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秋薔薇と「ばら色の人生」


 秋薔薇あきそうびのシーズン到来である。今年も晴れた朝と、雨の朝の2回、市内にある同じバラ園に出かけた。天候によって印象が大きく異なるところが花写真の面白さ。明るい陽射しの下では彩り豊かに輝き、雨に濡れると艶めかしく光る。
春薔薇に較べるとやや小ぶりに見え、花数も少ない。しかし、その分一つ一つの花の存在感が浮き出て、より輪郭がくっきりしてくる。夏に向かう薔薇は期待に胸を膨らませるように盛大に咲くが、冬に向かう薔薇は過去を懐かしむようにひっそり咲いているように見える。



薔薇と言えば、シャンソンの名曲「La Vie en rose」(ラ・ヴィ・アン・ローズ)を思い浮かべる。1946年リリースされたエディット・ピアフ(1915-1963)の代表作である。フランスではこれまでに最も売れた曲であり、その後スタンダードナンバーとして、世界中のアーティストにも歌われるようになった。日本では「ばら色の人生」の邦題で数多くの歌手が歌い、宝塚歌劇団でも上演されるなど、「愛の賛歌」や「枯れ葉」などと並んで、とても知名度の高いシャンソンの一つ。

この曲はエディット・ピアフ自身による作詞。愛する男性イブ・モンタンへの想いを綴ったものとのこと。「ばら色の人生」という言葉を聞くと、そんなものはただの夢物語だと決めつけたくなるが、しかしエディット・ピアフの壮絶な過去を紐解けば、愛する人の存在がどれほど心の支えになっていたか、切々と心に響いてくるものがある。

エディット・ピアフとは随分とスタイルが異なるが、メロディ・ガルド―の歌もたいへん魅力的だ。個人的にはどちらかと言えばこちらの方が好き。
唯一無二の歌唱スタイルとも言える、彼女独特の心震えるような歌声でこの曲を聴くと、歌詞から滲み出てくる甘く切ない心情が、とてもリアルに伝わってくる。彼女はまるで自分自身のことのように歌っている。

この歌は世界中の歌手によってカバーされているが、メロディ・ガルド―は愛を高らかに歌い上げるわけではなく、まるで耳元で囁くように、しっとりと歌う。
彼女は若い頃に自転車事故による頭部の損傷を受け、一年間の寝たきりとなる。その後目の後遺症は残ったが、音楽療法によって復活を遂げた歌手。苦難を乗り越えた人の歌声からは、陰陽のハーモニーと、喜怒哀楽の色彩が入り混じった、聴く人の魂を癒す音の響きが聴こえてくる。



秋薔薇の花を、この歌の主役に置き換えてみても妙に似合う気がする。
薔薇の花の短命さは、愛の夢に似て儚い。
花びらは心の襞のように幾重にも重なりながら震え、その奥に秘められた繊細さ弱さを包み、想いを閉じ込める。
開花に至るまでの長い時間、焦らされるような日々を過ごし、やがて開花をむかえても美しい姿は長続きはせず、あっという間に終焉を迎え、花びらはあっけなく、はらはらと散ってゆく。
晴れた日には人の心に安堵と憩いのひとときを与え、雨の日には悲しみにそっと寄り添うように揺れている。薔薇が癒やしの花と呼ばれる所以なのだろう。





