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俺にも自己紹介させてくれよ

お疲れ様です。
でゅーぐんです。

何を投稿するか考えていましたが
兎にも角にも自己紹介をしなければいけない衝動に今、駆られています。こんなに駆られる事も滅多にないのでここぞとばかりに駆らせてください。

ちなみにタイトルが螺旋のCHICO CARLITOさんみたいになってしまい申し訳ございません。チコさん大好きです。

チコカリートさん(左から2番目)
正しくは俺にも「マイク渡してくれよ」です


まず名前の由来ですが周りから質問された時は本名を君付けで呼ばれていたものが訛ってこうなりました。とだけ答えています。多くは語れません。誠に遺憾ですね。

年齢は現在パッツパツの25歳です。
和暦だと平成10年
西暦だと1998年
タイの太陽暦だと พ.ศ. 2541 です。

新入社員の時に「橋本環奈と同い年です!」
と声高らかに宣言したら普段温厚な会社の役員の
眉間に数え切れないほどのシワが集合してきてた
のでもう二度と言いません。
最近は変わりの同級生として那須川天心と言うようにしています。ありがとう天心(敬称略)

出身は青森県の津軽地方でめちゃくちゃ訛ってる土地で生まれてしまいました。私は憎しみと愛情を込めて母国をGhettoまたはスラム街と呼んでいます。
またはアメリカのニューヨークと逆で
「常に眠っている町」とも言えます。

んでもって8歳から18歳まで柔道をしていました。
得意技は足技全般と内股と被害妄想です。
特に足技で相手のバランスを崩してからの被害妄想には定評がありました。後半は今も得意です。

寝技がとにかく苦手だったので皆さんが想像する
所謂「カリフラワー耳」もしくは「餃子耳」と
言われるもうな耳にはなりませんでした。
今思うと耳が綺麗なのはサボった証なのかもしれない。本質的には便器の汚れと柔道耳は日頃の努力がそのまま浮き彫りになるものなのか。。

ちなみに餃子は酢とコショウでいただくのが1番好きです。

これが俗に言う餃子耳です。(拾い画)
餃子と言われる中で一番美味しくなさそうですね


保育園から小学校を卒業するまでの間は普通のガキンチョだったのですが中学生時代から急にありもしない噂話を立てられたりギリ聞こえるくらいの陰口を叩かれたりしていましたが、柔道やっててガタイが良かったせいか物理的に叩かれる事はありませんでした。

というかガタイと妙に落ち着いたその佇まいから初見の後輩には先生だと思われることもしばしば。本物の先生達からもたまに間違われてましたコンチキショー絶対許さねぇからな!!!!オイ!!!!!

すみません
珍しく「思い出し取り乱し」をしてしまいました。
語呂が最悪です。二度としません。

そこで闇落ちしたでゅーぐん少年は
あの手この手を駆使して当時の成績じゃギリ入学できないと言われていた地元の高校に奇跡的に入学します。(プライバシー保護のために学校名は伏せます)

ここで人生の8割の運を使い果たしました。
もう2割はガリガリ君の当たりと一番くじの1等を同じ日に引き当てた小4の頃に使いました。もう終わりです。まさかteenで運が尽きると思いませんでした

高校入学で何か変わった訳ではありませんが
自転車+電車+自転車というハードな登校ルートを毎日辿り、相変わらず柔道を続けながら平凡に生きていました

しかし高1の夏、高校総体(俗にいうインターハイ予選)で事件は起きました…。

試合中に暴力団員みたいな顔面をした130kgは超えるような体格の3年生に変に投げられ、右膝の前十字靭帯をこれでもかと言うほど断裂しました。当時の感覚で言うと痛みよりも脚が取れた感じがしました。たぶん畳の上で「メガネメガネ…」みたいな手の動きで脚を探していたかもしれません。
あと多分ですがあの先輩は今本当に暴力団員かもしれません。顔面的に。

で、後日手術を決意します。
で、リハビリ生活が続きます。
で、部活に顔出しても柔道そのものが出来ないので皆より早く帰るため暇になります。

そこで出会ったのがお菓子作りです。
元々料理…というか自炊…というか飢えを凌ぐ人間の本能的な部分…(料理スキル)を鍛えていたので
そこから派生してお菓子を作り始めました

