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漫画とドラマ

例の一件も、騒動が少し落ち着いて来たようなので、私も私なりに色々考えていた事を書いて見ることにした。

本当に様々な意見が様々な人から語られた。人がひとり亡くなっているのだから、事態を詳しく知らない者が滅多な事は言えないものだが、それぞれがそれぞれの感情の発露として、この事件に意見があったようである。
・初めからドラマ化に反対すれば良かった
・別のものとして割り切れば良かった
・テレビ局の制作体制が悪い

私も詳しく事情を知らない者の一人なので、事件そのものには一切触れる事はよそうと思う。原作者側にもシナリオライターや制作者側にも、寄り添う事も非難する事もしない。
ただ一般論として、漫画表現とテレビドラマという表現には、あまりにかけ離れた差異があると思うのである。

喩えるなら、極端な話だが、短歌を基に映画を作るという例を考えてみて欲しい。

瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

想い合う二人が、都会の人の波に呑まれ、時間に追われ、離ればなれになる物語、そう解釈したとしよう。現代のドラマは、すれ違いが無いとよく言われる。携帯電話の普及や連絡手段の多様化などによって「すれ違いようがない」というわけだ。では時代劇にするか?そういう問題ではない。
この短歌が書かれた時代、伝言板すら存在しない。時代の差異だけではない。そもそも、この歌が男女の歌だとは何処にも書かれていない。LGBTQに照らせば、どんな別れと出会いでも間違いではない。いやそもそも、本当に大自然の川の流れを表現しただけの歌だと解釈したら、人間ドラマは要らないかも知れない。ネイチャー番組を作ってもアリだろう。

甚だ極端な例を挙げてしまったので、本題に戻るのが難しくなってしまったw
何が言いたいかと言うと、つまりは「複雑さが段違い」なのだと言う事だ。
漫画にせよ小説にせよ、原作には詳細の未確定な要素が沢山含まれている。
具体的にするという行為は、曖昧で未決定な部分を、目に見える物象に落とし込んで行く事だ。つまり「付け加え」る事は必然なのである。
さぁそこで、可能な限り原作の意図や魅力を損なわないよう、忠実に芯を守りながら、未確定な部分を具現化する、という行為が望ましいのだが、果たしてそんな事は可能なのだろうか?
表現物は作家の手を離れる。完成した直後からだ。つまりは原作の魅力などという概念は、当の作者自身もわかっていない。意図したものとは違う事に、人々は感動する。むしろ、作者の意図通りに理解し、感動するのだとしたら、それは作品と言えるのか?最早プロパガンダではないか?
プロパガンダでさえ、100%宣揚に成功するわけではない。「〇〇チャン可愛かったねー」しか見てない人だっているのだ。高橋メアリージュンのファンで、彼女が出ていれば何でも構わない人だっているのだ。作者が意図したテーマを作者と同じように理解する人も居ないだろう。ましてや作品の魅力ともなれば話は更に別だ。
石ノ森章太郎がお亡くなりになっていれば平成ライダーだろうがシン仮面ライダーだろうが仮面ライダーの魅力を忠実に再現したと言い切れるのだ。原理系カルト宗教と同じだ。原典に立ち還るといえども、その原典の解釈は教団に委ねられていて、結局は教団幹部の都合でしかない。
では作者が生きていればどうか?キリストが生きていて、ブッダが生きていて、「いやいやそれは僕の意図した事と全然違うよ」と言ったらどうなるのか?
「違わなーい!」と言う奴が必ず現れるのだ。「お前はいいからすっ込んでろ!」と。
キリストやブッダに向かってさえ、そういう奴は言い放つに違いない。
作品が作者の手を離れるとはそういう事だ。
作品はそれに触れた人の中で熟成する。たとえば、役者は役を腑に落とすために、作品に表現されていないところまで解釈を拡げなければならない。それが具現化だ。
同じネームでも、作画する漫画家によって全く違う作品になる可能性はある。
たかだかこのニアリーな関係にある両者に至ってさえ、具体化するという事は作品をより理解する必要がある。勿論、原作者が決めていないところまでもだ。解釈は個々人が原典を大切に思う気持ちに委ねられている。
リスペクトとか作品愛とか、言い方は様々だが、その人その人の内的な感動がある。変えて良い部分と変わってはならない部分もそれぞれ後継者に委ねられる。
誰かが作ったものをブラッシュアップする人は、作った人を尊敬すべきだし、作者もまた、ブラッシュアップしてくれる人を尊敬するべきだ。人の仕事を盗むべきではないし、仕事を人に押し付けるべきでもない。それは単に権利の問題や名誉の問題ではない。誰が署名したって構わないし誰の懐に金が入ろうが構わない。ただ、ただ、重要な事は、人類として、素晴らしい作品を世に送り出すという事でしかないのだ。


2024.2.28

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