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ホッカイロレンを大いに褒める

はじめに

これから仮面のユーチューバー、ホッカイロレンを大いに褒めようと思う。が、なぜそんなに褒めるのか、理由を説明するのはいささか遠回りになりそうだ。まずは競馬と新聞の関係について述べたい。

ここでテーマにしたいのはホッカイロレンという個人ではなく、もっと大局的に書く文化と話す文化の違いである。いま書く文化から話す文化への大移行が起こっている。そこに YouTube の特性を活かした新しい視聴覚文化が生まれつつある。その可能性について述べたい。

いかにして私は札幌エルムSの馬券をゲットしたか

テレビに見るものが全くない。最近はサブスク動画か、YouTube しか見なくなった。とりわけ競馬予想では YouTube が必須だ。

紙媒体としては「競馬エイト」を使う。いろいろ書き込むのに便利だからだ。とはいえ以前ほど仔細に読まない。とりわけメインを買うときはもっぱら YouTube 予想を参考にする。見るチャンネルは幾つか固定している。ていねいに見ているとキリがないので、1・5倍ほどでザッと流し見する。新聞をあまり読まなくなった理由は、まるで参考にならないからだ。

たとえば先々週の札幌エルムSである。1番人気が富田の逃げ馬ペプチドナイルだった。いまだ重賞勝ちがない3流騎手である。その真横の枠に、やはり逃げ馬で斎藤新騎乗のワールドタキオンが入った。こっちは4番人気。アラタは傲慢不遜な態度が関係者から嫌われ、騎乗数が減っている。

たいして富田は気が弱い。「邪魔や!お前は何がやりたいんや!」と岩田(父)にイジメ抜かれた。岩田はその責めを負わされ、干された。身から出た錆とはいえ、そもそも富田の騎乗ぶりに問題があったのは明らかだと思う。

以上の人的錯綜を念頭に置いて、斎藤が無理にでも先手を奪い、富田のペプチドナイルを潰しにかかると予想した。その通りになって自分でも驚いた。富田は逃げられず、ずるずる後退してブービー。強気の斎藤は最後に6番人気の武豊セキフウに差し切られるも2着確保。3着が10番人気のロッシュローブで、両馬のワイドをすんなりゲット。

エルムS後のインタビューを読んだが、1番人気を裏切った富田は泣き言を並べ、頑張ったが逃げられなかったと平身低頭。こんな気の弱いやつは騎手に向いてない。そんなことは記者も皆んな解っている。でも記事にする場合は、富田にいまだ重賞勝ちがなく1番人気では信頼が置きにくい、と匂わせることぐらいしかできない。

競馬新聞には肝心の情報が載ってない。あからさまに騎手の資質や厩舎や馬主情報を書くのはタブーになっている。相手側の怒りを買って取材ができなくなる危険があるからだ。実際、日刊ゲンダイは矢作厩舎の怒りを買い、長く出禁にされている。武豊も気に入らぬ記事を書いた新聞の取材を拒否した時期があった。

なるほど騎手の騎乗ミスや厩舎の調教の失敗を責めていたらキリがない。馬が相手なので、うまく行かなくても何が悪かったのか真相がはっきりしない場合が多い。グレーゾーンの幅がひどく大きい。

富田にしても、今回だけは本気で来るかもしれない。初めての重賞をモノするかもしれない。だから、知っていても書かない。せいぜい「匂わす」だけだ。長年新聞を読んでいると記者の匂わせに気づくが、相当な読解力が必要とされる。純文学かよ!

