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続 花揺れる黄昏

(2021年11月6日投稿)


 9月11日付でnoteに投稿した「花揺れる黄昏」では、1980年代のビルマ(現ミャンマー)での旅の記憶と現在の情勢に関する事柄を結び付けたものを記事にしたが、今回は同じ旅で撮影したその他の写真と、その若干の説明を加えたものを投稿したい。 これらもフィルムカメラで撮った写真で、40年近く押し入れに無造作に保管していたためにだいぶ劣化が目立つ。 

 依然として混迷が続くミャンマー情勢にあって、ミャンマーの人々への応援の気持ちを込めて、この記事を投稿したい。  

前回の記事はこちら。


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 当時の首都ラングーン(現ヤンゴン)の中心部にそびえ立つシュエダゴン・パゴダ。
伝説によれば約2500年前に、考古学の研究では6〜10世紀の間に建立されたと考えられている。地震によって幾度も破壊されており、現在の仏塔の原型は15世紀ころ成立したと考えられている。
高さ99メートル。仏塔の鐘形の部分は蓮の花びら、バナナのつぼみ、パイナップルの花、傘の冠などのモチーフが飾られている。頂上部分には5448個のダイヤモンドと2317個のルビーが散りばめられており、一番上のダイヤモンドのつぼみには、76カラット(15 g)のダイヤモンドが飾られているとのこと。現在はよりカラフルな境内の雰囲気がネットの画像から見ることができる。


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 ラングーンの中心街。朝の目抜き通りには花売りの女性が多い。寺院を訪れる参拝客向けの花だ。朝の街にこうした女性たちが溢れるのは信仰心の熱いビルマならでは光景。これから寺院の参道近くに向かい、ずらりと並んで商いを始める。


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 朝の街の横断歩道。カメラに気づいた子がすかさずにこやかな微笑みを返してくるところがさすがビルマの子。


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 ラングーン市内スレーパゴダの受け付けの女性。彼女たちも始終笑顔が絶えなかった。


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 ラングーン市内の活気溢れる市場。今現在は分からないが数年前までもこの雰囲気は健在だったようだ。


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 寺院には参拝に訪れる若い女性の姿も多い。誰もが花を手にして祈りを捧げる。


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 朝のラングーン目抜き通り。歩道上に置かれた小さなテーブルとイスに腰かけ朝定食を頼む。食事が終わる頃を見計らって、店にいた若者たちがお茶の入ったやかんとカップを持ち、話をするために集まってきた。カップは私のための一つだけだった。日本からの旅行者でこういう所に来るのは珍しいらしい。異国の話に熱心に耳を傾けていた。おそらく当時の私と同世代だったので意気投合した。帰り際にお茶代は?と聞くと、そんなものはいらないよと笑った。皆誠実で優しい若者だった。


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 ラングーン市内シュエダゴンパゴダの境内。モンスーン特有の重く垂れこめた雲が時折激しいスコールを降らせる。水浸しの境内の床を素足で歩く人々。暑い季節にはその方がかえって気持ちがいい。日本の梅雨空を見るとこの街と人々のことを思い出す。


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 前の記事にも投稿したが、同じ場所で撮った別の写真をもう一度。土砂降りの中でも仲良く楽しそうにおしゃべりをしながら歩いていた。男女5人に傘は4つ。


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 祈りのひととき。ひとたび祈り始めると長い時間同じ姿勢を崩さず唱え続けている。ビルマの人々は自分自身のためではなく、人が幸せになることを祈るという。


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 ラングーンに隣接する河口近く、対岸の町とを結ぶ渡し船の船着き場の風景。
不便には違いないだろうが、行き交う人々や、船を漕ぐ男たちの姿には何か奥ゆかしい風情のようなものがある。インドのガンジス川でも同じような光景に出会ったが、少年たちが大人たちに混じり逞しく船を漕いで労働している姿には感服する。
下の写真は前回の記事に載せたが、同じ場所で撮ったものなのでもう一度。


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 通りに面した自宅前の歩道上で男性が一人晩飯を調理し、出来上がるとすぐにそこで食べ始めた。行き交う人々を眺めながらの特等席。夕方のメイミョー中心街にて。


