見出し画像

光の紋章


災害と事故でお亡くなりになられた方々の
ご冥福をお祈りいたします
また被災されました皆様に
心からお見舞いを申し上げます




 年末年始は、佐賀・長崎・宮崎を巡る小旅行に出かけた。写真が多いため、記事の投稿は前編と後編の2回に分けることにした。お時間のある時にご覧いただければ幸いである。

旅の途中で大きな自然災害と航空機事故のニュースを知り、いみじくもこの旅は行く先々で目の前に現れる風景の中に、人間の生と死を重ねて見つめる機会となった。
この地上に生き続けることは決して約束されたものではなく、死はいつ何時やってくるか分からないということを改めて思い知らされる。日常は当たり前のようにただ過ぎていくように見えて、まったくそうではない。生と死は隣り合わせにいつも目の前にある。にもかかわらず、そのことを深く理解することは遥か遠くに揺れる蜃気楼を追いかけることに似て難しい。

それでも尚私たちは死が訪れるその時まで問い続ける。

「生とは何か」
そして「死とは何か」

何が起こっても、何も起こらなくても、絶えず目の前にそれは立ちはだかっている。





九州小旅行記
前編



  遠藤周作氏の小説「沈黙」を、「ディパーテッド」「タクシードライバー」の巨匠マーティン・スコセッシ監督が映画化したものを何度か繰り返し観たことがある。キリシタンの弾圧が行われていた江戸初期の日本を描いた映像は、映画とは言え衝撃的だった。この舞台の一部となった長崎の平戸には、いつか行って現地の景色を肌で感じてみたいと思っていた。

「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか?」

映画「沈黙」より

この映画の中の台詞には、現代社会において、いやこの危機的状況にあって、尚更通用するものが多い。
そう、神は常に沈黙したままだ。

愚生は無宗教だが、20世紀後半にインドで人間探求を指南したオショウ氏の弟子となって以来、その活動に対してカルト宗教というレッテルを貼ることで世間を騒がせようと目論んだ日本のマスコミによって、誹謗中傷の記事を週刊誌に書かれたこともあり、弾圧や差別というものが過去の事とは思えないところがある。

我が瞑想の師オショウ氏は、1980年代前半一時期アメリカにいた時に、当時アメリカ政府内のキリスト教原理主義者の指示によって不当に逮捕拘束され、留置所のベッドの枕元に埋め込まれた放射性物質によって被爆。以後1990年に58歳という若さでこの世を去るまでの数年間、あまりにも酷い後遺症に苦しんだ。頭部と歯茎の激痛のため、すべて抜歯。一日じゅうベッドを過ごし、夜7時からのホールでの瞑想の時にだけフラフラな足取りで私たちの前に現れ、共に瞑想した。しかし苦しい表情は一切見せず、光輝くばかりの笑顔だったことが今でも鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。覚醒した意識は肉体感覚を超越することを身をもって証明して見せてくれた。死期は早まったが、弾圧には屈しなかった。

先日訪れた平戸の春日集落は、隠れキリシタンの伝統文化をもつ地域であり、海岸から険しい山間部に至るまでの一帯は、当時の人々が造った美しい棚田が広がっている。平成22年2月には国の重要文化的景観に選定。さらに世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産となる。

人間がこんなに哀しいのに
主よ 海があまりに碧いのです

遠藤周作「沈黙」

確かに平戸の海は碧かった。
そして神はやはり沈黙していた。
波の音、風の音以外は何も聞こえなかった。
もしかしてそれが神の声だったのかもしれない。


長崎県平戸市春日集落
















***


平戸には多くのカトリック教会があり、そのうちの2箇所を訪れた。教会内は撮影禁止の為に写真は撮ることができなかったが、風が建物に当たって反響する堂内のゴーという通奏低音のような音以外は何も聞こえず、とても深い静寂に満ちた神聖な場所だった。

幼少時代にカトリック系幼稚園に通っていたときのことをいろいろ思い出した。クリスマスの日、友人2人と共に西洋人の大きな体格をした、にこやかな神父さんに会いに行き、一緒に祭壇に祈りを捧げた。クラス担任のとても静かで優しいシスターが着ていた白い修道服が、いつもピカピカで綺麗で、それをいつもじっと見つめていた。キラキラと輝くオーラを放つような人だった。
その後成人してからいかなる宗教も信仰することはなかったが、その体験が神聖さに興味を持つきっかけとなったのかもしれない。

神は何処にいるのか?
宇宙の中心か、それとも万物の内なる中心か?
その問いもまた宗教とは関係なく、目の前にいつも立ちはだかっている。


平戸市 
カトリック紐差教会、カトリック宝亀教会及びその周辺














***


佐賀県武雄市の武雄神社に有名な御神木がある。本殿の奥にある小さな鳥居をくぐり、美しい竹林に囲まれた小道を抜けると、突然目の前に樹齢3000年という巨大な大楠が姿を現わす。
高さ27メートル、根回り26メートル、根元には約12畳の広さの空洞がある。
全国巨木ランキングでは第6位。
今までに見たこともないほどの巨樹だった。
姿は見えなくても、そこには神が住まうと言わざるを得ない神々しさに満ち溢れ、心底圧倒された。


佐賀県武雄市 武雄神社












***


有明海に面した佐賀県太良町を通過中、広々とした海岸に赤い鳥居が建てられているのが見えた。近づくと海の中にも鳥居が建てられ、珍しい光景だったので写真に撮る。この鳥居は近くの大魚神社のもので、背後にそびえる古より信仰の山と崇められてきた「多良岳」と沖合いの「沖ノ島」を結ぶ直線状に配置されている。引き潮時には鳥居の全景を見ることができ、歩いて通ることもできるとのこと。