というか、日本の言論状況において、まさに文学こそがこうした隠蔽と韜晦の役割を進んで果たしてきたのではないか?という疑念が多々ある。三島由紀夫はそれに苛立ち、最後に自ら真剣を手にした。

【2023/08/21 付記】
この記事を公開した週末の札幌7R。ガイジン騎手が1人も乗っていない怪しげなレースなんで買い控えた。すると、ここでオレにバカにされた富田が発奮したのか、トチ狂ったのか、14番人気で勝利(単勝10460円)。2着が最低の16番人気、3着が9番人気で、3連単が1千7百73万円。これは日本競馬史上10位の高配当とか。札幌競馬場では馬連、馬単、3連複、3連単ともに至上最高額。

一寸の虫にも五分の魂……騎手・富田、日本競馬に爪跡を残した。つづく9Rでも、1番人気の逃げ馬にがっちり番手を取らせ、危なげなく2着確保。どうやらワイの愛ある叱咤激励が効いたようだ。が、いい加減にさらせ!そんな途方もないことをお前に求めてるんじゃない。1千万円馬券なぞ誰も取れないだろー!(てか数人いたらしい)

日本の新聞には本当のことが書いてない

こうした事情は競馬に限った話ではない。大新聞の政治記者にしても、やってることはほとんど同じだ。政治家の懐に入り込み、取材する。永田町の風聞や伝聞を記事にする。政治家の不興を買わぬ程度に「スクープ」をモノにできれば大手柄とされ、出世の道が開ける。いかに巧みに匂わすか。それが優れた政治記者の資質とされる。

日本の新聞には本当のことが書いてない。あるいは書けない。これは構造的な問題だ。

新聞が《表》の情報とすれば、ネットや YouTube は《裏》情報の宝庫である。表の情報には一点の誤謬も許されない。ゆえに推測や仮定では書けない。尤もらしいことしか書くことができない。しかるに未来はあくまで不確定である。不確実な未来予想には奔放な想像力を必要とする。現状で自由な予想が許されているのはネットや YouTube だけである。

新聞の表の情報を読んでいるだけでは富田や斎藤がどんな騎手なのか解らない。走るのは馬かもしれないが、走らせるのは人間だ。馬優先主義では馬券など取れないのである。

さて言いたかったのは、ワイがいかに優れた券師かという話ではない。そんな当たり前のことは書くまでもない。

ここで取り上げたい問題とは、現代のメディア環境において、いかに表の情報が統制されているか、逆に ネットや YouTube がいかにそれを補完するに至っているか、という倒錯した構図についてだ。これは競馬に限った話では全くない。上で見たように政治記事にも共通する現代日本文化の病弊だ。

以下では映画批評の置かれた状況について見てみたい。

職業としての映画評論家

「スターウォーズ」のスピンオフ作品「マンダロリアン」に痛く感銘を受け、他にも同様の外伝モノを見ているうち、気になってスターウォーズ評を YouTube で見始めた。すると宇多丸の過去のラジオ番組がよく出てくるようになった。20分から30分ほどだ。高橋ヨシキや町山智弘との絡みも多い。

かれらの異常なまでの博覧強記に驚かされるが、正直尺が長い。エンタメ映画で面白い作品がそうそうあるわけはない。いきおい批判しがちになるのは当然だ。暗い映画館に2時間缶詰めになって、下らない映画を見せられるのは拷問に等しい。誰でも鬱憤を吐き散らしたくなる。

が、評論家というお仕事を続けて行く上では、あまり一方的に嘲罵するのは差し障りがある。言いがかりも大概にしろ!と映画制作者やスポンサーサイドからドヤされそうだ。ここらの事情は競馬記者とまったく同じだ。

そこで、なぜこの映画がダメなのか説得的に語るため、シラミ潰しに問題点を挙げてゆく。批評する前に、つまらなくても同じ映画を何度も見るらしい。そのうえで正確で首尾一貫した批判を組み立てようとする。情報過多で、いかにもくどい。そんな職業人としての四方への気配りは、単なる一般視聴者としての我々とはまったく関係ない。これではアリバイとしての批評にすぎない。

高橋ヨシキに至っては、もはや「スターウォーズ学」である。ほとんど銀河神学の境地に達している。どこでどういうキャラが出ているか、などというレベルにとどまらず、スターシップの型からエイリアンの形から、それらがどの作品で登場し、どこで再登場しているか、どう手が加えられているか、それはなぜかという分析に至るまで、まさにオタクの極致だ。1時間半そんな細部の話をしつづける。物語の分析は専門外なので、ほとんどやらない。いっそディズニーの技術部門に就職しろ!と言いたくなる。

ホッカイロレンとは誰か?

