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英語が人生の一部になった経緯

英語は私の中で大きな部分を占めています。私をよく知っている人に私という人間を形容してもらうと、必ず「英語ができる人」というのが含まれているはずです。それで仕事をしているのだから当たり前かもしれないけれど、ここまで来るのは長かったです。私が英語でご飯を食べられる人になった泣き笑いの経緯をお話しします。

子供時代、外国へのあこがれ

小さい頃から外国へのあこがれが強く、英語が話せるとかっこいいな……と思っていました。マイケル・ジャクソンやマドンナの歌なんかを聞こえるがままカタカナで書きとり、それをなりきり熱唱するような子供でした。

英語学習を始めたのは小5の時。近所の「悪魔のような英語塾」で、魔王のように怖い先生から、英文法や英作、読解力、発音などを叩き込まれました。ちょっと普通じゃない塾で、思い出すだけで腹痛がよみがえるのですが、あの英語塾が今の私のルーツだと思っています。

おかげで中学高校を通して英語の成績だけはずっとよかったのですが、それでもしゃべれはしない。かっこよく英会話ができるようになりたいと一念発起、高校卒業後にアメリカの大学に進学することを思い立ったわけです。

当時、東京の某英語に強い系大学を志望していたのですが、「東京で下宿するのもアメリカで寮生活するのも、お金的にかわらんのでは?それならアメリカ行ったほうが絶対英語話せるようになるし、渡航費はバイトして自力でなんとかすればいい……」という、安易な一念発起を自分の中で展開。こんな勝手な思いつきを、よく親が許してくれたと思います。

留学を決心したこと、父の言葉

親が留学を許してくれたと前述しましたが、父からは最初は反対されました。突然アメリカと言い出したのですから、父も驚いたと思います。
「なぜ、留学したいの?」と聞かれ、「英語が話せるようになりたいから。日本の大学の英文科とかに行っても話せるようになる気がしない」と正直に答えました。
「大学というのは、学問を追究しに行くところだよ。だから、英語を話せるようになりたいという理由では大学に留学なんて許可できない。何か学問を修めて帰ってくるというならわかるけどね」と諭されました。

この父の言葉が私の意識を変え、大きく成長する道すじをつけてくれたのだと思います。「わかりました。私は社会学を学んできます」そう言い切って、渡米することになったわけです。

留学に備え、ノンストップで走り始める

しかし、留学の準備は色々煩雑で大変でした。留学visaの手続きや入学手続きとかは、必死すぎて今はもうどうやったのかも思い出せないです。なんとかなったってことですね。

大学選びは大切と、父が元ピッツバーグ大学教授であった友人に相談してくれました。いくつかピックアップしていたのですが、その中から「ここはいい大学だよ」と勧められた小さな私立大学をそのまま選びました。

しかし、問題は入学のハードル。つまり「いい大学」だったため、判定テストの基準点がべらぼうに高かった。90%要求され、私は70%しか取れず、3回受験して、次は78%そして3回目で82%という結果でした。タイムリミットも近づき、これ以上はもう無理かな?と半ば諦めかけていたところ、奇跡が起きました。3回の結果を総合的に見て判断したとのことで入学を許可されたのです。まあ、奇跡じゃなく努力が認められたと思ってもいいかな。ある意味、この子はがんばったらこの調子で伸びるやろう……という「将来性」を買ってもらったようなものでしょうね。ありがたかったです。

そこから、私の勉強はフルスロットル。単語などの勉強に加え、毎日少なくとも一つ、歌でもポエムでも自作のエッセイでも、ノートの右と左のページに英語と日本語の双方向翻訳を自分に課しました。そのノート5冊ほどあるのですが、今見返すと笑える英語力でした。

そして、英会話スクールでは、毎回私が「Today、I wanna talk about ---」とグループレッスンを私物化。だって必死だったんですもの。でも先生も、私のような「仕切り屋」がいて、楽チンだったと思います。

アメリカ留学時代、勉強、勉強、勉強、勉強

そんなこんなで無事希望の大学に入学。留学先は日本人が同級に1人だけ、町にもアジア人すらほとんどいなかったので、英語習得の面ではよい環境でした。

しかし現実は厳しかったです。初日から英語が全くわからず、何が起こっているのか、何をすべきなのか、何もわからず、不安でただただベッドにもぐり「やってもたー」と、しばらくは毎晩しくしく泣いていたことを覚えています。

それでもアメリカ人は、最高にフレンドリー。「あのいつも半泣きのちっこい日本人を何とかせねばクラブ」みたいなのが自然発生し、私は本当に彼女らに救われました。困っていると「Are you OK?」と声をかけてくれ、ふさいでいると「Let's go out!」と外出に誘ってくれ、眉間にしわを寄せてレポートを書いていると皆で順番に査読してくれました。私をなんとかせねばクラブの初代メンバーだった彼女ら、今も交流のある大切な友人たちです。