白い海岸は初め砂浜だと思っていたが、足を踏み入れた時、これは砂ではなく、すべて打ち揚げられた白い貝殻だったことを知った。命の営みを終えた生き物たちの残骸は清らかで清々しくもある。波の穏やかな有明海ならではの神秘である。


佐賀県藤津郡太良町
沖之神(海中鳥居)









***


長崎の平和公園に隣接する「原子爆弾落下中心地」は地元の子どもたちが賑やかに遊ぶ街の公園だが、その一角に碑がそびえ立つ。
当初北九州市小倉が標的だったが、投下予定の前日に行われた爆撃によって市街地が煙に包まれ視界不良だった為、急遽目標を長崎に変更。上空約500メートルで炸裂した。
約3,000℃の熱と爆風により、爆心地周辺の樹木は焼き尽くされ、70年は草木も生えないだろうという「70年不毛説」が流れたが、しかし1ヶ月後には約30種類の植物が次第に芽吹き始めたという。

この場所には当時長崎の富豪所有のテニスコートがあり、女子挺身隊の宿舎にする計画で無人だった。
爆心地に一番近かった建造物は長崎刑務所浦上刑務支所。刑務所内にいた受刑者48人、刑事被告人33人、職員18人、家族35人の計134人が即死した。
現在、平和公園にその第一舎、第二舎の基礎部分が遺構として保存されている。

原爆落下中心地公園の北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられた。
平和祈念像の制作者北村西望氏は長崎出身の彫刻家。
神の愛と仏の慈悲を象徴し、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めたとのこと。

また平和祈念像の前方に位置する「平和の泉」は、体内まで焼けただれ、「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいった被爆者たちの霊に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いが込めて浄財を募り建設された泉。

平和公園は生き延びた人々の平和への祈りが込められた場所だが、原子爆弾落下中心地公園は、猛烈な悲しみの波動が今も消えずに残り続ける場所だった。


長崎市 原子爆弾落下中心地碑及び平和公園
















***


宮崎県にある「高千穂峡」は九州の代表的な観光スポットの一つであり、海外から訪れる旅行者も多い。地図を見ると市街地のすぐ近くにあるので徒歩で向かったが、渓谷までの道のりは思いのほか高低差があって驚かされる。

古代における阿蘇の火山活動と、その後の侵食活動によって浮かび上がった大地の裂け目のような造形美は、人の日頃の穢れを祓い落してくれる気高き癒やしの波動に満ち満ちている。

特に天岩戸神社西本宮から岩戸川に沿って歩くこと10分の所にある、天安河原あまのやすかわらでは、参道の行き帰りで身体感覚が明らかに変化したのを感じた。ここは日本神話によれば、天照大神が岩戸にお隠れになった際、天地暗黒となり、八百万の神がこの河原に集まり神議されたと伝えられる大洞窟である。

この高波動は高千穂一帯に広がり、この地に滞在する前後で、心身のエネルギー状態が異なり、軽やかになっているのを実感した。その変化は数日経った今でも続いている。

高千穂町を含めた阿蘇一帯の大自然は、大地の深淵から湧き上がるエネルギーを身近に感じることができるエリアであり、奥行きがとてつもなく深い。



宮崎県西臼杵郡高千穂町
高千穂峡、高千穂神社、天岩戸神社








































***


一説によると、長崎県諫早いさはや市の「いさはや」という地名の語源は、聖書に出てくる預言者「イザヤ」だという。

木内さんの臨死体験で、BC700に、この諫早の唐比に旧約聖書の預言者イザヤが上陸し、あまつさえ、温泉に入った…との下りがあり、名残として『Isahaya‥ヘブライ語でhは発音しない』、つまり諫早はイザヤから命名されたと書いておられます。

木内氏が臨死中に見てきた話では、このイザヤの双子の兄弟が身代わりで処刑後に死に、その後、弟子達に会いイスラエルを後にし、沖縄から日本に来るわけです。

このイザヤの伝説をもとに聖書が書かれローマによりイエス・キリスト伝説が誕生する。つまりイザヤはイエスのモチーフであったと。

番外編『島原半島と隠されたキリストの暗号』


イザヤの上陸地点とされる「唐比からこ」は、行ってみると駐車場もなく、訪れる人もいない広々とした静かな海岸だった。遠くには島原半島と雲仙の山並みが、目の前には雄大な橘湾が暖かな日差しに輝いていた。

ユーラシア大陸を東に進み、台湾、沖縄を経由して、日出づる国を目指したイザヤが、ここを上陸地点として選んだのは、波静かな平坦な海岸だったことと、できるだけ最終目的地とされる四国剣山に近い場所に上陸したかったからではないかと思う。
剣山の下にある洞窟からは戦後GHQが遺骨を見つけ出し、それは今バチカンに埋葬されているという話もある。

イエス・キリストのモデルとなった人物が他にいるという説は、前にデイヴィッド・アイク氏の著書で読んだことがある。その真偽のほどは誰にも分からないことだが、いずれにしてもこの話はとても興味深い。
日出づる国には、メタンハイドレートのみならず、まだまだ不思議と神秘と謎が山ほど埋蔵されているようだ。


諫早市 唐比海岸





***



I Fall in Love Too Easily
Pat Metheny



ありがとうございます




この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

🐭🐮🐯🐰🐲🐍🐴🐑🐵🐔🐶🐗😽🐷🦝🦊🦁🐺🐸🐨🦧🐬