日本の教育史(教育学基礎理論)
大学院で学ぶ「学習のデザイン」、前に西洋の教育史について書いたので、今回は日本です。時代に沿って見ていきましょう。
飛鳥・奈良時代
聖徳太子が国を統治するために定めたといわれる「憲法十七条」は、仏教や儒教の理念に基づくもので、和の精神が豪族や貴族に広まりました。ただ、この時代は主に一部の権力者だけに限られた教育です。
鎌倉時代
仏教が民に広がったのは鎌倉時代でした。この頃はまだ民の識字率は低かったので、お坊さんが話し伝える「辻説法」による聞き学びでした。そこから寺での教育につながっていきます。
戦国時代
寺教育が普及するにつれて、大名の後継ぎなどが、土地を守り兵法を学ぶために、武士への教育が広まります。このながれはキリスト教が学校をつくり展開するながれと似ており、宗教と教育の力関係は互いに強く依存しあっています。
江戸時代
江戸時代は教育が多くの人に一気に広がります。
庶民の教育では寺子屋があります。読み・書き・そろばんの基礎学習が教えられていたため、日本の識字率は当時かなり進んでいました。庭訓往来(ていきんおうらい)という教科書に相当するものが使われていました。
武家では儒教の朱子学が広まり、寺から離れて、藩が運営する藩校がつくられます。国学、洋学、医学、兵学など、学習の幅は広がりました。そして、そこから私塾が発展していきます。
例えば、解体新書を刊行して医学の発展に貢献した杉田玄白は、私塾のなかで医学や蘭学の研究を重ねていました。他には適塾や松下村塾など、近代日本の礎となった活動も私塾から生まれています。
私塾がすごいのは、この時代ですでにアクティブ・ラーニングを取り入れていたことです。有名な話として松下村塾の吉田松陰は、みんなで話し合いをさせて、自分も議論に加わっていったというスタイルをとっていました。
明治時代
新政府設立にともない、国をあげて教育制度をつくることになります。時系列で見ていくとバタバタと変わっていきます。
1871年:文部省の設置(国で教育を共通化する)
1872年:学制=小・中・大学の設置(反発が多かった)
1879年:学制を廃止して地方自治に移管する
1886年:義務教育が規定される
1890年:教育勅語の教えが入り、教育に軍国主義のながれが強まる
1900年:授業料が無償化され、就学率が80%を超える
一気に変わったので教育現場は混乱しますが、義務教育が定着したのは大きな成果です。ただし不幸なのは、同時期に軍国主義が教育思想に組み込まれていったことでした。
72年の学制では、福沢諭吉「学問のすゝめ」の影響や、ペスタロッチの「すべての人は教育をうける権利を持つ」という考えから、国ではなく自分のために学ぶこと、という純粋な思想をもとに建てられいたのに、日本全体で変えていくために国が介入する結果となりました。
現代(世界大戦後)
戦後、GHQによって憲法改正が行われますが、戦後教育は軍国主義の反省から成り立っています。
まず憲法で教育について定められています。
教育基本法で平等な教育機会についても定められています。
戦後教育のポイントは次の点で、民主主義的な教育制度が現代になってやっとできあがりました。
社会的身分によらず能力に応じた教育
経済的状況に対する援助
小中高と一本でつながる教育機会と9年の義務教育
政治的影響力の排除
これまで紹介した西洋や東洋の教育史は、こちらの本に詳しく書かれています。(地味だけど興味ある人にとっては面白いです)
学んだこと
江戸時代の文化生活水準は世界的に高かったといわれてますが、その1つに教育環境が強く影響していると分かりました。各々が自発的に学んで探求した結果、医学や政治や芸術の発展につながりました。
私塾のアクティブ・ラーニングは現代でも見習う点が多くある一方、思想を伴うので一部からは危険視もされていました。そういった背景もあり明治時代に、この私塾の要素が表に出なかったのではないかと考察します。
1960年代に広まった学生運動も、学生たちによる自発的なアクティブ・ラーニングだといえます。学生運動の右翼思想と左翼思想は、江戸時代の尊皇派と開国派と似てるともいえます。放任のアクティブ・ラーニングは良い面も悪い面もある、ということを歴史から学べます。
アクティブ・ラーニングについては前回こちらで書きましたので、興味ありましたらのぞいてみてください。
今回はここまでです。
デザインとビジネスをつなぐストラテジーをお絵描きしながら楽しく勉強していきたいと思っています。興味もっていただいてとても嬉しく思っています。