そんなときホッカイロレンのチャンネルに嵌ってしまった。強烈な中毒性があって、この2日ほどで動画をほとんど全て見た。じつによく出来ている。まさにサブスクとユーチューバーの時代の映画批評だ。もっぱらB級クソ映画を評論の対象とする。

船橋の自宅アパートの部屋にマスクを被って現われ、自分はディズニーによって暗黒面に落とされた「ホッカイロレン」である!と力強く宣言する。「レジスタンスの諸君、ごきげんよう」と定型の挨拶から始まる。

この名前は明らかにスターウォーズ新3部作の仇役カイロ・レンに由来するに違いない。とはいえ、なぜ「ホッカイ」なのか杳として知れない。ディズニー的なものを敵に回して抵抗運動をつづけているらしい。30代のユーチューバーで、配下のトゥルーパー(=社畜)たちに定期的にクソ映画評を届けて鼓舞するのを使命とする。

「スターウォーズ」の権利がルーカスからディズニーに移って、新3部作が作られた。これらがいかに救いがたいクズ映画であるかは、もはや語られ尽くしたと言っていい。オレとしては最初から「どうせろくなことにはならんだろう」と確信していた。

とはいえ21世紀の高度映画産業の時代に、ディズニーがここまで破滅的な失策をやらかすとは、さすがに驚きだった。せっかく手に入れた「スターウォーズ」神話の輝かしい未来を自ら台なしにしてしまった。銀河の栄光は地に堕ちた。まさに暗黒面に堕ちたと言っていい。

オレ自身はさほどファンではない。アナキンがダース・ヴェイダーに変わるのを痛ましい想いで見送った時のように、「スターウォーズ」を自分のなかで静かに葬った。さらばだ!可能であったかもしれぬ、輝かしい日々よ。

しかるに世には熱狂的なファンが大勢いて、この作品で人格形成した!と断言して憚らぬ者も少なくない。かれらが被った打撃は大きかった。いかに「ディズニーショック」から立ち直るかが、その後半生の課題と化した。その闇落ちした気の毒な共和国軍の残党のひとりが他ならぬ「ホッカイロレン」である。

ホッカイロレンの映画批評の新しさ

ホッカイロレンは絶対に素顔を見せないことで匿名性を担保している。あたかもマンダロリアンのようである。同様にユーチューバーには顔を見せないスタイルが多い。

身バレの危険や、肖像権の問題も確かにあるけど、スマホやPCの画面に自らの顔を剥き出しにして、一定の時間、見るに堪えるだけの相貌の一般人はそういないと思われる。他人の顔を長時間眺めるのは辛いよ。見ている側が辛い。一般人の顔はアップに耐えられない。芸人や有名人でもキツイ。

かつてのデーモン小暮もそうだったが、マスクをかぶり、声を電子的に替え、素顔を見せないことで下々の聴衆に上から目線で「えっへん!」と高説を説くスタイルが可能になる。

ホッカイロレンの批評が優れているのは、どんな映画でもわずか6分から10分程度に話をまとめることだ。ポイントを絞り込み、けなすべき点と褒めるべき点を明確に区別する。

原稿を書いているようには見えない。あらかじめ言うべきことが頭に入っているようで、いささかも遅滞することなく滔々と弁じたてる。比喩がとても巧み。映画の1つのシーンを解りやすく説明するために他の映画やマンガを持ち出す。話の流れに即し、ネットの写真や資料をテンポよく貼り付ける。視覚的に一目瞭然だ。とても工夫されている。

