍略の才能は高く評価されていたとされる。

しかし、その才能を妬む学友の「龐涓(ほうけん)」は、自らが仕官した「魏」という国に招く。

学友である「龐涓」からの招きとあって、「孫臏」が無警戒で「魏」に赴くと、「龐涓」は「孫臏」を捕え、無実の罪を被せて。両足切断の刑を執行させた。

「孫臏」は両足切断により、歩けなくなりながらも、「龐涓」への復讐を決意し、「馬陵の戦い」において、「龐涓」率いる魏軍を「孫臏」率いる斉軍が打ち破った。

この時の「孫臏」は車椅子に乗りながらも、現地で指揮をとり、軍略家としての実力を遺憾無く発揮した。

3. 結局どっちが「孫子」の編纂者?

以上、見てきたように「孫武」、「孫臏」ともに傑出した軍略家とされており、現在まで兵法書「孫子」の編纂者については、様々な議論がなされてきた。

そんな中、1972年の中国山東省で、決定的な資料が発掘された。

紀元前200年ごろの墓から、「孫臏」の記した兵法書が発掘されたのだ。この発掘された兵法書は、解読と整理の結果、「孫子」の兵法書とは異なる「孫臏兵法」ということが分かっている。

記録上、「孫武」と「孫臏」はそれぞれで兵法書を記したことになっていた。この発掘は「孫臏」が記した兵法書が「孫子」とは異なる兵法書であることを示している。

このことから、「孫子」の編纂者は「孫武」が有力となっており、これまで長く論争されていた、「孫子」編纂者論争を集結させることになっている。




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