「概念を認知する」ということ(認知学習論)
大学院で学ぶ「学習のデザイン」今回は概念についてです。
私たちは「概念」という言葉を仕事でも日常会話でも、よく使います。でもあらためて「概念って何?」という概念の概念をメタ認知的に考えてみたことってあまりなかったので新鮮な視点です。
境界があいまいな概念
概念の定義について見てみましょう。まず1つめです。
たとえば少年という概念だと、内包と外延はこうなります。
内包:男性、6-12歳くらい
外延:青年や幼児との違い
この整理は定義を示すことに役立ちます。そしてここがズレると、概念の認知は変わります。
例えば、白鳥はこれまで白いという内包の概念が定着していましたが、実は黒い白鳥=ブラックスワンが発見されたことで、白鳥の概念は変わりました。
別の例では、家具の概念があります。ソファ、タンス、テーブルは家具の概念に当てはまります。でもカーテンはどうでしょう?あるいはテレビは家具になりますか?実は外延の境界はあいまいです。
知識構造がない概念
概念にはもう1つの定義があります。
単純に知識とほぼ同じように使われることもあるという意味です。例えば少年だと「遊ぶことが大好きな子ども」とか「小学校に通っている子ども」といったような知識を集めたものが概念になります。
でも知識に基づく概念と理論は違います。
鳥を例にあげて考えてみましょう。鳥の理論は、鳥類に分類に基づいた知識構造になっているので、区分は明確に示されます。ニワトリやペンギンも鳥類に分類されます。
一方で鳥の概念は、空を飛べる生き物、羽が生えている生き物といった知識に基づいています。じゃあ、ニワトリやペンギンって鳥なのだろうか?チョウチョは羽があるけど鳥ではないよね、と言ったロジックの甘さが浮き彫りになります。
この違いは、知識が構造化されているかによる差です。
概念は事例ベースで積み上がっているものが多いので、科学的な成り立ちをもっていません。なので「概念的」という言葉は、全体像を捉えているけどなんかあいまい、という意味合いで使わるのはこのような理由です。
見直される概念
なので、概念はよく見直しがあります。古典的な例でいえば、地球が丸いと証明される以前の地球は平坦な土地という概念でした。現代でもよく見直しがされています。たとえば学校教育でいうと、
兎跳びは有効だ、運動中は水を飲んではいけない
1192つくろう鎌倉幕府
紙の辞書を使わないと単語は覚えられない
髪を染めたりしてはいけない
教室みんなで仲良くするべき
など、科学的な視点以外でも概念の見直しは割と短期間で発生しています。
誤った概念の書き換え
一度身についた概念は強固なので、書き換えるには失敗したり矛盾に気づいたりなどの、衝撃的な出来事が必要です。
学習者が持っている概念はばらばらな知識から成り立っています。鳥の例でいうと、生き物・羽がついている・空を飛んでいる…などの知識を集めたものから鳥の概念が形成されます。
もし子どもが「チョウチョも鳥」と考えたら、それを真っ向から否定しても本人が持つ定義とはあっているので、概念を簡単には書き換えできません。そこで、骨に着目してみようとか、くちばしがあるかとか、鳴き声はするかとか、新しい知識を入れることで鳥の概念の精度が高まります。
ここで大事なのは、概念を誰かと共有+議論することです。このプロセスを踏まないと自分の中で固定化された概念が凝り固まってしまいます。端的にいうと「素直な気持ちで話し合うこと」が概念の学びには欠かせません。
これは、アンラーニングの学習方法としても効果的だと思います。
学んだこと
僕の研究テーマは創造性の学習なので、概念をとらえることは強い関係性があります。
ただ、概念を修正する教え方はとっても難しいはずです。なぜなら、その概念は本当に間違っているのか?ということを教える側が指摘することが、創造性の妨げになるからです。
理論の指摘はできても、概念はあくまで概念で構造はなく、人の捉え方によって概念が違うことは自然だとも思います。他とは違う概念の捉え方をしたことでオリジナリティにつながったり、誤読した状態で創作することで新しい概念ができる可能性もあります。
なので、もし僕が何かを教えるときには、概念という概念を正しく理解したうえで、個々人が持つ概念を尊重して強制はしない、という姿勢を大切にするべきではないかと考えるに至りました。概念って奥深い。
今日はここまでです。
デザインとビジネスをつなぐストラテジーをお絵描きしながら楽しく勉強していきたいと思っています。興味もっていただいてとても嬉しく思っています。