あまりに下らぬ映画に絶望し、クソ!クソ!と身をよじりながら罵る。「カネをかけた映画をけちょんけちょんに罵るほどスッキリすることはない」「暗黒面は何て素晴らしいんだ!」。口先の批評ではなく、身振り手振りの全身を使ったパフォーマンスである。YouTube だからこそ可能な新しいスタイルの映画批評だ。

上であげた町山や宇多丸と違って、既成の業界から一切カネをもらってない。YouTube の広告収益と、若干の宣伝料のみ。業界とは関係のない単なる一映画ファンにすぎないから余計な気遣いをする必要がない。だから歯切れ良い批評ができる。無敵の評論家だ。

批評内容もツボを押さえているが、それを口先ではなく全身で表現するスタイルが新しい。ところどころでネズミ男(ディズニーのミッキーがヴェノム化したもの)との自作自演の小芝居を挟むのも飽きさせない。

キムタク版『ヤマト』を取り上げた際は、映画のなかで沖田艦長の出番がまったく無かったことに憤慨し、その死に瀕した写真を見せながら「年寄りの病気のジジイをなんだってこんな遠い宇宙にまで連れ出したんだ!」と絶叫する。思わず釣られて自分も爆笑してしまった。老人の扱いがひどすぎる。

『ヤマト』がそうだったように、とりあげる作品も新作映画ばかりではなく、サブスクで見られるドラマやアニメ、さらには古くてもう TSUTAYA にしかないようなDVDを借りてきて、取り上げたりする。これがいかにも懐かしい。批評対象が多様である。

『ファイナル・ファンタジー』など、昔映画館で見たのは確かだが、絵面だけ麗々しくて退屈極まりないストーリーの映画だったことしか覚えてない。その解説というか酷評をホッカイロレンから聴いて、やっぱ酷い映画だったと再確認できた。だからどうした?というわけでもないが……

今のサブスク時代、ただで見られる映画やアニメは膨大にある。B級作品に至っては無数にある。古いエンタメ映画も幾らでもある。これをホッカイロレンが身を捨てて自腹で見てくれ、その感想を YouTube に上げてくれる。おかげで私どもは見るべき作品、見る必要のない作品を弁別できる。

たとえば私は『死霊の盆踊り』を見たことがなく、長年少しばかり気にしてきた。が、ホッカイロレンが批評のために生き地獄の1時間半をこの映画に捧げてくれ、声涙ともに下る勢いで「人生の時間をむだにした!」と身をよじりながら絶叫する姿を見て、絶対に見る必要のない作品だと理解できた。だからどうした?というわけでもないが……

基本的に上から目線の批評ではあるが、実際には必ず番組の最後で、これは自分の視点からの批評なので、違う意見を持つトゥルーパーの諸君は、コメント欄に意見を書いてくれと謙虚に付け加える。「オレは平等主義者だが、すべての人を差別するという意味で、完全なる平等主義者だ!」という名言を吐く。ファンとの間に開かれたコミュニケーションを保っている。まことに新しい時代の映画批評だ。

映画文化の変質

先の町山智浩や宇多丸は、元来が雑誌の紙媒体出身である。たとえラジオやテレビで話をしたとしても、その映画批評は「書くこと」が前提になっている。くり返しを避け、盛れるだけの情報を盛り込む。自分の素朴な見方や感想よりも、客観的な情報の紹介を優先する。

これらは過去の名作映画や、現代の問題作、B級映画でも「スターウォーズ」のような古典視されている作品には有効で、かつ必要ですらある批評方法だと思われる。

ところが今の時代、そんなご立派な映画ばかりではない。というか、かつてのような知的な作品はひどく作られにくくなった。息も絶え絶えという惨状だ。

アメリカのアベンジャーズのような作品群は、ヒーローの仮面の下、現代の経済戦争を生きるアメリカ知識人の本音を語らせている。のみならず、そうした暗示や匂わせを気にしなければ、単純な戦闘モノとして楽しむこともできるような仕組みになっている。表/裏が歴然としてある。