壮絶な人生を歌に捧げたシャンソン界最大の歌姫   

シャンソンに詳しくなくても、「ばら色の人生」こと「ラヴィアンローズ」や、越路吹雪が歌った「愛の讃歌」などは、聴けば「ああ、あの曲」と、誰にも馴染みがあるだろう。その両方の作詞者であり、オリジナル版を歌ったのがエディット・ピアフだった。
誕生は1915年のパリの下町で、本名はエディット・J・ガッシオン。父は大道芸の道化師で、母はストリートシンガー。エディットは歌声を母から、147センチという身長を、小柄だった父から受け継いだのだ。
ちょうど第一次世界大戦の最中で、父は徴兵され、まだ20歳だった母は、実家に赤ん坊を置いて立ち去った。そのためエディットは「母に捨てられた」という思いを抱いて育った。
母方の祖母は、ろくに赤ん坊の面倒をみず、兵役から戻った父は、自分の実家に預け直した。父方の祖母は娼家を営んでおり、エディットは気のいい娼婦たちに可愛がられて育った。
7歳になると、父は娘の育つ環境が気になり、みずから引き取って、大道芸の旅に連れ歩いた。見物客の投げ銭が多ければ、安宿に泊まり、稼ぎが少なければ野宿もした。
10歳の冬、父が病気になり、その日暮らしは行き詰まった。そのためエディットは街角でフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を思い切って歌った。それが知っている唯一の歌だったのだ。すると喝采を浴び、投げ銭は父の曲芸を超えた。
娘の働きで稼ぎが増えると、父は次々と愛人を変えた。そしてエディットが15歳の時に腹違いの妹が誕生。その世話まで押し付けられたのか、父のもとを去った。
パリの歓楽街でストリートシンガーになったが、まもなく運送業の配達係をしていた同年代の少年と同棲。17歳で女児を出産したが、生後2年で髄膜炎により短い命を閉じた。
これが原因で少年とは別れ、次は不良仲間と付き合って、からだを売れと強要された。しかし幼い頃から、娼婦たちの悲惨な末路を知っていただけに、かたくなに拒んだ結果、何年もストーカーとして付きまとわれた。
19歳の秋に転機が訪れた。凱旋門近くで歌っていたところ、ルプレと名乗る紳士が近づいてきて「私の店に来なさい」と声をかけてきたのだ。指定された日に行ってみると、そこは高級ナイトクラブだった。この時に「小さな雀」という意味の「ラ・モーム・ピアフ」という芸名をもらった。
エディットは初めてスポットライトを浴びて歌った。客たちは小さなからだから発せられる意外な歌声に聴き入り、終わったときには拍手と「ブラボー」の大歓声。一夜にして人生が変わり、レコードデビューも果たした。
だが2カ月後、思いがけない事件が起きた。不良少年たちがルプレの家に強盗に押し入り、抵抗したルプレが、拳銃で射殺されてしまったのだ。
この少年たちと面識があったため、エディットに嫌疑がかかった。警察で厳しい尋問を受けたが、結局は無関係で釈放。だが事件は新聞沙汰になり、歌手としての未来は閉ざされた。
その後、レイモン・アッソーという作詞家と出会った。ほどなくして恋仲になり、彼の指導で、立ち振る舞いから話し方まで洗練性を身につけた。芸名をエディット・ピアフと改めさせたのもアッソーだった。そして一流ホールの舞台にまで立たせてくれた。22歳で、今度こそシャンソン歌手としての輝かしい地位を確立したのだ。
だがアッソーが兵役に行くと、エディットは、ほかの恋に奔った。何より寂しさを恐れ、一人ではいられなかったのだ。以来、数知れぬ恋愛遍歴を重ねていく。特に美男の歌手志望や俳優の卵、若手作曲家などと出会うと、才能を開花させたくて恋に落ちた。
そんな一人だったシャンソン歌手、イブ・モンタンは後年「エディット・ピアフは愛を見つけ、愛を失うときに、より素晴らしいシャンソンを歌えた」と語った。彼との恋愛によってできた曲が「ばら色の人生」だ。男女の愛を切々と歌うからこそ、異性へのときめきや切なさが常に必要だったのだ。