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 夕暮れのマンダレー駅前広場。寝台列車が到着するのを待っていると、広場の一角でストリートパフォーマンスをする大人4人子供1人の5人グループがいた。
彼らはシンプルな伝統楽器を使った味わいのある民族音楽を通りすがりの人々に聴かせていた。大人の男3人は重度の身体障害者。女性と子供は一人の男性の家族だと思う。上の写真は曲の合間の休憩風景。曲が始まると女の子は3本の長さの違う竹の筒を持ち、それを地面に上から落とすことでボーンボーンという異なる低音を響かせてリズムをとっていた。
この女の子をずっとカメラで追っていると、彼女もそれに気づいて、こちらをちらりと見てはにかみ乍ら微笑んだ。白いイヤリングが可愛く似合う。ビルマで出会う子供たちの微笑みから伝わってくる、その心の穏やかさ暖かさにはいつも驚かされた。


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 一晩寺に泊めさせてくれと頼むと、本堂ならいいよと黄金に輝く仏陀像の前に案内してくれた気さくな寺の住職。翌朝話をしていると、突然日本語をぺらぺらと話し始めた。大戦中に日本兵から教わったと言っていた。


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 タイとの国境に近い町メイミョーの子供たち。狭い地域に異なる民族の人々が暮らしていた。まだそれほど大きくはない子供が自分の弟や妹の面倒をみている姿はあちらこちらでとてもよく見かけた。この子たちは道端で休んでいるときにみんなで私のもとに集まってきて取り囲んだ子供たちだ。


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 仕立屋の家族。アジアの国ではどこへ行っても、街の片隅でこうした小さな仕立屋を必ずと言っていいほどよく見かける。そして何故か仕立屋の人は大抵みんな陽気で人懐っこい。言葉は通じなくても、片言の英語で思いは通じ合う。同じアジアの同胞ということを至極感じるひとときだ。


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 バガンの遺跡近くにある安宿に泊まった際、新婚旅行中の夫婦と出会った。この時の話を前回の記事で書いた。それは以下の文だ。

 『別の日の夜、安宿で一緒になった若いビルマ人の新婚夫婦と話している最中に、それまでの数日間で経験し続けた、基本的かつ極めて大きな疑問を投げかけてみた。
 「なぜビルマの人たちは皆、見ず知らずの旅行者にもやさしく微笑みかけてくるのですか?」と。
すると若いお嫁さんがすかさず、きっぱりとした口調でこう答えた。
「人にやさしくすること、それは私たちの喜びなのです。」』

この写真に写る二人はその時の夫婦である。当時の私と同年代だったが、随分と大人びた人たちだったと記憶している。


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 バガンの夕暮れ。バガンの寺院群はカンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつと称される。
イラワジ川東岸の平野部一帯に大小さまざまな寺院や仏塔が林立している。その数は3000を超える。ほとんどは11世紀から13世紀に建造された。本来は漆喰により仕上げられた鮮やかな白色をしていたが、現在は漆喰が剥がれレンガの赤茶色の外観となる。


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 バガンの土は赤い。インドの土も赤い。遠いアフリカの大地も赤い。
遥かに遠い昔、ビルマもインドもアフリカの一部だったことの証である。

アルフレート・ヴェーゲナーの大陸移動説やプレートテクトニクスによると、インド亜大陸はパンゲア大陸から分離・移動して、ユーラシア大陸に衝突し、そのためにヒマラヤ山脈が隆起したとされる。現在もインド亜大陸は北上し続けている。マダガスカル島との動植物の類似から、一時はレムリア大陸説が唱えられたが、現在はパンゲア大陸内でマダガスカル島と同じ地域にあったという説が有力。(Wikipedia)


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どこまでも果てしなく続く寺院仏塔群。


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 バガンの寺院群のすぐ脇を流れるイラワジ川(現エーヤワディー川)。
まるで湖のように広く、対岸がはるか遠くに見える。全長2,170km。ヒマラヤ山脈の南端を源泉として、ミャンマーを北から南に縦断し、9本に分かれて広大なデルタ地帯を形作りマルタバン湾に流れ込む。河口付近には、川から名前を取られたイラワジイルカが生息している。ビルマ戦線時には数多くの日本兵の亡骸が流れていったという。


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 正方形の寺院の入り口はそれぞれの面に1か所ずつ計4カ所あり、どこから入っても目の前に諸仏の姿がそびえ立つ。こうした寺院は平面に描かれた曼荼羅を立体的構造物にした立体曼荼羅であり、密教の宗教観をより体感的に味わうことができる。構造的にも階段ピラミッドを彷彿とさせるもので興味深い。単なる遺跡ではなく、地元住民の日常の信仰対象ともなっており、敬虔な祈りを捧げる人々の姿が絶えない。

 地平線の彼方、雲間から現れた日没直前の夕陽を浴びて、赤色のレンガがより一層赤く染まった。

それはビルマの人々の優しく熱いハートの色のような気がする。





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