これはかつての西部劇と同じ構造だ。爾来アメリカではずっと知識層と大衆層が分断されたままで、ハリウッドのリベラル知識人は映画という仕掛けを駆使して大衆を啓蒙しようと努めてきた。額面どおりの堅苦しい映画など撮れない。そんなの客が入らないので成立しないのである。

しょせん映画はサブカルチャーなので、大衆から支持を得ないと成り立たない。作家性の強い作品が興行的に厳しいのは仕方ない。それに、ヨーロッパやアジアの映画作家は限られた予算のなかで優れた作品を撮りつづけてきた。そうした連綿と続いてきた映画文化がサブスク時代にいよいよ危機に陥っている。大箱の大作映画しか収支が取れなくなっている。

ディズニーの野望

近年のディズニーの動きを見ていると、大衆教化に社運を賭けているとしか思えない。スターウォーズ新3部作の主役は女性のレイ(デイジー・リドリー)である。旧シリーズでは女のジェダイなど存在しなかった。公開当時は余り気にしてなかったが、制作側としては1つの賭けだったに相違ない。それにより女性の権利を主張せんとしたのである。

エピソード4・5・6がルーク、1・2・3がその父アナキンで、父子の確執が物語の中心になっている。なのにどこの馬の骨とも知れぬ浮浪児レイを新3部作の主役に据えるなんて、この時点で正気じゃない。ファンから批判されまくり、最後はトチ狂ってシスの暗黒卿パルパティーンの若き頃の落とし子とされてしまう!

悪やん、悪そのものやん!地獄の大魔王の孫娘やん!おぞましい娘!

ファンからなぜ批判されているのか、ディズニーにはさっぱり理解できないようだ。先日レイを主人公にした、さらなる新3部作の制作が発表された。現時点で確言できるが、必ずや興行的に大コケするであろう。

ただディズニーは確信犯と思しい。自分はさっぱり興味がなく、ホッカイロレンに教わったのだが、『リトル・マーメイド』の主役の人魚がアフリカ系アメリカ人の天才歌姫ハリ・ベイリーで、本国で物議を醸した。ヒーロー物『エターナルズ』の正義の戦士たちは人種も性別もバラバラ、のみならずゲイもいて、まさに現代のポリコレ、LGBTに配慮した設定になっている。

そこまでやる必要があるのか!とホッカイロレンは嘆くが、これは明らかに大衆宣撫をもくろむディズニーの政治的野望と見るしかない。ミュージカルや、ヒーロー物という外見こそ取っているが、根底には明らかに政治的なメッセージがある。アメリカ映画は今、極端に政治的になっている。

多すぎる!あまりに多すぎる!

それやこれやでアメリカの大作映画は絶賛迷走中である。同工異曲の作品が作られすぎ、観客に飽きられてきた。そのうえ映画産業にネット大手が次々に参入し、日々新しいドラマが作られ放映されている。多すぎる!無数に作られる作品群を視野に入れるのは到底不可能で、誰にも付いて行けなくなっている。

たとえば『トランスフォーマー』というシリーズがある。遺憾ながら私はすべて見ている。まことに知識人として恥ずべきことである。

が、ホッカイロレンには負けた。ただでさえB級と見なされる(べき)このシリーズにはタイトルだけ真似したバチもんが沢山あるらしく、それらのうち5作ほどを TSUTAYA で借りてきて論評する。よほどのヒマ人でしか思いつかない、画期的な企てである。そのうえで、マレーシアの低予算で作られたトランスフォーマーがなかなか見応えがあると判明する。だからどうした?というわけでもないが……