33歳でアメリカに進出。ニューヨークの劇場でのリサイタルは、当初1週間の契約だったが、大絶賛を受け、21週間にまで延長された。
その間にマルセル・セルダンというボクサーと出会った。フランス領だった北アフリカの出身で、ラテン系の目鼻立ちに浅黒い肌を持ち、今までの音楽関係者とは、異なるタイプだった。リングでは死闘を繰り広げるのに、普段は極めて穏やかな人柄で、たがいに夢中になった。この頃にできたのが「愛の讃歌」だ。
マルセルには妻子がいたが、エディットは彼の離婚を望まなかった。自身が不幸な生い立ちだったせいもあって、ほかの女性や子どもを突き落とせなかったのだ。
当時、エディットもマルセルも、パリとニューヨークを行き来する仕事が重なり、頻繁に手紙や国際電話をやりとりした。船で大西洋を渡るというマルセルに、エディットは「早く会いたいから飛行機にして」とせがみ、優しい男は、それに応じた。
当時の飛行機は給油のため、アゾレス諸島という大西洋の離島に立ち寄った。マルセルの乗った機体は、この諸島の山中に墜落し、全員が死亡。
皮肉にも、この不幸がエディットの人気を、いっそう高めた。だが最愛の人を失って、暮らしぶりは徐々に崩れていく。怪しげな交霊術を信じ、深酒に溺れ、睡眠薬に頼った。
そんなときに交通事故に遭い、入院先の病院で、痛み止めのモルヒネ注射を受けた。精神的に安定していれば、問題はなかっただろうが、これが中毒への引き金になってしまった。
6年前、エディットの母親が、薬物中毒の末に他界した。有名になった娘から薬代をせびり続け、行き倒れのようにして亡くなったのだ。それを知っていただけに、エディットは専門病院に入り、壮絶な苦しみを経て、いったんは薬を絶った。
だが退院後、ふたたび交通事故に遭い、痛み止めにすがってしまった。エディットは生涯4度もの交通事故に遭っている。当時は飲酒運転が厳しく制限されておらず、そのための事故かもしれないが、彼女自身が不幸を招いた印象は拭えない。しだいに薬物によってからだはむしばまれていき、内臓に重い疾患を抱え、40代で老女のようだったという。
エディットは物欲とは無縁だったが、困窮している人を見ると助けたくなり、彼らを支えるために莫大な収入を費やした。たとえ借金をしても、いちどステージに立てば返済できた。しかし病身で歌うには、一時的でも元気を取り戻さねばならず、そのためにも薬物が手放せなかった。
人生の終盤に、歌手志望のギリシア人青年、テオ・サラポと出会った。エディットは幾多の恋をしたが、一生をかけて愛したのはボクサーのマルセルだけであり、一生をかけて待っていたのがテオだと語った。だが20歳も下で、エディットは年齢差を悩んだ末に、46 歳の10月9日に結婚に至った。
死は、それから1年後の10月10日。葬送には4万人ものファンが集まった。彼女の生き方は道徳的ではなかったが、純粋さが愛されたのだ。彼女自身、もういちど人生をやり直すとしても、同じ人生がいいと語った。  テオの結婚は遺産目当てと噂されたが、現実には借金しか残されず、それもテオが歌手としての収入で、数年がかりで完済したのだった。

植松三十里
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La vie en rose
Edith Piaf



作詞:エディット・ピアフ(Édith Piaf/1915-1963)

Des yeux qui font baisser les miens
un rire qui se perd sur sa bouche
voilà le portrait sans retouche
de l’homme auquel j’appartiens
Quand il me prend dans ses bras
il me parle tout bas
je vois la vie en rose
Il me dit des mots d’amour
des mots de tous les jours
et ça me fait quelque chose
Et dès que je l’aperçois
alors je sens en moi
mon cœur qui bat
Des nuits d’amour à plus finir
un grand bonheur qui prend sa place
des ennuis, des chagrins s’effacent
heureux, heureux à en mourir
Quand il me prend dans ses bras
il me parle tout bas
je vois la vie en rose
Il me dit des mots d’amour,
des mots de tous les jours
et ça me fait quelque chose.
Il est entré dans mon cœur
une part de bonheur
dont je connais la cause.
C’est toi pour moi, moi pour toi dans la vie.
Tu me l’as dit, l’as juré pour la vie.
Et dès que je t’aperçois,
alors je sens en moi
mon cœur qui bat.




その瞳に思わず目を伏せてしまう
その口元にはかすかな微笑み
それは紛れもない彼の姿
私が身も心も捧げる人
彼に抱きしめられ
ささやかれたら
私の人生はバラ色
彼は愛の言葉をささやく
毎日の言葉が
私を満たしていく
私の心の中に入り込む
幸せの一部
私はその理由を知ってる
私のために彼がいて
彼のために私がいる
人生をかけて
彼はそう誓ってくれた
彼を見かけるとすぐに
私は感じる
この胸の高鳴りを
終わりなき愛の夜
大きな幸せに包まれ
悩みや悲しみは消え去る
幸せで死んでしまいそう
彼に抱きしめられ
ささやかれたら
私の人生はバラ色
彼は愛の言葉をささやく
毎日の言葉が
私を満たしていく
私の心の中に入り込む
幸せの一部
私はその理由を知ってる
私のために彼がいて
彼のために私がいる
人生をかけて
彼はそう誓ってくれた
彼を見かけるとすぐに
私は感じる
この胸の高鳴りを

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晴れた日の朝











































































































雨の朝






























































La Vie En Rose
Melody Gardot



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