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能力主義は不平等…だとしたら、どう生きる?

昔ウィル・スミス主演の『幸せのちから』という映画を観ました。

1980年代。妻と5歳の息子と3人で暮らしていたセールスマンのクリス・ガードナーは家賃も払えず、どん底の生活を送っていた。ついには、妻が出て行き、家を追い出され、貯金も底をついてしまう。(中略)愛する息子のため、奇跡を信じてクリスの過酷な戦いの日々が始まった。

https://www.sonypictures.jp/he/771878

実話が元になっているとのことで、その軌跡には、すごいなぁと思ったのですが、同時に、少々うろ覚えではありますが、一番印象に残っているのが、家がなくなってしまった主人公が、息子と一緒に公衆トイレで夜を過ごすしかなく、
子どもはすっかり寝入ってしまっているところを「そこから出ろ」と外からドンドンとドアを叩かれ、でも出ていくわけにもいかず、息子の耳を塞ぎ聞こえないようにしながら耐える…というシーンでした。

希望の映画というよりは、なんだかしんどい思いをしたことを覚えています。それはちょうど私が、しんどい時期だったからかもしれません。がんばってがんばって、上に登っていく。どんなに不遇で辛い思いをしても、耐えて、努力をして、勝ち取っていく。そのメッセージがきつかったことを覚えています。

その映画を観てから十数年くらいは経っているのではないかと思うのですが、人生の折返し地点をすぎるくらいは生きてきたかな、という現時点では人生に対して「頑張ればなんとかなるって、やっぱり無理じゃない?」という感想を抱いています。

ささやかながらに、いろいろと経験してみて、うまくいくことは、たまたま誰かに紹介してもらって、運良く出会って、引き合わせてもらって…ということが関係していたりしますし、だからといって、過去の自分に、何も頑張ってないじゃないか、とは言えないし、うまくいかなかったことは、別に何のせいでもないなぁと思うのです。

ある芸人さんが、冗談半分でモデルさんに対して、生まれつきのいい顔で、細身の体型に産んでもらっただけでそれで自慢するんじゃねぇ…みたいなことを言っていました。

もちろん生まれつきの部分だけではなく、これは別のモデルさんの話ですが、体型を維持するために、ラーメンは年に2回だけ、運動もストイックに…などと努力をしていらっしゃる方もいます。

その努力を笑うわけではなく、努力は、持って生まれたもののベースの上に成り立っていること、それを忘れて努力をしているからって、自分は他人より綺麗だと天狗になったり、他人をあざ笑ったり、こけおろしたりするのは違うよね、
というメッセージであると感じました。(芸人さんなので、そんな深いことにされたくないかもしれませんが。笑)

前回、非認知能力の話をしました。

やり抜く力、自分の力を信じられる力、自制心、忍耐力、創造する力…といった非認知能力が、認知能力、つまり学力に影響を与えます。非認知能力は幼少期に、どんな環境だったかによって決まってきます。現状では、それはたいてい、親がどんな価値観を持っていて、親がそういう環境を与えられるかどうかにかかっていると言っても過言ではないでしょう。(本当は親だけに負担が行くのもまた違うと思うのですが)

貧困の連鎖の正体のひとつに「社会的相続」というのがあります。

出所:『子どもの貧困対策プロジェクト報告資料』

社会的相続とは、明確に定義されていないが、「『自立する力』の伝達行為」と理解していただくのが良いと思う。ポンペウ・ファブラ大学政治社会学部教授のエスピン=アンデルセンは、「社会的相続は、所得と同等かそれ以上に重要である」と指摘している。
(中略)親は子に対し、将来必要な自立する力を様々な形をともなって伝えていく。子どもにかけるお金、子どもにかける時間、親の周囲との関係、親の生活習慣、親の価値観などだ。もちろん、社会的相続の担い手は親だけではなく、親族や近所の大人、学校の先生や施設職員などの場合もある。子どもはこれらを通じて、自立に必要な力を適正に、または歪んだ形で引き継ぐ。この社会的相続は、家庭の経済状況等によって差が生じると、我々は考えている。

『子供の貧困が日本を滅ぼす』(131ページ)

「懸命に努力する者は誰もが出世できる」というのは、希望と事実が混同されていると『実力も運のうち』の中で著者サンデルさんは言います。

確かに、能力がある人が評価されるべきだ、というのはイエスだと思います。でも、評価されているのは能力があるからだ、というのは100%イエスだとは、私は言い切れません。

たまたま持って生まれた環境や才能に、私たちは劣等感や優越感を抱くべきなのでしょうか?

確かに、能力主義においては、劣等感や優越感を抱いてしまう、ということはあると思います。でも、そもそも、その能力主義という価値基準自体がもし間違っているのだとしたら…?

マイケル・サンデルさんはこうも書いています。

才能を持っていること(あるいは持っていないこと)は
本当にわれわれ自身の手柄(あるいは落ち度)だろうか?
(中略)
自分の才能のおかげで成功を収める人々が、同じように努力していながら、
市場がたまたま高く評価してくれる才能に恵まれていない人びとよりも
多くの報酬を受けるに値するのはなぜだろう?

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』40ページ

どう思われますか?

(文責:森本)

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