アマプラやネットフリックスやディズニーなどのサブスク動画には実写のみならずアニメ作品が無数にある。一時期アニメの新作を毎週全部見るという企てを自らに課したことがあったが、すぐにやめた。時間の無駄以外の何ものでもなかった。にもかかわらず、誰かが現代の映像作品の全貌を把握すべきである。

ヒマ人しか勝たん。そんな時代に、B級グルメとでも言うべき作品紹介をしてくれるホッカイロレンはまことに得がたい逸材と言えよう。とはいえ、むろん彼にも限界がある。おのずと偏りがある。

現代の映像状況において、その全体像を見渡すことができている批評家など1人もいない。ネットフリックスやディズニーのような巨大企業にも、そんな部門など存在しないようだ。ネットフリックスは明らかな傑作シリーズを採算が合わないと決めつけて次々に打ち切りにしている。

君たちはどう生きるか

そもそもディズニーがスターウォーズ新3部作で取り返しのつかない大失態を晒したのも、このシリーズにたいする敬意と批評性を欠いていたからだ。

ディズニーで「スターウォーズ」を作っている女の人、彼女に見出されて『オビ=ワン・ケノービ』を撮ってしまった女の人。キミらはスターウォーズを本当にくり返し見ているか?子供の頃からSF映画を腐るほど見てきたか?ライトセイバーごっこを一度でもやったことがあるか?というか、SF映画がそもそも本当に好きなのか?「トランスフォーマー」を全部見てるか?

悲憤慷慨するホッカイロレンとともに、同様の質問をおそらく宮崎ゴローにも投げかけるべきだろう。きみは生涯でジブリの映画以外を1本でも見たことがあるのか?たんに家業だから血筋だからと、あきらかな不適格者が映画を3本も撮ることがなぜ許されるのか?お仕事だからそれでいいのか。君たちはそう生きるか!

ちなみに宮崎駿の新作『君たちはどう生きるか』にかんして、ホッカイロレンは「わけが解らない」と投げ出している。日本の戦後思想という観点からすれば、きわめて解りやすい、というか単純すぎる図式的作品なのだが、おそらく「階級的」に彼には理解しがたいのだろう。

下々のトゥルーパーたちに解説してやるべきかもしれないが、今それだけの善意と熱意を持ち合わせていないのが我ながら残念だ。

ホッカイロレンは映画を見るには絶好とも言うべき千葉の船橋から大阪の日本橋方面に引っ越したそうである。ユーチューバーは身軽でええのう。とはいえ、大阪の下町の恐ろしさを何も知らないようである。ゾンビのような老人たちが朝から町を徘徊している。食べるものは串焼きとタコ焼きしかない。

いっそのこと、お前もユーチューバーに挑戦してみろ!と言われるかもしれないが、オレは話すのがからきし苦手だ。書くことに生涯を費やしてきた昭和の老人である。書く分にはいくらでも書けるが、話すのはハードルが高すぎる。

【付記】

ホッカイロレンの機械美学に感銘を受けた。以下に書き起こしておく。

メカとは金属ではない。生き物なのだ。

モビルスーツの動力源は核だかなんだか知らないが、
少なくとも現実のレシプロエンジンは生きている。
呼気、燃焼、排気、これらのプロセスは生命の呼吸そのもの。

シリンダーやシャフト、ベアリング(軸)……
ボルトの1本にいたるまで、すべてのパーツは細胞のように振動している。
金属の表面は一見冷たく見えるが、強い力でひしゃげれば、分子の動きで発熱する。堅そうに見える表面は、石ころ1つで傷がつくほどナイーブだ。

メカとは精密かつ力強く生きる生命体。だからこそ柔軟な手書き線で、表現することがベストなのだ。

ヘッドセットをつけて「紅の豚」を見ろ。宮崎駿の描くレシプロエンジンは芸術だ。シリンダーヘッドの脈動を爆音とともに感じ取れ。

ホッカイロレン

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