大学では文化人類学(社会学の親戚)とアートを重複専攻で学びました。読み書き系学問である文化人類学を専攻すると、付随してくる必修が心理学だったり経済学だったり、やたら難しい。分厚い本(もちろん英語)をいっぱい読まされ、レポート(もちろん英語)もいっぱい書かされます。主専攻なので下手な成績を取るわけにはいかないし、トイレ、シャワー、わずかな睡眠…以外は勉強にあて、それはもう必死で勉強しました。朝ご飯は絶対に本を読みながら……という状況でした。これはもう、脳みそから血が出て死ぬんじゃないか?…と本気で思いました。

ということで、正規留学は、ある意味「M」でないと無理かもしれないと思っている次第です。

アートとの出会い、それは不純な理由

実はずっとアートが大好きでした。母が美術館でパートしていたおかげで、子供の頃からいろんな展覧会を裏口見学(もう時効)。本物の世界の名作を見てきた回数は、たぶん一般的な子供より格段に多かったと思います。だからこそ、勉強してアーティストを目指そうとは思いませんでした。だって、ミケランジェロやフェルメール、モネ、ルノワール……神です。そんな神の所業を見てきたのですよ。ものすごすぎて人間技とは思えず、子供心にでも自分が足を踏み入れられる世界ではない、そう思っていたのです。

で、留学先でもアートを勉強しようなどとは全く思っていませんでした。しかし英語がわからない状況では、「単位落としたらどーしよー」っていう恐怖が襲ってきます。単位を落とす→留年→莫大な追加費用発生。それだけは回避せねばならず、「本読まんでええ・レポート書かんでええ科目」で必修外の単位を取る作戦を考えました。それは、実習アート!

そして「スカルプチャ」(それは何?と思いながらも実習アートで履修枠が空いてるのがそれしかなかった)を選択したのがきっかけで、それ以来どっぷりアートにはまってしまったわけです。

ちなみに「スカルプチャ」は「彫刻」とのち判明。ウソでしょ?って最初は引きましたが、結局相当にエンジョイしました。(たまたま展覧会に出品した作品が売れてしまい、調子に乗りました・笑)

泣き笑いのキャンパスライフのエピソードは追々紹介していきますが、とにかく「作戦」の効果もあり、単位を一つも落とすことなく4年で無事卒業(アートのおかげもあって成績優秀Cum Laude♪)し帰国しました。

別人のごとく太って……。

留学後のキャリア、挫折、そして自分が出来上がる

帰国後、ダイエットに励みつつ、念願のグラフィックデザイナーとして就職しました。留学中にすっかりアートの世界に魅了され、アート系の仕事をしたいと強く思うようになっていたからです。しかし、大変なことが起こってしまい、わずか1年で私は泣く泣くデザイン事務所を退社することになってしまいました。父が脳卒中で倒れてしまったのです。

父が後押ししてくれたことで、私は大きな一歩を踏み出したのです。そのことに対する感謝の念が強くあり、また反面、私が留学したことで父に負担をかけたのではないかな…と思う部分もあり、その時は、自分が一番に優先すべきことは父を介護すること、そう思ったのです。その気になればアートの世界へはいつでも戻れる!そう切り替えることにしました。

幸い英語力のおかげで大手英会話スクールの講師の仕事につき、介護と両立できる状況を作れました。「英会話を教える」ということは、本来自分が目指していたキャリアとは違いましたが、この経験がたいへん大きな財産となりました。当時から不自由なく英語を話し、つまり英会話はできていたのですが、自己流でなんとひどい英語を話しているのかということに気づかされました。教える立場がこれじゃいかんと思い、基礎から発音を勉強し直すことを決意しました。自力でフォニックスを学習し、怒涛の「矯正」を行った結果、「発音が自然。ネイティブかと思った」とアメリカ人に言ってもらえるまでになりました。(お世辞かもしれないけど・笑)

その後、芸術系専門学校の留学コースの講師の仕事が舞い込みました。アートと英語がつながった瞬間でした。並行して、日本に赴任する外国人の通訳など英語関連の仕事(翻訳・通訳・講師など)にずっと携わり、現在に至る……という私です。

今の私

今思えば、怖い英語塾に出会ったこと、留学を親が許してくれたこと、そして、アメリカでいい友人に恵まれたこと、図らずも英会話講師になったこと、みんな英語を軸に廻ってきたことだなと思います。

そして、英語と美術が両方できる講師として採用されたこと、ジャズオタクだったことから音楽系の通訳の仕事に携われたこと、コロナで世界中が大変な今でも英語関連の仕事があること、世界中の人とコミュニケーションをとる仕事が続けていられること、全て英語ができるからこそ広がった世界です。

英語ができるようになると本当に世界は広がります。


自分の経験から、英語学習のその先にある可能性を紹介し、広がる夢を分かちあえるといいなと心から思っています。

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自己紹介

英語を習得したい、上手くなりたいというのは多くの人の普遍的な希望ですよね。こうすればいいよと言葉で表現することのむつかしさをかみしめています。楽しくて自然に英語が身に付いていくような、そんなコンテンツの発信を目指しています。