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メインキャストの演技、脇役の演技。

メインキャストに求められる芝居とは。

ボクの演技ワークショップではよく「役同士のコミュニケーション」を演じてもらうんですが、そんなとき参加の俳優さんが「でも現場ではもっとキャラっぽい演技が求められますよ!」とか言い出すことがあります。 もしくは「でも現場ではもっと分かりやすい大きな演技が求められますよ!」と。

そんな時ボクは一瞬言葉に詰まってしまうのです。そう!その他大勢の役の俳優たちには「キャラっぽい大袈裟な芝居」が求められることが多い。

マジメな役はマジメそうな動作でマジメそうにセリフをしゃべり、内気な役は内気な動作で内気そうにセリフをしゃべり、豪快キャラは豪快そうな動作で豪快そうにセリフをしゃべる。お爺さんはお爺さんぽく。警官は警官っぽく。チンピラはチンピラっぽく。オタクキャラはオタクっぽく。

再現ドラマや企業VP、TVドラマや映画でも「そのシーンの背景的に存在する脇役たち」がキャラっぽく大げさな演技をしているのをよく見ますよね。

でも、それはあくまで脇役の俳優の話で、

メインキャストの俳優たちに求められているのはやはり「人物同士が交流して心を動かしあう芝居」なのです。

だから、その俳優さんが「脇役系の役をもっと上手く演じれるようになりたい」のか、それとも「メインキャスト系の俳優になりたい」のかによってどういう芝居を稽古するべきかが変わってくるのです・・・で、それはその俳優さんの「人生の選択」の問題なので、ボクが口を出すことではないと思ってて・・・。

だからそんな時は「いやいや、メインキャストの俳優にはコミュニケーションで心が動くような芝居が求められてますよー。」とだけサラッと伝えるようにしています。だから観客を泣かせたりできるんですよと。

脇役用の台本がやりたいです。

こんな時、ボクは必ずある人のことを思い出します。ボクがまだ俳優を始めたばかりの頃に所属してた事務所の先輩、トッチーさんです。
トッチーさんはハーヴェイ・カイテル似の俳優で、天然系の愛されキャラだったんですが、そんな彼がとある夜、事務所主催の演技ワークショップのダメ出しの最中に、講師の映画監督にこんなことを言ったのです。

「監督、もっと脇役用の台本がやりたいです。」

稽古場が凍り付きました。

そう、その夜も邦画の脚本を演じてたんですよ。たしか浅野忠信主演の映画かなんかの台本を。それに対してトッチーさんは浅野忠信が演じるような役を我々が練習をしたところで意味ないんじゃないか?と問題提起したのでした。

それに監督が「え~~~???・・・でもトッチーさんはさあ・・・。うーん・・・わかった。考えとくよ」と返してWSは終わったのですが・・・いま思い出しても身体が緊張します(笑)。

で、だいたいWS後の飲み会はもつ鍋屋だったんですが、その夜はそこはかとなく重苦しいムードが漂ってましたw。 まだ下っ端だったボクがトッチーさんのモノマネで「脇役用のもつ鍋が食べたいです!」っておどけたりして、みんなで笑って、楽しい宴会ではあったのですが・・・やはりあの稽古場にいた全員、トッチーさんの言葉に何か感じるものがあったんだと思うんですよね。

監督もへべれけになるくらい酔っぱらって、「いやいや、俺も含めてだけど、みんな貧乏してまで好きなことやってるんだからさ、おもいっきり楽しもうよ。主役になろうよ!」って、みんなで朝まで盛り上がりました。

成功体験を忘れる。

ひとは成功体験をすると、これを繰り返したい!と思います。
なので強引にその成功を再現しようとして失敗したりすること、ありますよね。そう、人は過去の成功体験に縛られて生きているのです。

脇役の道を究めるのか、メインキャストを目指すのか、そのどっちなのかによって日々チャレンジすべき内容もぜんぜん違ってきます。
でも実際には、脇役の道を進みながらメインキャストへの道も狙いたい!という俳優さんがほとんどだと思います。 であるならば、そのチャンスが巡ってくる日のために、相手役の心を動かし、観客の心を動かすようなメインキャストの芝居にチャレンジすべきでしょう。

端役での成功体験をずっと引きずっていたら、端役の道をひた走ることになります。 その際「成功体験を忘れること」こそが、きっと新しい道への第一歩になるのです。

小林でび <でびノート☆彡>


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