最初はクッキーとかパウンドケーキとか
基本的なものから作りました。
なんでもそうですが基本からコツコツ学ばないと私なんかは特に調子に乗るので怖いです。とにかく怖いです。そういう意味ではもしかしたら私も暴力団員なのかもしれません。

ですがここで1つ驚きの個性を発動します

「「自分で作ったお菓子を食べる気がない」」

これですよ。
陶芸家が普段自分が使うのは百均の皿で充分だと言ってるようなものです。

この個性には流石のオールマイトも「君はヒーローになれない」と断言するレベルです。ちなみに好きなヒロアカのキャラは障子目蔵とマンダレイです

障子目蔵
見た目も中身も声もかっこいい。
マンダレイ
31歳というリアルな年齢が逆に好き


なのでお菓子を作ってはクラスの野郎共にエサと称し提供してました。あとはお世話になってる先生方に賄賂として糖分の塊を押し付けておりました。反省はしていません。

その賄賂の効果もあってか
就活の時期に学校の推薦枠にこの体格では考えられないほどの勢いで滑り込み、何とか社会人としての1歩を踏み出しました。ちなみに高校の卒業式では冗談抜きで誰よりも早く帰りました。東野幸治くらい帰宅スピードが早かったです。あと東野幸治くらい涙を流さず終えました。あの日ばかりは実質私は東野幸治だったのかもしれませんね(怖)

入った会社が宮城県は仙台市に本社に構えてたので
3ヶ月間を研修期間として過ごしました
同期にも恵まれ意外と楽しい時間を過ごせました。

最初の配属先であった秋田県の鹿角市という青森なのか秋田なのか岩手なのか分からないこの世の僻地みたいな所に飛ばされて不安でいっぱいでしたが私の地元…もといGhettoより全然マシでした。コンビニあるし。

大雪に埋もれ、現場で熊さんに仲間と間違えられ、
急遽の夜勤明けで寝てたらカラスに叩き起され…
終いには真冬の地元のイベントで半袖短パンになり雪上バレーに勤しんだり
サングラスをかけて運転してたら地元の子供たちにカンナムスタイルの人と勘違いされたり

色々ありました。
本当に色々あったのでそのうち
別の記事にもできればなと思ってます。

鹿角市の場所。本当に秋田なのか謎。

結局鹿角市には19歳〜22歳前半
という一番遊び盛りな時期を悶々としただけで
終えてしまったのですが

次の異動先はまさかの仙台市でした
どんなご褒美だよツンデレだなぁウチの役員は(ニチャア)
と最初はめちゃくちゃテンションが上がってました

ですが
一番田舎から一番都会に異動となってしまった
ので心の準備が微妙に出来てないまま引越し。
慣れない標準語をもう一度短期間で学び直すという暴挙も必要なほどでした。まぁ、そんなこんなで今も仙台に住んでおります。

遊べなかった分、これから取り返すぞオラァ!!!

と思った矢先に辛いことがたくさん重なり
今はメンヘラになってしまいました。
地雷系というには異常なまでにデカすぎるので実質歩行可能な核弾頭ミサイルです。爆発したら辺り一面が糖質まみれになりますので離れてください



とまぁ訳の分からない文章で3,000文字をゆうに超えてしまいましたがこういう人間です。なんかすみません気づいたら髪の毛も伸びに伸びてしまいモアナの横にいるやつみたいになってます。頑張って菜々緒くらい伸ばします。

モアナの横にいるやつ。
名をマウイというらしい


こういう感じの文章と適当に作った料理やお菓子を載せてるインスタグラムはコレ↓です。


あとは自己嫌悪を治したい
もっと言うとナルシストになりたい
もっと×2 言うと動画編集スキルを磨きたい
という微弱ながらもしなやかな感情を爆発させて
YouTubeも初めてみました。

メンタルが上を向いた時にしか撮影しないので
年に4回くらいを目標にしてます。
頻度だけで言えば四季と変わりませんので
私の織り成す色の無い世界をご堪能ください。


これが私のYouTubeチャンネルです。



以上です。あざした(*ᵕ ᵕ)"



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