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探すのをやめた

(文4100字 写真30枚)


 「ブルービー」を初めて見たのは昨年7月のこと。青と黒のストライプに身を包んだ美しい蜂だ。正式名称はナミルリモンハナバチ(学名:Thyreus decorus)で、ハチ目・ミツバチ科の昆虫。


世間では「幸せを呼ぶ青い蜂」と呼ばれている。どうやら2004年に出版された葉山祥鼎氏の絵本「ブルー・ビー 」の中に、そのような記述があるらしい。
全国的にも個体数が極めて少なく、県によっては絶滅危惧種に指定されている。もし出会えたらそれは幸運なこと、ということかもしれない。

この蜂はハエをひと回り大きくした位のサイズ。しかも色が黒っぽいので目立たない。動きが速く、じっとしていることがまずない。見つけても、ファインダー越しにピントを合わせようとする前に、もうどこかへ飛んでいってしまう。見つけることも撮影することも難易度がとても高い。


昨年出会ったこの花壇には、今年は7月からすでに毎週来ているが、なかなか見ることができずにいた。こうなると余計に見たくなるものだ。
だが今回も、しばらく園内をうろうろ歩き回ってはみたものの、やはり今日もいないなと諦め、ブルービーを探すのをやめた

でもせっかくここまで来たのだから、とりあえず今咲いている夏の花だけでも撮っておこうと、しゃがみ込んで目の前に咲いていた野鶏頭ノゲイトウの花にカメラを向けた。

その時だった。
目の前にそのブルービーが突然現れた
カメラを向けたその先の花にやってきたのだ。


なるほど。確かに幸せを呼ぶ蜂と呼ばれるだけのことはある。

カメラを持って歩いていると、何の期待も欲もない空っぽのような心境の時に、これはと思う被写体が、向こうからやってくるというようなことがよく起こる。こちらが探している時には見つからず、探すことをやめた途端に現れる。

それは花でも虫でも猫でも、また風景だってそうだ。風景が向こうからやってくるというのはおかしな表現だが、実際そのように見える。

写真だけではない。振り返ってみれば人生の様々な局面においてもそうだった。期待していると望むものはやってこない。期待するのを止め、心と頭が空っぽになった途端、それが目の前に、今ここにあるということに、はたと気づく。

このことは最近多くの方が感じていらっしゃることではないか。偶然性や共時性と呼ばれる現象が起こる背景には、そのことがベースにあるような気がする。


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    この「探すと見つからず、自分が空っぽになると向こうからやってくる」ということは、どうやら「悟り」という稀有な現象においても(その強烈さは比較にならないほど桁違いのようだが)、同じようなエッセンスが潜んでいるのではないかと思う。

悟りの現場で何が起こっているかについては、これまでに幾つかの体験談に触れる機会があったが、共通しているのは、その後しばらくの間、或いは数日、強烈な内的エネルギーの上昇と、それに伴う圧倒的な至福感、その後ずっと深い静寂が続く、と述べている点だ。

これは実際に起こってみないことにはまったく分からない。しかし、一人の人間が悟りを開く直前の状況は、どのようなものだったかは、ユニークな逸話も少なからず残っていて、とても興味深い。

前回の投稿記事内で紹介した大阪のオカン「ネドじゅん」さん自身の悟りの体験談は動画サイトで見ることができる。

過去に悟りを開いた人の中には、いくつか記録に残っているものがある。

以前、日本でのワークをオーガナイズしたことがあるイスラエル人の覚者ティオハは、26歳の時に覚醒したが、彼の場合はヒマラヤ山中で瞑想中、近くを流れる川が何らかの理由で上流で堰き止められたため、川の流れが徐々に細くなっていき、やがてせせらぎの音がぴたりと止んだ瞬間、悟りが起こったという。
ティオハの講話はこちら☟


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一休さんと呼ばれ親しまれている一休禅師が悟りを開いたのは、滋賀県大津市の琵琶湖畔。1420年5月20日、26歳の時、深夜、湖上に舟を浮かべて瞑想していた。すると闇夜の中からカラスが「カア」と鳴いた。

「カラスは見えなくてもそこにいる。仏もまた見えなくとも心の中にある。」と、その瞬間悟りに至ったという。
今日この湖畔には満月寺浮御堂まんげつじうきみどうが建立されている。5月の琵琶湖西岸は波もなく、静かな夜だったのではないかと思う。



さらに遡って鎌倉時代、尼僧の「千代能ちよの」が海蔵寺かいぞうじにて悟りを開いた時のこと。
この寺は、鎌倉駅から歩いて20分ほどの扇ガ谷の奥にひっそりと建っている。四季を通じて様々な花が咲く「花の寺」として有名だが、鶴岡八幡宮や明月院といった人気スポットの近くにある割には、いつ行っても誰もいない。

門前に鎌倉十井じっせいのひとつ「底脱ノ井そこぬけのい」がある。
鎌倉時代の武将・安達奏盛の娘である千代能は、長年修行を積んでいたが、悟りを得ることができずにいた。
ある月夜の晩、この井戸から水を汲んでいた時だった。
桶の水面には満月が映っていた。
すると突然その桶の底が抜け落ちて、見ていた月が一瞬にして消えてしまった。
その瞬間、悟りを開いたという。
その時のことは、後に千代能自身が和歌を詠んでいる。

