見出し画像

「良きこと」と「悪しきこと」という分離が無い:『すべては導かれている』

「すべては導かれている」

そうは言われても、素直にそうは思えない場面はいくらでも思いつきます。

例えば、何かしらで思い詰めている人に軽々しく「すべては導かれているんだよ」なんては言えません。
その人にとっての苦しさがあるでしょうから。

他人の人生に口出しをするわけではなく、自分の人生を生きるとき、私には以下のメッセージが心に響きました。

「すべては導かれている」という思想には、
そもそも、「良きこと」と「悪しきこと」という分離が無いのです。
(中略)
しかし、我々は、通常の意識の中では、
人生というものを、
「幸運と不運」「幸福と不幸」
「安楽と苦労」「順調と困難」
「成功と失敗」「勝利と敗北」
(中略)
という形で、「良きこと」と「悪しきこと」という二つに分け、
自分の人生において「良きこと」のみが起こることを願い、
「悪しきこと」が起こらないよう願い続けます。

しかし、こうした「良きこと」と「悪しきこと」を分離し、対立的に捉える「分離・対立の思想」を抱く限り、
我々の人生における、
怒りや憎しみ、悲しみや嘆き、後悔や自責、不安や恐怖は、
決して無くならないのです。

『すべては導かれている』

「悪しきこと」と思える出来事も、実は「良きこと」なんだよ〜ということも書かれてあるのですが、それよりも、

「悪しきこと」もなければ、「良きこと」すらないんだ、という部分がしっくり来るのです。

え?どういうこと・・・?

著者の田坂氏は三十数年前、それほど長くは生きられないという診断をされ、医者にも手立てがない状況で、

ある禅師の言葉を受けて「いまを生きる」という覚悟を定めたとき一つの思いが心に浮かんだそうです。

我々の人生においては、
不運も不幸も無い。
罪も罰も無い。
一つとして悪しきことはない。

すべては導かれている。

『すべては導かれている』

勝手に解釈をしてしまうならば、「良きこと」「悪しきこと」といちいちジャッジを下すよりも、

すべてを「良きこと」としてまるっと受け止めて生ききってみようじゃないか、という覚悟が決まった瞬間なのだろうな、と感じます。

命が僅かしかないと思っていた状況で、病気を知り、あのときあぁしていればと後悔したり、これからどうなるんだろうと不安でいっぱいな中で、

こんなことが起こった、あぁこれは悪いことだ。不運なことだ。

こんなことができなかった、あぁこれは失敗だ、悪いことだ。

なんてことをしている暇はないんじゃないかと、ジャッジすることを諦めたのではないでしょうか。

ただ、やっぱり思います。

とても自分では抱えきれない悲しみが襲っているのであれば、なぜこんな運命にしたのだ、と、天を呪ってもいいと思います。

確か、マザー・テレサも、神に向かって、なぜ、弱きものを救ってくれなんだ!と文句を言っていた瞬間がある、と聞いたことがあります。

そんな時を過ごして、考えを改めてもいいかもしれない、という気持ちが生まれたときに、この世は「良きこと」も「悪しきこと」もないものだとしたら…と思考実験を試してみればいいのだと思います。

私はこの本を読んで、こんなことを感じましたが、別に同じ感想を持つ必要はありません。

本をご紹介したかっただけで、対話会もこの話を軸に進めるわけではありません。

「私は、こんなことを感じた、こんなふうに思った」
「私にはここがピンときた」

本を読まなくても、田坂氏の言葉、単語ひとつでも十分です。

それぞれのポイントを教えていただいて、
それぞれに解釈が広がって、それぞれが生きやすくなったらいいな、と思うのです。

「良きこと」も「悪しきこと」もないならば、正解も不正解もないでしょう。

そして成功も失敗もないならば、「こうすべき」「これはしてはならない」もないでしょう。

「良きこと」と「悪しきこと」を分離し、対立的に捉える「分離・対立の思想」から解き放たれたとき、

私たちに、何が起こるのでしょう・・・?

(※以前開催した「答えのない対話会」に関する「メールde対話」を転載しています。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?