『千代能がいただく桶の底抜けて
水もたまらず月も宿らず』

安達 千代能(あだち ちよの、生年不詳 - 永仁6年/1,298年)
鎌倉時代中期の安達一族の女性。
安達泰盛の娘。北条顕時の後室。法名は如大禅師無着。
絵の作者月岡芳年は、幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師。
(Wikipediaより引用)


千代能が悟りを開いた時の状況について、我瞑想の師オショウ(1931-1990)が、1974年にインドで行った講話の中で詳しく取り上げていたので、ここに一部抜粋し引用しよう。

 千代能は尼僧だった。
彼女は偉大な出家者だった。
彼女は素晴らしい美貌に恵まれていたと言う。
あまりに美しいので、ある僧院を訪ねた時には断られてしまった。
こんなに美しい女性を僧院に入れると、僧侶たちが動揺するかもしれなかったからだ。
その後、彼女は顔に傷をつけてやっと別の僧院に入ることができた。
彼女はすばらしい美人だったに違いないが、深いところではこう考えていたに違いない。
「私の見事な捨て方を見なさい。私はとても美しい女性だった。なのに私はその顔を傷つけた。こんなことをした者はかつていなかったし、これからもいないだろう。私はどんな犠牲を払っても光明(悟り)を得ようと決意している。」
こうして彼女は見逃し続けていた。
彼女は長い間修行してきたが、光明を得ることはできなかった。

光明を要求することはできない。
光明が訪れるためには、人は完全に消えなければならない。
神が訪れるためには、思考が止まなければならない。
光明は探し求めることによって見出されるようなものではなく、探求がすべて無益であることが明らかになったときに訪れてくる。
私は「探し求めてはいけない」と言ってはいない。
探し求めないかぎり、探求が無益であることは決して分からないからだ。
瞑想しなければ、「瞑想をする」のではなく、「向こうから訪れる瞑想がある」という理解には決して至らない。

だがある満月の夜、千代能にそれは起こった。
それは意表をついて、突然起こった。
それはいつも不意に起こる。
それは常に突発的に起こる。
だが私は、それは他の誰にでも起こり得たと言っているのではない。
それは千代能に起こった。
彼女が為したことはどれもその原因ではないが、彼女が為したことのすべて、彼女の内側にあるものすべてが、何をやっても失敗に終わる、人が成功することはありえないという理解を生じさせた。
彼女はまったく望みの無い状態だったに違いない。
その絶望は為しうることをすべてやりつくした時にはじめて感じられるものだ。
そしてその絶望が訪れたときに、はじめて希望が生まれてくる。
その救いようの無さの中で、自我エゴは大地に叩きつけられ、粉々になる。
人はもはや何ものも要求しない。

彼女は水をなみなみと張った古い手桶を運んでいた。
彼女は歩きながら、桶の水面に映る月を眺めていた。
と、突然、桶をたばねていた竹のたがが外れ、桶はばらばらになってしまった。
水はこぼれ、月影は消え去り、そして千代能は光明を得た。

光明は起こる時に起こる。
起こるように命じることはできないし、それを引き起こすこともできない。
それでも、それを引き起こすために多くのことを為すことができるが、どんな行為も光明を引き起こす原因にはならない。
どんな行為も光明をもたらしはしないが、光明を受け取れるよう自らを準備することにはなる。
それは訪れる時に訪れる。
あなたの行為はすべて、光明を受け取れるよう、それが訪れたことを知り、その到来を認識できるよう準備することに他ならない。

それは起こる。
だが自分に準備ができていなければ、見逃し続けることになる。
それは刻一刻と起こりつつある。
吐く息、吸う息のひとつひとつが光明をもたらす。
なぜなら、光明とは〈存在〉を成り立たせている素材そのものに他ならないからだ。
だが、それを認識するのは難しい。

光明とは何か。
それは本当のあるがままの自分を見る度量のことだ。
私たちに自我エゴというものはない。
自我というのは単なる思い込みにすぎない。
私たちがそれをつくりだし、それを投影している。
それは私たちの幻想であり、私たちの夢だ。
それは実在せず、現実にはないものだ。

気づきを深め、内側を見つめれば見つめるほど、自分というものは消えていく。
気づけば気づくほど、あなたはいなくなる。
そして覚醒が隅々にまで行き渡る瞬間、あなたは消え失せる。
もはや水はなく、水面に映る月影もなく、あなたの手は空っぽだ。

オショウ講和集『黄金の花の秘密』めるくまーる刊より



ブルービーが飛んでいた同じ花壇に咲く花たちは、7月初旬の暴風雨によって、ほとんど枯れたり、痛んでしまったように見えたが、そこから立ち直り、一ヶ月足らずで元気に花を咲かせるまでに回復した。
きっと植物たちは自分自身の中に、傷ついても必ず再生する力があると気づいているに違いない。


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北九州市 県営中央公園花の丘



















































Awakening
Greg Maroney



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